第54話
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妻は、幸せそうにしている。
それでも私は、問いかけずにはいられなかった。
「……君は、本当にいいのかい? これで」
「どうして、そんな事をお訊きになるの? 私、幸せなのよ。とても」
こんな小声の会話が聞こえているわけもなく王都の民衆は、我ら夫婦に歓声を送っている。
こうして露台の上から愛想を振りまくのが、私と妻の仕事である。
赤ん坊を抱いて微笑む妻の姿は、民の求める『王子の妃』そのものだ。
理想的な、未来の王妃である。
妻は、それを演じ続けている。
王家の人間として、申し分ない仕事をしているのだ。
だから私も、理想の王子であり続けなければならない。
次の国王が、これほど心優しく、民を慈しむのは当然として己の妻と子にも充分な愛情を注ぐ人物であるという事を、ひたすら顕示しなければならないのだ。
政治の類は、全てログレム宰相とベレオヌス叔父上が上手く取り回してくれる。
私に出来る事など、何もない。
妻の細腕の中で、赤ん坊が動いた。
だぁ、と微かな声を上げた。
人形である、などという疑いもあるようだが、私の見たところ本物の赤子である。
どこから連れて来た赤ん坊であるのかは、不明だ。
私の息子。フェルナー・カナン・ヴィスケーノ王子。
それを、今のところは押し通さなければならない。
「私、とっても幸せよ」
愛おしげに赤ん坊を抱いたまま、妻は本当に幸せそうにしている。
「この幸せを手に入れるために、ね……私、あの過酷な祭典に参加して、無様に脱落して、恥を晒したわ。でもね、そんなものは恥でも何でもなくなってしまった」
私は片手を上げ、民の歓声に応えた。笑顔を維持した。
その傍らで、妻が言う。
「あの卑しい平民娘……アイリ・カナンに、こうして化けていなければならない……この、おぞましく厭わしい顔面を……被り続けなければ、ならない。その屈辱に比べたら……」
露台の上から、私は民衆の笑顔を見下ろし、見つめた。
妻の顔を見る事が、出来なかった。
「……全て、貴方と結ばれるためよ。アラム様」
妻が、しとやかに身を寄せて来る。
仲睦まじい、王家の若夫婦。
民衆には、そのように見えている事であろう。
「私そのためなら、どんな屈辱にも耐えて見せる……貴方と、こうして結ばれていられるなら」
妻が、本当に幸せそうにしている。
それは、顔を見なくともわかる。
「私……幸せよ、アラム様」
妻の顔を見る事が、やはり私には出来ない。
「だから貴方もね……幸せでなければ、いけないのよ?」
逃げ出したかった。
私は所詮、この程度の人間なのだ。
建国王アルス・レイドック以来の英傑、などとも私は言われているらしいが迷惑千万である。
「逃げる場所など、ありはしませんよ」
妻、ではない何者かの声がした。
「無理矢理にでも、幸せにおなりなさい。幸せである事を、民に示し続けるのです……そこにしか、貴方の居場所はありません」
妻の、優しい抱擁の中。
私の息子フェルナー、であるはずの赤ん坊が、歯も揃わぬ口で流暢な発声を行っている。
「貴女も、ですよ王太子妃。アラム殿下が、ごく自然に……幸せなお気持ちになられるよう、振る舞いなさい。民が、何かしらの重圧を感じ取ってしまうようではいけません」
違う。赤ん坊ではない。
赤ん坊の形をした、得体の知れぬ道具である。
どこかにいる何者かが、その道具を通じて、私たち偽りの夫妻に語りかけているのだ。
「あなた方が幸せになれば、民も幸せな気分になれる。すなわち、この王国のためになる……幸せになる事こそが、お二人の務め。王族の方々の責務なのですよ」
「仰せのままに……」
自身の産んだ赤ん坊、ではないものを、妻は愛おしげに抱き締めた。
「花嫁選びの祭典……無様にも脱落した私が、こうしてアラム様のお隣に居られるのは貴方様のおかげ。私たち、幸せです。幸せになります。私たちの幸せを、どうか……お守り下さい、ジュラード様……」
この後、人と会う予定が入っている。
ログレム宰相の紹介である。いかなる人物であるのか、私はまだ知らない。
誰でも良い、と私は思う。
この場で過ごす、この時間から解放されるのであれば。
宰相の連れて来る、その人物が、極悪人であろうと下層の民であろうと私は一向に構わない。
いくらでも会って長話をしてやる、と私は思った。
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「いくらでも長話をさせられる、わけではない」
ヴィスガルド王国宰相ログレム・ゴルディアック侯爵が、言った。
「王太子殿下は御多忙であられる。申し上げるべき事、全てを今のうちに組み立てておかれるが良かろう」
「……もう、決めてありますわ。私がアラム王子に問いかけたい事は、1つだけ」
何故、アイリを守らなかったのか。
それをアラム・エアリス・ヴィスケーノ王子に問う。
自分シェルミーネ・グラークが、このような場所にいる目的の1つである。
王宮の一角。
ログレム宰相の、非公式の執務室。
シェルミーネの現在の立場は、有能な宰相の無能な秘書官である。
秘書ではなく用心棒としてならば、そこそこは有能かも知れない。
「宰相閣下は」
シェルミーネは、確認を試みた。
「先程、露台の上で微笑んでいらした、アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃殿下に関しまして……何か、お思いには」
「お美しく、愛らしくあられる。思うところは、それだけだ」
淀みなく、ログレムが答える。
「……それ以外の思いなど、あってはならないのだよ」
知っている。
そうシェルミーネは直感し、確信に至った。
先程、王宮の露台で赤ん坊を抱き、夫アラムと共に幸せな笑顔を振り撒いていたアイリ・カナンは、偽物である。
それを、この宰相は知っている。
では。本物のアイリが、どのような事になったのかも知っているのではないか。
その事態に、宰相ログレム・ゴルディアックは関与しているのか。
全てを、自分は探り出さなければならない。
ガロム・ザグが現在、王弟ベレオヌス公爵のもとで、同じ事をしている。
シェルミーネが、命じたわけでもないのにだ。
(まったく、本当に……小賢しい忖度ですわよ、ガロムさん)
「王太子殿下、御成りあそばされました」
シェルミーネとは違う、宰相の本当の秘書官に近いのであろう男が1人、入って来て告げた。
ログレムもシェルミーネも姿勢を正し、貴人の入室を迎えた。
「申し訳ない、宰相閣下。少し遅くなった」
足取りも軽く執務室に現れたのは、2年前と全く変わらぬアラム・エアリス・ヴィスケーノ王子の姿であった。
変わらず美青年で、笑顔は優しく明るい。対面する者、全てへの慈愛に満ち溢れている。
何故、変わらないのか。
強く、シェルミーネは思った。
何故こうも変わらず、微笑んでいられるのか。明るく、優しく。
(アイリさんが……死にましたのよ? ねえ、アラム王子……)
「何やら……私が貴方様を、お呼び出しする形になってしまいました事。まずはお詫び申し上げます、王太子殿下」
ログレムが、深々と頭を下げる。
「ここが、王宮にあって最も人目に触れぬ場所でございますゆえ……万死に値する不敬、でありましょうが何卒」
「そのような事を言わないでくれ。私は、どこへでも行くさ。あの場所から離れられるのなら、ね」
言いつつアラム王子が、シェルミーネの方を向く。
「して、宰相閣下……貴方が私に会わせたい人物とは、よもや?」
「グラーク家の、シェルミーネ嬢にございます」
「再会の機を得た事は喜ばしいよ、悪役令嬢殿」
アラムの秀麗な顔に、悲哀の念が満ちた。
「……貴女の事は、ずっと心配していた。リアンナ・ラウディース嬢の件、何かしら事情と理由はあるのだろう」
「貴方は…………」
シェルミーネは、それだけを言った。
それきり、何も言えなくなった。
言うべき事、問うべき事など、1つしかないのにだ。
「…………そんな……馬鹿な……」
よろめき、どうにか踏みとどまったシェルミーネを、アラムは見つめている。
悲哀に満ちた美貌。
その悲哀に、偽りはない。
「…………いえ、充分に……あり得る事ですわね。なのに私……思い至りも、しなかった……」
「……お気付きのようだな、シェルミーネ嬢」
ログレムが言った。
「つまりは、このような事なのだ」
「ここまで……これほど愚かな事を、なさってまで……あなた方は一体、何を……」
シェルミーネは軽く、己の額を押さえた。
「…………いえ。本当に愚かなのは、私……」
アイリ・カナンは、死んだ。
だからヴィスガルド王国は、彼女の偽物を用意しなければならなかったのだ。
「なのに……それなのに何故、私という愚か者は……アラム王子が、本物だなどと疑いもせず……」
何故か。
何故この王国は、アイリ妃に続いて、アラム王子の偽物まで、こんなふうに用意しなければならなかったのか。
本物のアラム・ヴィスケーノは、いかなる事態に陥ったのか。
シェルミーネが思いつく事は、1つしかない。
(…………ボーゼル・ゴルマー侯爵の、叛乱……?)
「私の目的は、グラーク家を我が陣営に引き入れる事だ」
ログレム宰相が、厳然と告げた。為政者の口調だった。
「そなたの父君オズワード・グラーク侯爵のもとに……フェルナー・カナン・ヴィスケーノ殿下が、おられるのだろう? おわかりか悪役令嬢。そなたらグラーク家は今、この王国を支配する事も不可能ではないのだよ」
「…………全て、何もかも……掴んでいらっしゃる、と?」
シェルミーネは呻いた。
「アイリさんが…………」
「アイリ・カナン妃殿下は、そなたに看取られたのであろうな」
あの場を見ていたかのように、ログレムは言った。
「真相を知りたいのであろうシェルミーネ・グラーク、ならば教えておく。アイリ・カナンを手に掛けた暗殺者は、私が放ったものではない……さて。貴女は、それを信じるかな」




