第2話
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毛むくじゃらの身体は大人の男ほどの大きさで、いくらか前傾しつつも四肢を備え、二足歩行をしている。
人間に近い体格ではあるが、首から上は牙を剥いた獣のそれで、直立した狼のようであったり豹のようであったり猪のようであったり、肉食性の類人猿のようであったりする。
獣人、と呼ばれる生き物で、人間を捕食する。
ヴィスガルド王国も辺境となると、このような怪物たちが棲息していて、民を脅かすようになる。
平地か山林か判然としない場所で、兵士ガロム・ザグは獣人の群れと対峙していた。
小径の周囲で、木々が鬱蒼と生い茂っている。
獣人の棲まう、このような領域にも、辺境の民は入り込んで自然の恵みを採取しなければならない。
耕作だけで生きてゆける土地ではないのだ。
農民と思われる老人が1人、孫なのであろう小さな男の子を抱き庇って木陰に座り込み、青ざめている。
この老人が、孫を守るべく、獣人たちに己の身を差し出そうとしていたところへ今、ガロムは駆け付けた。
民を守る。
崇高な人助け、などではない。グラーク家に仕える兵士としての、通常業務である。
獣人たちは牙を剥き、唸りを発しながら皆、得物を構えていた。
棍棒や石器、だけではない。農具、それに錆び付いているとは言え槍や長剣。
農民や兵士が大勢、殺されている、という事だ。
ガロムが手にしているのは、牙剣である。
肉食獣の顎骨を真っ直ぐに伸ばし、それに柄と鍔を取り付けた、そんな形状の武器。
左右2本のそれを両手で振るい、襲い来る棍棒や槍を叩き折ってゆく。
グラーク家は尚武の一族であった。兵士の1人1人が、徹底的に鍛え上げられる。
13歳で徴兵されてから今までの6年間、ガロムはこうして1人で要救助者を守るための力と武技を叩き込まれてきた。
左右の牙剣で、獣人たちを片っ端から叩き潰してゆく。
ドルムト地方。
ヴィスガルド王国、最辺境の地である。
グラーク家は元々、地方騎士団としてこの地を守ってきた一族であり、代々武功を立てつつ政争を勝ち抜いて支配領域を広げ、現領主オズワード・グラークの代で王国最大の領地を有するに至った。
それが2年前、花嫁選びの祭典の一件で、ドルムト以外の全領地を没収された。
グラーク家は、辺境の一領主に戻ってしまった。
令嬢シェルミーネ・グラークは、釈放されドルムトへ戻って来てから、一言の弁解も言い訳も口にしていない。
現王太子妃アイリ・カナン・ヴィスケーノへの嫉妬のあまり凶行に及んだ、愚かで救いようのない悪役令嬢であり続けているのだ。
獣人の1体が、手斧を叩き付けてくる。
その手斧もろとも、ガロムは牙剣で獣人を叩き潰した。様々なものが飛散した。
それを浴びながら、呻く。
「……浅ましい奴。恥を知れ、ガロム・ザグ」
自分を叩き潰す。そんな気分だった。
シェルミーネが、未婚のまま帰って来た。
そこに安堵と喜びと愚かしい期待を抱いている自分が、ガロムの中には確かにいるのだ。
「シェルミーネ様が……だからと言って、お前の方を振り向いて下さるとでも? 大馬鹿野郎のガロム・ザグ、身の程を知れ!」
左右の牙剣を、縦横無尽に振るう。
暴風を巻き起こす猛撃が、獣人たちを粉砕してゆく。
殺人の罪で1度は収監されたシェルミーネ・グラークが、結局のところ釈放された、その事情をガロムは知らない。
ラウディース家の令嬢リアンナ・ラウディースを、シェルミーネは殺害した。
その罰はシェルミーネ・グラーク個人ではなく、グラーク家全体に下された。
オズワード・グラーク侯爵が、娘を助けるための取引として、ドルムト以外の全領地を差し出した。
外から見れば、そのようになるのだろうか。
シェルミーネにしてみれば、屈辱でしかないだろう。
何にしても。
アラム・ヴィスケーノ王子は、花嫁選びの祭典を勝ち抜いた平民娘アイリ・カナンと結婚した。
婚礼の式典が、盛大に開かれた。
2年前の話である。
その2年の間にアラム王子は正式に王太子となり、太子妃アイリは彼の子を1人産んだ。
王国全土で、またしても盛大な祝典が開かれた。
その華やかさの陰でシェルミーネは2年間ずっと、無様な悪役令嬢であり続けた。
王国の民は、シェルミーネを罵倒し嘲笑い続けた。
花嫁選びの祭典。
それは、勝者を祭り上げて敗者を貶め嘲笑う、という盛大な娯楽を民にもたらしたのだ。
咆哮が、響き渡った。
ガロムの口から、腹の底から、迸っていた。
獣人が5体、6体、周囲でズタズタの肉塊に変わる。
左右の牙剣が、肉片をこびり付かせて乱舞する。
怯え抱き合う老人と男の子を、ガロムは一瞥して無事を確認した。
「まったく……兵隊ってのは、実に俺向きの仕事だ」
苦笑が漏れる。
「民を守る、って名目で堂々と八つ当たりが出来る! 憂さ晴らしが出来る!」
八つ当たりの猛撃が、またしても2体3体と獣人を粉砕した、その時。
悲鳴が、聞こえた。
男の子が、祖父にしがみついて泣き叫んでいる。
獣人が数体、ガロムを迂回し、そちらへ向かっていた。
仕留め易い獲物を狙う。当然の事である。
ガロムは振り向き、踏み込み、その獣人たちを牙剣で叩き潰した。
他の敵に、背中を見せる事になった。
粗悪な槍や剣が、農具や棍棒や石器が、後ろから襲いかかって来る。
かわせない。耐えられるか。
光が走った。ガロムの背後でだ。
見えない。だが確かにガロムは、光を感じた。
斬撃の閃光だった。
軽やかな気配が、ふわりとガロムの背後に着地する。
「頑張り過ぎ……ですわよ? ガロムさん」
獣人たちが、滑らかに切り刻まれている。
斬撃の乱舞をひとまず終えたばかりの、優美な姿が、そこにあった。
馬の尾の形に束ねられた金髪が、さらりと揺れている。
所々に部分鎧の貼り付いた戦闘服は、肌の露出は皆無に等しいが、しなやかな身体の曲線を隠せるものではない。
その優美な右手で、光が揺らめいていた。
細身の長剣。とても人など斬れそうにない刀身が、発光している。
魔力の光、であった。
この令嬢は幼き頃より、美と教養のみならず、剣と魔法の修得にも励んできたのだ。
武の鍛錬。
それは一介の兵士であるガロムが、令嬢と共に過ごす事の出来る一時であった。
「……グラーク家はね、今後も末長く貴方をこき使う予定ですのよ。あまり無茶はなさいませんように」
一瞬だけ、シェルミーネ・グラークが振り向いた。凛とした横顔が、微笑む。
やはり、とガロムは思ってしまう。この令嬢には、ドレスの類よりも、戦う者の装いこそが似合っている。
獣人たちは、まだ大量に生き残っていた。
一斉に、襲いかかって来る。
その襲撃の真っただ中へと、シェルミーネは軽やかに踏み込んで行った。
ガロムが慌てて令嬢の盾になる、暇もなかった。
束ねられた金髪が、色艶を振り撒くように弧を描く。しなやかな細身が、柔らかく捻転躍動する。
剣が、槍が、石器や農具や棍棒が、ことごとく空を切る。
それらの所持者である獣人たちが、片っ端から叩き斬られ、滑らかな断面を晒した。
回避と攻撃を、シェルミーネはほぼ同時に行っていた。
頼りない細身の刀身は、魔力の光を帯びる事で強化され、今やガロムの牙剣をも超える殺傷力で獣人の群れを切り刻んでゆく。
2年前の、花嫁選びの祭典。
聞くところによると、花嫁候補者たちの間で武術の競い合いも行われていたという。
美貌や教養技芸と比べ、比重は大きなものではなかっただろう。
審査されるのが武術だけであれば、間違いなくシェルミーネは祭典を勝ち抜き、今頃は王太子妃として王都にあり、ここにはいなかっただろう、とガロムは思う。
思いつつ、牙剣を振るう。シェルミーネを迂回して来る獣人たちに、粉砕の一撃を喰らわせてゆく。
「ガロムさん……私ね、武術の競い合いで第2位を取る事が出来ましたのよ」
光まとう長剣の一閃で、獣人の首を2つ同時に刎ね飛ばしながら、シェルミーネは言った。
「貴方が昔から、手加減なくお稽古に付き合って下さったおかげですわ」
「第2位……」
この令嬢が何を言っているのか一瞬、ガロムは理解しかねた。
「……シェルミーネ様に、勝った者がいるのですか!?」
「世間は広い。身に染みましたわ」
遠くを見つめながら、シェルミーネは獣人の最後の1体を斬殺していた。
「あの祭典にはね、王国全土から本当に色々な子が集まって……己の持てるもの全てを出し尽くし、競い合ったものですわ。武芸も、美貌も、教養も、それに機転や勇気、悪知恵や悪運の強さに至るまで」
空。
寒々しい、灰色の曇天である。シェルミーネは見上げ、微笑んでいる。
「……本当に、楽しかった。悔いはありませんわ」
「シェルミーネ様……」
本当に、そうなのですか。誰にも明かしていない事が、あるのではないですか。
ガロムは、そう問いかけてしまいそうになった。
「……あ、あの……シェルミーネお嬢様……」
泣きじゃくる孫と抱き合ったまま、老人が言った。
「私は……我々は、信じておりませんぞ。あのような話……貴女様が、人を殺したなどと……」
シェルミーネは何も言わない。老人は、なおも言う。
「ドルムトの民は皆、貴女様を幼き頃より存じ上げております……事情が、おありなのでしょう? 平民の娘に、勝ちをお譲りになった理由が……その事情も理由も、シェルミーネお嬢様は語ろうともなさらず……」
「平民に、語る事などありませんわ」
シェルミーネは、それだけを言い放った。