第218話
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王都の市場で野菜や果物を売り、細々と生計を立てていたクラウド・カナンという人物は、他人に好かれる性格であるようだった。
野菜や果物を売る仕事を、いかなる事情によってか失い、妻エミリ・カナン一人を伴って、王都の貧民街を逃げ回る羽目に陥った。
そのような境遇にあっても、こうして助けの手を差し伸べてくれる人間がいる。
「クラウド氏は、まあ商売敵ではありましたがね。いなくなって欲しかった、わけではなかった」
恰幅の良いクラウドとは対照的な、痩せ型の男性。
頭髪も髭も半ば白い、初老の人物である。
ベルメット・ガートと名乗った彼の自宅に、カナン夫妻は匿われていた。
「私も現在、市場にて野菜や果物を扱わせていただいております。カナンさんのお店が潰れてくれた、おかげで客入りが増えた……という単純なお話にはならないのが、商売というものでして」
「……お世話になります、ベルメットさん」
クラウドが、奥方エミリが、頭を下げる。
貧民街の近くにある、この家には現在、家主ベルメットと息子夫婦、その娘、計四名が暮らしていた。
息子夫婦は今、市場で仕事中。
ベルメット本人も隠居をしているわけではなく、商品の仕入れや金の管理等を一手に担っているようである。
時折、市場にも顔を出す。
今は、この家で客人の応対をしている。
客人は、自分ミリエラ・コルベムを含む四名。
主ベルメットを合わせ計五名で、卓を囲んでいるところだ。
「災難でしたね、お嬢様方」
ベルメットが言った。
「よくぞ、御無事でいて下さいました」
「……大抵の事は大丈夫なんです。この方が、いらっしゃると」
言いつつミリエラは、ちらりと隣を見た。
一人の令嬢が、生ける屍も同然の様を晒している。
貧民街で先程、カナン夫妻が窮地に陥っていた。
救いの手を差し伸べたのが、この令嬢だ。
堂々たる悪役令嬢が、しかし今は見る影もない。
傲慢なまでの美貌が、今は青ざめて俯き、卓の木目を見つめている。
一言も、彼女は口をきかない。
だから、ミリエラが会話をするしかなかった。
「事情を……お訊きしても、よろしいですか?」
「……助けていただきました。お話ししない、わけにはいきませんね」
クラウドが、口調重く、言葉を発した。
「ミリエラ嬢は……私どもの、娘の事は」
「存じ上げております」
名を口に出すのを、ミリエラは思いとどまった。
「ですから意外でした。御両親は、もう少し、その……王侯貴族に近い暮らしを、なさっているものかと」
「そういうお話を、こちらの御夫妻はね、全て断ってしまったのですよ」
ベルメットが語る。
「一緒に王宮で暮らしましょうよと。ご息女からも再三、言われていたようですが……お二人とも、市場で物を売って暮らす市井の民である事に、誇りを抱いておられましたな」
「娘は」
エミリが言いかけ、訂正した。
「……妃殿下は時折、お忍びで私たちに会いに来て下さいました。それだけで……はい。私たちは、充分だったのです」
ミリエラは、またしても隣を見た。
シェルミーネが、小刻みに震えていた。
「ご存じかと思いますが」
ベルメットが言った。
「王太子御夫妻は、よく王宮の露台にお出になられていました。我ら王都の民に、手を振り微笑みかけて下さったのです」
それを、クラウドとエミリも見ていたはずだ。
見ただけで、気付いてしまったのだろう。
王太子妃アイリ・カナン・ヴィスケーノが、偽物である事に。
だから仕事を失い、逃げ回る事となったのか。
ミリエラは、問いかけた。
「先程の方々は、クラウドさんエミリさんの……その、お命を狙っていたのでしょうか?」
「わかりません……いえ。結局のところ、そうなるのかも知れませんが」
クラウドが答えた。
青ざめ俯いたシェルミーネを、じっと見つめながら。
「花嫁選びの祭典……娘が出ようとするのを、私も妻も反対しましたよ。我がままなど一度も言った事のなかった娘が、しかし折れてはくれませんでした。畏れ多くもアラム王子様を、あの子は本当に好きになってしまったのです」
たとえ親子喧嘩になっても、そこは止めて欲しかった。
一人娘の祭典への出場、許して欲しくはなかった。
シェルミーネは俯いたまま、そう思っているに違いなかった。
「娘は……自力で、優勝をしてしまいました。いやはや大したものですよ、まったく」
クラウドが笑う。
本当に、誇らしげな笑顔である。
「あれこれと言う資格が、だから親にはありません。娘は独り立ちをしてしまったのですから。何が起ころうと、それは……あの子の人生。覚悟は出来ている、つもりです。何かが起こったのだとしたら、もちろん泣き寝入りはしませんが」
何かが起こったのなら、それを知っているのなら、教えて欲しい。
クラウドはシェルミーネに、そこまでは言わない。
「先日。王宮から、使者の方々が来られました」
エミリが言った。
「王太子妃殿下、直筆の御手紙と共に……父上、母上にお会いしたい。王宮へ来て欲しい、という」
宰相ログレム・ゴルディアックの厳格な顔が、ミリエラの脳裏にまずは浮かんだ。
厳格さの裏に、おぞましいものを隠し持っている。
だが、それも当然だ。
清廉潔白な人間に、一国の宰相など務まるわけがない。
そうログレムを評していたのは、父クルバート・コルベムである。
「王宮へ……行かれた、のですか」
ミリエラは訊いた。
クラウドが、頷いた。
「王宮からの迎えの馬車が、もう来ておりましたからね。私も妻も、乗せられるしかありませんでした」
乗せられてしまえば、もはや終わりだ。
馬車の中でも、あるいは王宮へ到着してからでも。
カナン夫妻を殺害する事は、容易く出来る。
ミリエラはそう思ったが、しかしクラウドもエミリも生きている。
「王宮に着いてすぐ、アラム王子様が、私たちに話しかけて下さいました。血相を、変えておられました」
クラウドが語る。
「逃げろ、とアラム様はおっしゃいました。王宮からの呼び出しになど二度と応じてはならぬ、とも」
そのアラム王子は、恐らくヒューゼル・ネイオンと同じ立場の者であろう。
「その場で私たちは帰され、翌日には……市場で商売をする権利を、抹消されたのです」
カナン夫妻を攻撃するために、公的な権力が働いている。
やはり、ログレム宰相なのか。
しかし、それにしては、とミリエラは思わざるを得ない。
軍の兵隊が直接、この夫婦を捕縛するような事態には至っていない。
直接の暴力を実行しているのは、先程の男たち……貧民街の、ならず者である。
「私は思うのですが」
ベルメットが述べた。
「王宮の、やんごとなき人物であるのは間違いないにせよ、それほど強い権限は持たない……中途半端な権力者が、カナン夫婦に嫌がらせをしているのではないでしょうか。市場の関係者に圧力をかけて一般市民から仕事を奪う、程度の事は出来るにせよ。軍を動かすような事は出来ない。暴力行為をするには、ならず者を金で雇うしかない。そんな、中途半端な権力者が」
その中途半端な権力者から、カナン夫妻を守るために、アラム王子は動いているのか。
「お祖父ちゃん大変!」
ミリエラとほぼ同い年と思われる幼い少女が、部屋に駆け込んで来た。
ベルメットの孫娘、リーリアだ。
「恐い人たちが、いっぱい来た! お家の周りに、いっぱい!」
少女の言った通りの光景が、窓の外に見えた。
先程の六名と、同じような風体の男たち。
金で雇われたと明らかにわかる、ならず者の集団が、この家を取り囲んでいた。
一目では人数を把握出来ない。
「あー、聞こえるかな? 中にいる、善良な一般市民の方々」
一人が、進み出て来て言った。
「手荒な事はしたくない。したくないけど……ちょっと、これを見てもらえるかな」
青年、いや少年か。
しなやかな細身を黒装束に包み、首から上にも覆面を巻き付けてある。
端麗な顔立ちは、それだけで見て取れる。
露わになった左右の瞳は、赤い。
どこか兎を思わせる、その少年が、携えていた複数の何かを路面に転がした。
窓の外を見ようとするリーリアの両目を、ミリエラはとっさに両手で塞いだ。
「全然、自慢にも何にもならないけど……僕たちはね、こういう事が出来る集団だって事」
路面に転がっているのは、六つの生首だった。
先程の男たち、である。
うち一つを軽く蹴り転がしながら、兎のような黒装束の少年は言った。
「それを踏まえた上で、聞いて欲しい……クラウド・カナンさん、エミリ・カナンさん。ちょっと出て来てくれないかな? 僕たちと一緒に来てもらいたいんだ。親子の対面、拒絶する理由は無いと思うんだけど」
まさしく脱兎の如く、少年は跳躍し、回避した。
斬撃の閃光が、大きく弧を描いたのだ。
脱兎の敏捷性を持った少年とは異なり、ならず者たちは回避どころか状況の把握すら出来ぬまま、切り刻まれていた。
人体の破片・断片が、大量にぶちまけられる。
魔剣・残月の、一閃であった。
「シェルミーネ様……」
呆然と、ミリエラは呟いた。
青ざめて俯き、卓の木目を見つめていた悪役令嬢の姿が、いつの間にか消え失せている。
窓から飛び出したのか、律儀に扉を開けて出て行ったのか。
ミリエラの動体視力で、捉えられる動きではなかった。
ともかく。
シェルミーネ・グラークは、路上に佇んでいる。
魔剣・残月のたおやかな刀身から、炎の如きものが立ち昇っている。
禍々しい、魔力の揺らめき。
それが、シェルミーネの優美な全身をも包み込んでゆく。
家を囲んでいた男たちは、ほぼ一人残らず、切り刻まれていた。
大量の生首や手足、臓物が、ベルメットの家の周りに散乱している。
一人。
赤い瞳の少年だけが生き残っていて、短めの剣を二本、左右それぞれの手で握り構えている。
「…………シェルミーネ・グラーク嬢……あんたがいる、のは聞いてたけど……」
戦う姿勢を辛うじて維持しながら、少年はしかし怯えているのか。
「……そう、だよね。ゼイヴァー卿の素顔を暴いた悪役令嬢……甘く見ていい相手、なわけないよね……」
シェルミーネは、こちらに背中を向けている。
顔は、見えない。
だがミリエラには、わかる。
無言のシェルミーネと対峙したまま、兎のような少年は今、とてつもなく恐ろしいものを見ているに違いなかった。




