第70話
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子猫か、齧歯類か、判然としない小動物である。
それが、翼を生やしている。
飛んで逃げて行く事も出来るだろうが、それはさせない。
契約を、交わしたのだ。
しばらくの間、王妃の掌の上で愛想を振り撒く事。
それをさせるだけで、人間の血液が少量、必要となる。
他人から血液を奪うのは、十歳の小娘である私には、いささか重労働に過ぎる。
だから、自分のものを使うしかなかった。
当然、王妃には内緒である。
「可愛い〜」
何も知らぬままクランディア・エアリス・ヴィスケーノ王妃は、私の召喚した魔界の小動物を愛でている。
三十代。私の、母親のような年齢の貴婦人である。
美しい、とは思える。
王都では、才女として知られていたらしい。
どれほどの叡智をお持ちであらせられるか、田舎貴族の娘である私ごときに計れるはずもない。
私より、ずっと頭が良い。気品もある。
私があと二十年成長しても、こうはなれぬ。
それが、わかるだけである。
ヴィスガルド王国北部、バステル地方。
良く言えば風光明媚な土地で、王都に居られなくなった貴人が流されて来るには、ふさわしい場所と言える。
王妃クランディア・エアリスのために建てられた邸宅で、私は今、見習い侍女をしている。
クランディア王妃が、何故だか私を気に入り、こうして御側に仕えさせてくれているのだ。
王妃は今、邸宅の露台で椅子に座り、綺麗な掌に小動物を載せているところである。
「うふふ、初めまして。私はクランディア、この国の仲良し王様夫婦の片割れよ。今ちょっと夫婦喧嘩の真っ最中だけど」
小動物が、小さく可愛らしく、あざとく鳴いた。
私が流した血に見合う程度の仕事は、してくれている。
魔界の生き物たちは、義理堅く律儀なのだ。
然るべき代価を払えば、こうして召喚に応じ、術者の求める事をしてくれる。
あざとく懐く小動物を、愛おしげに撫でながら、クランディア王妃が私の方を見た。
「ありがとうね、マローヌ。こんな可愛い子を呼び出してくれて……腕、どうしたの?」
「あ、いえ。ちょっと転びまして」
右手で、私は左の前腕を押さえ隠した。
手首から肘の辺りまで、包帯が巻かれている。
「…………そう。召喚って、そういうものなのね」
私は何も言っていないのに、王妃の優しい笑顔は悲痛な翳りを帯びていた。
「ごめんなさいね……私が、無茶なお願いをしたばかりに……可愛い子を召喚して欲しい、なんて」
「……クランディア様を、お慰めしたい。それは私の、自分勝手な願望ですから」
私は言った。
「私が何かしら代償を払うのは、当たり前の事なんです。どうか、お気になさらないで下さい」
「優しいのね、マローヌは」
「そんな事、ありません」
本心から、私は言った。
私が、優しい人間であるはずがない。
今も、私の中では、とてつもなく残酷な思いが渦を巻いている。
クランディア・エアリス王妃。
この誰よりも心優しい女性を、王都から追い出した者たち。
その全員を、召喚の餌にしてやりたい。
下級の魔物を召喚し、その者どもの中に放り込む。
魔物は、そやつらを生きたまま切り刻み、補食し、満足して魔界に帰ってくれる。
否。その者どもの魂を魔界へ持ち帰り未来永劫、虐め抜く。
そんな事ばかり考えている私が、優しい人間であるはずはなかった。
魔界の小動物が、あざとく鳴いて甘えてゆく。
クランディア王妃は幸せそうに、本当に幸せそうに、その小さな生き物を抱いて撫でる。
傷付いたのだ、と私は思った。
この王妃は、どうしようもなく傷付けられて王都を逃げ出し、自然の豊かさしか取り柄のないバステル地方で、世捨て人のように生きなければならなくなったのだ。
王妃様を、傷付けた者たち。
生かしては、おけない。一人残らず、召喚の餌として惨殺する。
魔界の小動物に救いを求めるような、クランディア王妃の笑顔を見つめ、私はその思いを燃え上がらせた。
「あの……クランディア様は……」
本来ならば直接の会話など許されない相手に、私は身の程知らずな問いかけをしていた。
「国王陛下と……その、夫婦喧嘩を……なさった、のですか?」
「私が、悪いのよ」
この女性の夫……ヴィスガルド国王エリオール・シオン・ヴィスケーノは、英邁な奥方クランディアと並ぶと、若干の見劣りが否めなくなってしまう人物である、らしい。
夫婦仲は良好である、とは聞いている。
「何もかも、私のせい……だからね、マローヌ。陛下の事を悪く思うのは……どうか、やめて欲しいのよ」
病に罹り、療養が必要となった。
そんな名目で半年ほど前、クランディア王妃は、ここバステル地方に流されて来たのだ。
それが本当ならば、と私は思う。
病の原因は、夫エリオール王その人であろう。
夫から何かしらの嫌がらせを受け、この優しい王妃は心を病んだのだ。
今のクランディア様の、寂しげな笑顔を見ていると、そうとしか思えなくなってしまう。
召喚の生贄として、国王を惨殺しなければならない。
私のような見習いではない侍女が、一人。
恭しく何かを抱え運び、露台に出て来た。
「王妃様……国王陛下より、お届けの品でございます」
「まあ、陛下から……?」
装飾された、木箱。
そっと卓上に置かれ、侍女の手によって開かれてゆく。
豪奢な、酒瓶だった。
中身の液体の揺らめきが、微かに見て取れる。
「あら、嫌だわ陛下ったら……私のお酒好きを、あんなに口うるさく窘めておきながら。こんなものを送って下さるなんて」
クランディア様が、懐かしげに微笑んだ。
魔界の小動物を、愛おしげに撫でながら。
「貴方、お酒は飲める? 一緒に飲みましょうか。ああマローヌ、もちろん貴女は駄目よ。お酒ではなくお菓子なら、一緒に楽しめたのにね」
確かに私は十歳の子供だが、そんな事は関係なく一口、毒見をするべきではないか。
私はそう思ったが、クランディア様は、それをさせてくれなかった。
「私は今日はこれからずっと、飲んだくれているから。マローヌは下がって、好きなようにお過ごしなさい……明日、私が昼過ぎまで起きられないようだったら、起こしてくれると助かるわ」
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その翌日、クランディア・エアリス王妃は死亡した。
昼過ぎ、どころか永久に、目を覚まさなかったのだ。
別居中の王妃に、国王が飲食物を送りつける。
それが一体、何を意味するものであるか、あの時の自分は全く理解していなかった、とマローヌ・レネクは思う。
あれから、およそ十年。
その間にマローヌは、人間である事をやめた。
最悪の場合、このヴィスガルドという王国そのものを敵に回して戦う事となる。
人間のままでは、いられないのだ。
「どうしたのだ? マローヌ・レネクよ」
玉座の如き、豪奢な寝椅子の上。
小太りの身体を獣人クルルグに擦り寄せながら、国王エリオール・シオン・ヴィスケーノは言った。
「クルルグを、今日は私が独り占めしていても良いのか。許せるのか」
「許せるワケないでしょう。あんたのその職権濫用、いつか絶対に償わせてやるんだから」
応えつつ、マローヌは頭を押さえた。
今日の自分は比較的、冷静である事が、実感出来る。
自分の肉体は、今や半分以上、自分のものではない。
とある強大な何者かに、召喚の代価として前払いしてある。
脳髄も……意識も時折、その何者かに乗っ取られそうになる。
「今は……それとは別に、ね。ひとつ……あんたには、償わせなきゃいけないかも知れないから……」
「ほう」
アドラン地方、帝国陵墓。
国王エリオール・ヴィスケーノのために飾り立てられた一区画。
今いるのは、この三名だけだ。
「私が、割と正気なうちに……鬱陶しく突っかかってくるバカ猿がいない時にね、確認させてもらうわ国王陛下」
「何かな」
「クランディア・エアリス陛下」
その名をマローヌが口にしても、エリオールの表情は変わらない。
「あの方は、病気の療養……って名目で、バステル地方へおいでになった。十年くらい前に、なるのかな」
「……そなた、クランディアと縁ある者であったのか」
「とっても良くしていただいたわ。あの方は、優しくて朗らかで……お元気で、ご病気とは思えなかった」
「病気よ。子供にはわからぬ、大人しか罹らぬ病というものは、確かにあってな」
「私も二十代になっちゃったし。そういうのもあるんだろうな、って事くらいはわかるワケよ」
あの時。魔界の小動物と戯れながら、クランディア王妃が浮かべていた笑顔。
マローヌの脳裏には、いつでも蘇る。忘れる事はない。
確かにあれは、大人しか罹らない病を患ってしまった女性の笑顔であった。
そして。その病の、原因を作ったのは。
「クランディア様は……ねえ、一体どんな大人の病気に罹ってしまわれたの? あの時」
今ならば。
この国王を、召喚の餌として惨殺する事が出来るか。
その思いを抑え込み、マローヌは言った。
「あの日……王都から、お酒が届いた。差出人は貴方よ、陛下。もしかしたら、貴方の名前で送られて来ただけかも知れないけど」
「私だ」
国王の口調は、投げやりなものである。
「私がクランディアに、毒酒を送り与えた。すなわち死を命じたという事だ。許せぬならば今、この場で私を殺すが良い」
にゃーん……と、クルルグが警告を発した。
躊躇いもなく、この獣人の若者は自分を殺すだろう、とマローヌは確信した。
「……そう、よねクルルグ君。貴方なら、守るよね。王様の護衛が、今のお仕事だものね」
「ルチア・バルファドールは私と取引をした。この陵墓に眠る、帝国の化け物を復活させる……それを成し得た暁には、アイリ・カナンに関して私の知る事を全て語る、とな」
クルルグの獣毛に埋まったまま、エリオールは言った。
「……あの魔法令嬢を、しっかりと補佐してやるが良い。魔王ヴェノーラ・ゲントリウス復活のために尽くすのだ。その後、私が生きておれば……クランディアに関する、全てを教えてやろう……」
国王の言葉が、そのまま寝息に変わっていった。
「クランディア・エアリス……アイリ・カナン……この両名の死には、な。繋がり関わりが、全くない……事も、ない……」




