第97話
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シェルミーネ・グラークは今、ルチア・バルファドールと繋がっていた。
雷鳴を轟かせて宙を駆ける、電光によってだ。
人間の原形を失い、巨大な肉塊と化したルチアが、烈しく帯電する触手を無数、振り回し、この場に在る全てを粉砕せんとしている。
アドランの山林を、そこに集う敵味方の戦闘部隊ことごとくを、薙ぎ払い灼き払わんとしているのだ。
それら触手の何本かが、シェルミーネに向かって電光を放射している。
襲い来る放電の光を、右手の長剣で受けながら、シェルミーネは歯を食いしばり、鮮血の涙を流していた。
細身の刀身に、荒れ狂う電光が絡み付いている。
刀身から柄へ、五指と掌へ、体内へと、電光が流れ込んで来る。
流れ込んで来た魔法の電光が、シェルミーネの体内で、魔力へと戻っていった。
ルチアを異形に変えた力……大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの、荒ぶる魔力。
それが今、シェルミーネの肉体をも、変異させようとしている。
全身各所が、めきめきと音を立てて震え、痙攣するのを、シェルミーネは止められなかった。
痙攣で済んでいるのは、淡く白い光が、粉雪の如く投げかけられ、全身を優しく包んでいるからだ。
清らかな、聖なる光が、シェルミーネの肉体を変異から守ってくれている。
辛うじて、である。
この光が途絶えた瞬間、自分は、今のルチアと同種の異形と化す。
あの哀れなデニール・オルトロン侯爵やバレリア・コルベム夫人と、同じものに変わってしまう。
「……ミ……リエラ……さんっ……!」
端整な上下の歯を、血に汚しながら食いしばり、シェルミーネは呻いた。
「駄目……私から、離れて……!」
ミリエラ・コルベムは、しかし離れてはくれない。
可憐な両手で、聖なる光をシェルミーネに投げかけながら、こちらを見つめている。
可愛らしい唇を、頑なに引き結んでいる。
その悲痛な表情を見るまでもなく、明らかであった。
長くは、保たない。
ミリエラのもたらす聖なる護りを、荒れ狂うヴェノーラ大皇妃の魔力は、蹴散らしにかかっている。打ち砕かんとしている。
シェルミーネの体内で、だ。
(陛下……大皇妃ヴェノーラ……ゲントリウス……陛下……)
およそ五百年前。
この荒れ狂う魔力を棺に押し込め封印し、己の死を偽装してのけた人物に、シェルミーネは心の中から語りかけた。
(貴女様は、今……この時代まで、生き長らえて……何を一体、しておられますの……? 御自身の、死を……捏造、なさってまで……)
ひとつの姿が、脳裏に浮かんだ。
闇色のローブに身を包んだ、一人の男。
男、であるとシェルミーネは思っていたのだが。
細身の長剣が、電光の中で砕け散った。
荒れ狂う放電の光の嵐が、直にシェルミーネを襲う。
この凶暴なる力を、素手で受け止める事など出来るのか。
ミリエラの聖なる光もろとも、自分は一瞬にして灼け砕けてしまうのではないか。
異形に変わる前に、跡形も残さず死んで失せる。ましな死に様、とは言えるのか。
そんな事を思いながら、シェルミーネは倒れていた。
灼け砕けては、いない。
触手からの放電は、止まっていた。
いや止まってはいないが、シェルミーネの方には来ていない。
引き受けてくれていた。
豹の如くしなやかに駆けて来た、人影がだ。
放電する巨大な肉塊に、疾風が突き刺さった。そう見えた。
疾風そのものの、踏み込みと刺突。
恐るべき手練れ、である。
ガロム・ザグに勝るとも劣らない、とシェルミーネは見た。
それほどの剣士が、防御・回避・保身・生存、それら一切を捨てて身体ごとルチアにぶつかったのである。
手にした長剣は、刀身の根元まで突き刺さり埋まっている。
剣士の身体そのものが、巨大な肉塊にめり込んでいた。
めり込みながら、電撃を受けている。
肉塊から発せられる放電光が、全て、その剣士に集中しているのだ。
「…………駄目……ルチアお嬢様、それは……駄目ッス……」
電光に灼かれながら、剣士は呻く。
「バケモノに変わっちまっても、いい……人なんか、いくら殺したって構わねえ……けど! 自分を……無くしちまったら、駄目なんスよぉおお……ッ!」
生きた肉が焼け焦げてゆく、凄惨な臭いが漂った。
「お嬢様……あんたは今、おかしなもんに乗っ取られてる……」
黒焦げになりながら、剣士は声を発していた。
「それでトチ狂って、大量に人間……殺して……そん中に、アイリ・カナンを殺した奴がいたとして!」
気力で、剣士は全身を防護している。
そうでなければ、黒焦げの屍すら残さず、一瞬にして灰に変わっていただろう。
「それって、仇! 討った事になるんスかぁああああああああッ!」
長くは保たない。
黒焦げの屍と化すのは、時間の問題だろう。
「仇討ちの相手が、病気か何かで勝手に死んじまうのと、一体何が違うんスか!?」
それでも剣士は、叫んでいた。
「しっかりしなきゃ駄目っすよルチアお嬢様! 本当に悪い奴を、あんたが突き止めて! あんたが、そいつに罪を思い知らせる! 復讐ってのは、そうじゃなきゃでしょ……ルチアお嬢様、御自身が……どこにも、いなくなっちまったら……意味、無いんスよ……」
にゃーん……と、猫の鳴き声がした。
帯電・放電する巨大な肉塊が、ぐしゃりと歪んだ。
獣人クルルグの、まるで流星がぶつかるかのような飛び蹴り。
それがルチアの異形化した巨体を、激しく凹ませていた。
その間。
めり込みながら電光に捕われていた剣士の身体が、ルチアから引き剥がされ、遠ざけられる。
一人の女性によって、である。
「このっ……考え無しの、バカお猿が……ッ!」
シェルミーネよりも幾分、年上かと思われる若い女。
大の男を抱え運ぶ事など出来そうにない細腕で、剣士の負傷した肉体をしっかりと保持している。
いや違う。
たおやかな細身の一部がグニャリと変異し、黒焦げの人体を絡め取って運搬しているのだ。
何だ、とシェルミーネは思った。
今のルチアと同じく、悪しき力によって人間ではなくなっているのか。
変異した女の身体が、荒れ狂う電光に灼かれながらも苦しげに駆ける。
女は、美しいとは言える容貌を悲痛に歪めながらも、苦悶を噛み殺している。
もう生きていないのではないかと思える剣士を、身を挺して守っているように見えた。
クルルグも、同じく電撃に灼かれていた。
縞模様の獣毛が痛々しく焦げ、その下から、血肉の焼ける臭いが漂い出している。
牙を食いしばりながら、クルルグはよろめき、後退する。
そこへ、電光を帯びた触手が、雷鳴を発しながら殴りかかった。
もはや黒焦げの屍にしか見えぬものを、懸命に抱き運ぶ女性にも、帯電する触手が襲いかかる。
逃げるべきだ、とシェルミーネは思った。
ルチア・バルファドールの一党が、仲間割れを引き起こしている。
そこへ介入しなければならない、理由はないのだ。
ミリエラを担いで、この場から遠ざかる。
自分が今、最優先で行うべきは、それである。
「いい加減……私も、学習をしなければ……いけませんわね……」
あの時と同じだ、とシェルミーネは思う。
あの時、自分は判断力を失っていた。
弾みで人を刺してしまったアイリ・カナンなど、放っておけば良かったのだ。
なのに自分は、誰も幸せにはならない愚行をしでかした。
あれが結局、全ての元凶と言えるのではないか。
シェルミーネは、いつの間にか立ち上がっていた。
先程、大量に流し込まれたヴェノーラ・ゲントリウスの魔力が、体内で渦巻き、息づき、荒れ狂っている。
シェルミーネの肉体は今、いつルチアの如く変異しても、おかしくない状態にあるのだ。
変異を免れているのは、ミリエラの聖なる力によるものだが、それもいずれ保たなくなる。
荒れ狂っているものを、体外へ放出しなければならない。
「……そう……私は、自分の身を……守っている、だけ……」
シェルミーネは、左手を掲げた。
荒れ狂うものが、少しずつ、放出されてゆく。
淡い光として、可視化を遂げつつある。
「……人助け……なんて、考えておりませんわ……」
光を、シェルミーネは左手で掴んでいた。
地を蹴り、踏み込む。駆ける。
左手では、光が、可視化に続いて実体化を遂げていた。
ヴェノーラ・ゲントリウスの魔力が、質量を獲得し、物質と化したもの。
それは、鞘を被った長剣である。
自分は、またしても判断力を失っているのか。
否、と思い定めながらシェルミーネは踏み込み、右手で抜き放った。
左手に握った鞘から、荒れ狂う力そのもの、と言うべき刃をだ。
「この力……早急に、解き放たなければ! 私が保ちませんもの!」
解き放たれた力が、空中に、いくつもの閃光の弧を描く。
斬撃の、弧。
電光の触手は、全て切断されていた。
尻餅をついたクルルグの近くで、切り落とされた触手が地面を叩き、暴れながら萎びて崩れ、消滅する。
黒焦げの剣士を抱えた女が、呆然と立ち尽くす。
その周囲でも、切断されたものたちが、びちびちと地面を打ちながら崩れ消えてゆく。
触手と電光の発生源であった巨大な肉塊が、まるで悲鳴を上げるかのように大きく痙攣した。
そこへシェルミーネは、抜き身の長剣を突きつけた。
優美にして鋭利な、細身の刀身。
大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの、物質化した魔力であった。
「私が今、判断力を欠いている……ように見えるとしたら。それはヴェノーラ陛下のせい、ですわよ」
また悪い癖を出しましたね、シェルミーネ様。
ガロム・ザグの、そんな声が聞こえたような気がした。




