第4話
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馬は、持久力に劣る生き物である。
2頭の馬は、もはや限界であった。このままでは力尽き、転倒する。
転倒させるわけにはいかない。
穴だらけの馬車に乗っているのは、赤ん坊とその母親なのだ。
「妃殿下! ここで小休止をいたします」
騎士ブレック・ディランは、御者席から馬車の中へと声を投げた。
返事はない。
聞こえるのは、赤ん坊の泣き声だけだ。
ブレックは馬車を止め、振り返った。
泣き喚く我が子をしっかりと抱いたまま、その女性は、馬車内の長椅子に倒れ込んでいる。
質素なドレスが、血に染まっている。
「妃殿下……!」
ブレックは青ざめ、御者席から馬車の中へと飛び込んだ。
女性の、たおやかな背中に、矢が突き刺さっている。
追い付かれて、いたのか。
馬車を、止めるべきではなかったのか。
いや。遅かれ早かれ、馬は限界を迎えていた。倒れる前に、止めなければならなかったのだ。
「……ここまで……本当に、ありがとう……ブレック殿……」
女性の笑顔が、透き通っている。
ブレックは、そう感じた。
血色の失せた、透明感のあり過ぎる笑顔。
「…………この子を、お願い……」
泣き叫ぶ赤ん坊を、女性は愛おしげに抱き撫でている。
「グラーク家の……シェルミーネ嬢なら、この子をきっと守ってくれる……ああ私ったら、何て厚かましい事を言っているのかしら……」
「……妃殿下、貴女もです。貴女は、守られなければならない」
ブレックは、馬車を飛び出しながら長剣を抜き放ち、一閃させた。
「花嫁選びの祭典で……貴女は民に、希望をもたらした。これからも希望であり続ける」
木陰から躍り出て来た人影をひとつ、ブレックは斬り捨てていた。
黒装束に身を包んだ男。短めの剣を抜き構えたまま倒れ伏し、地面に鮮血をぶちまける。
同じ風体の男たちが、次々と音もなく、周囲の森林から現れ出でて、短めの剣を振るう。
ブレックを、それに馬車内の母子を、斬殺せんとしている。
その襲撃を、ブレックは全て叩き斬った。
暴風の如く吹き荒れた長剣が、黒装束の男たちを縦横斜めに両断する。
人体の内容物が、大量に散乱した。
長剣を構え直そうとして、ブレックは硬直した。
矢が、2本。左の二の腕と右の太股に、突き刺さっている。
「さすがだな、ディラン家の御曹司殿」
黒豹を思わせる人影が、前方にふわりと出現していた。
「妃殿下を、よくぞここまで守り抜いた。が……ここから先、守る事は出来ない」
黒装束。
顔面にも黒い布が巻かれ、右眼のみが露出している。左眼は、黒い眼帯だ。
「……恥じる事はないさ。何しろ、妃殿下を排除しようという力が世の中で働き始めてしまったんだからな。そうなったら、あんたほどの剣士があと何千人いたところで守れはしない」
左手には、弓。短いが、張りの強さは長弓並みだ。
「貴様……!」
この男だ、とブレックは思った。
この隻眼の男が、森林を黒豹の如く駆け抜けて馬車に追い付き、矢を撃ち込んだ。
「…………何故だ」
無意味な問いかけであると、ブレックは理解はしていた。
「何故、妃殿下を……民の、希望を……」
「民に、希望など持たせてはならない……俺の雇い主がね、そう言ってたよ」
隻眼の男の、その言葉に合わせて。
人影が複数、周囲の木陰から溢れ出して来て、刃の光を閃かせる。
黒装束の、男たち。
何本もの短い剣が、馬車内の母子に襲いかかる。
待て、などと叫んでいる暇もない。ブレックの前方でも、隻眼の男が短弓に矢をつがえている。
その矢が、放たれる事はなかった。
猛獣のような何かが、隻眼の男を横合いから襲ったのだ。
牙が見えた。いや、牙ではない。
牙剣である。
その一撃が、短弓を叩き折っていた。
隻眼の男は、跳び退っている。
そこへ左右一対、2本の牙剣が、まるで噛み付くように襲いかかった。
牙剣を振るっているのは、顔に傷跡のある、見るからに獰猛そうな若者である。
ブレックよりも、いくらか年下か。
身なりからして、恐らくは領主グラーク家に仕える地方軍の兵士であろう。
そして、ブレックの後方では。
まばゆい光の一閃が、黒装束の男たちを薙ぎ倒していた。
斬撃の光。魔力の光。
白く発光する細身の刃が、馬車の周囲で男たちを斬殺してゆく。
馬の尾の形に束ねられた金髪が、血飛沫の中を舞う。
光の剣を操る細腕は、細く見えて強靭に鍛え込まれているようである。
優美にして強靭な肢体が繰り出す、殲滅の剣舞。
それが馬車の周囲を軽やかに一周し、黒装束の男たちを撫で斬っていた。
呆然と、ブレックは呟いた。
「……シェルミーネ・グラーク……恥知らずの悪役令嬢……」
ここ数年の間、ヴィスガルド王国民の罵声と嘲笑を最も浴びた人物が、剣舞を止めてふわりと佇む。
冷たく鋭い美貌は、2年前の祭典で衆目を浴びた時よりも、険を増しているようであった。
険しい眼差しでシェルミーネ・グラークは、黒装束の男たちの屍を一瞥し、動かぬ事を確認している。
ブレックとも一瞬、目が合った。
一瞬だけだった。
恥知らずの悪役令嬢、などという罵り言葉には何も反応を示す事なく、シェルミーネは馬車の中を見据えた。
死にかけた女性と、見つめ合っている。
冷酷無比の悪役令嬢シェルミーネ・グラークにとって、この女性は憎悪の対象であるはずだった。だが。
「…………アイリさん……」
その口調に、憎悪はなかった。
冷酷無比の悪役令嬢、とは思えぬ感情が、声に、表情に、滲み出している。
険のある美貌に、険ではないものが表れかけている。
それが何であるのか、ブレックにはわからない。
「シェルミーネ……!」
王太子妃アイリ・カナン・ヴィスケーノは、泣き叫ぶ赤ん坊を抱いたまま、最後の力を振り絞っているように見えた。
「お願い……この子を……!」
透き通るような頬を、涙がつたう。
最後の涙だ、とブレックは思った。
自分は、この女性を守る事が、ついに出来なかったのだ。
「…………厚かましい、平民娘……貴女に言われた通りよ、シェルミーネ……」
最後の涙、最後の笑顔だった。
「私…………こんなに図々しい、お願いを……貴女に……」
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人間であるのは、間違いない。
だが。先程の獣人たちとは比べ物にならぬほど、獣である。
黒装束をまとう身体は、黒豹にしか見えない。
そんな事を、ガロム・ザグは思った。
「ほう、ほうほう! 牙剣なんてもの、ここまで使いこなす奴がいるとはなあ」
左右、間断なくガロムが繰り出してゆく牙剣をかわしながら、隻眼の男は愉しげである。
黒豹のような身体が、しなやかな回避を披露しながら翻る。
一瞬、こちらに背中が向いた。
その背中にガロムが牙剣を叩き込もうとした時には、隻眼の男は振り向いていた。
抜刀と、同時にだ。
斬撃の閃光が、襲いかかって来る。
ガロムは後方に跳び、かわした。
回避、と言うより逃走に近い形になってしまった。
黒豹のような男は、即座に間合いを詰めて来る。
右手にあるのは、三日月のような抜き身の剣だ。湾曲した、片刃の刀身。
その斬撃を、ガロムは左の牙剣で受けた。火花が散った。
焦げ臭さが消えぬうちに、右の牙剣を叩き込む。
かわされた。
即座に、斬撃が来た。
片刃の刀身が、様々な角度から立て続けにガロムを急襲する。
牙剣で、受け流す。あるいは弾き返す。
焦げ臭い火花が、大量に咲いた。
防御は、出来る。だが攻撃に転じる事が出来ない。
隻眼の男は、たった1本の剣で、2つの得物を持つガロムを防戦一方に追い込んでいた。
「……あんた、名前は?」
問われた。
隻眼のみが露出している黒覆面の下で、男は微笑んだようだ。
「俺は、何でも屋のザーベック・ガルファ。何をやるかは金額次第さ」
「……雇われの殺し屋、というわけか」
牙剣が叩き落とされかねない強烈な一撃を、ガロムは辛うじて受け流した。
「俺はグラーク家の兵士ガロム・ザグ。雇われの何でも屋が……誰に雇われて、何をしているのか、恐らく吐いてもらう事になるぜ」
「何を……しているんだろうなあ、俺は」
三日月のような刃が、なおも容赦なく打ち込まれて来る。
「……何でも屋ってのは、さ。仕事を選べないんだよ」
「俺たち兵隊だって、そうだ」
牙剣を2本とも防御に用いざるを得ないまま、ガロムは会話に応じた。
「……戦えと言われれば、戦う。お前のような奴とは、言われなくても戦う」
「戦う……か。ふん、まだまだ甘いぜ坊や」
隻眼が、燃え上がった。
「女子供をなあ、追っかけ回して狩り殺す! そんなクソみてえな仕事、やった事ねえだろうが!」