第13話
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強い者など、いくらでもいる。
わかりきった事ではあった。
この獣人の若者、あのザーベック・ガルファよりも強い、かも知れない。
ガロム・ザグは、そう感じた。
アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃を殺害した、黒衣の刺客。
民の希望を奪う。その仕事を恥じながら、あの男は死んでいった。
すぐに自分も死ぬかも知れない、とガロムは思う。
左右の牙剣で、攻撃を繰り出す事が出来ない。先程から防戦一方である。
気の光をまとう拳が、蹴りが、間断なく打ち込まれて来る。
白色光を帯びた攻撃。おかげで、この闇の中でも辛うじて視認する事が出来る。
光る拳足を、ガロムは牙剣で弾き返し、受け流した。
受ける角度を僅かにでも誤れば、牙剣は折れる。
直立した、猫科の大型肉食獣。
そんな姿の獣人が、にゃーん……と牙を剥いた。
白く輝く拳が、手刀が、貫手が、前方から暴風雨の如く降り注いで来る。
かわし、あるいは牙剣で防御しながら、ガロムはよろめいた。
下り階段。ガロムは、無様にも踏み外していた。
ゲンペスト城。
回廊ではない。動き回り戦っているうちにガロムはもはや、自分がどこにいるのか把握出来なくなってしまった。
同行していたシェルミーネ・グラーク、メレス・ライアット侯爵とも、とうの昔にはぐれている。
階段を、何度か降りた。この恐るべき獣人と戦いながら、どうにか踏み外さずにはいられた。
今回は、踏み外してしまった。
受け身を取りながら、ガロムは転げ落ちた。
床か、廊下か、踊り場か。
ともかく一番下まで落ちたところで、ガロムは起き上がると同時に飛び退った。
直前までガロムがいた所に、獣人の若者は着地していた。
その着地が、石畳を粉砕した。着地であり、蹴りでもあった。
石畳の破片が細かく舞い上がる中、縞模様の尻尾がうねる。
そう見えた時。大柄な獣人の姿は、そこにはなかった。
跳躍。
目に、見えなかった。
風が来る。それが、肌で感じられた。
ガロムは後方へ跳んだ。
凄まじい旋風が、横殴りに眼前を通過する。3度、立て続けに。
左右連続の回し蹴りと、尻尾の一撃。
一瞬の旋風と化した獣人の巨体が、ふわりと着地する。にゃーと鳴く。
間合いを開いて、ガロムも着地している。
両者、睨み合った。
睨み合ったまま、動けなくなった。
こちらへ踏み込みかけた獣人の動きが、ビクッと震え硬直した一瞬を、ガロムは見逃さなかった。
そして。自分の身体が同じように震え、固まっているのを、ガロムは自覚した。
両名とも、怯えている。
幾度も、階段を降りた。
ここがゲンペスト城の、地下深くであるのは間違いない。
石造りの、広大な空間であった。
地下室、などとは言えない。大広間と呼ぶにも、広すぎる。
ぼんやりと、明るかった。
その光源は、獣人の若者が発する気の白色光、だけではない。
禍々しく発光するものが、この広大な場所の中央にはある。
その光が、ガロム・ザグという、そこそこは度胸があるはずの兵士を怯えさせている。
この恐るべき獣人の格闘士を、怯えさせている。
中央で、ぼんやりと不吉な光を発するもの。
それは人の姿、のように見えた。
動かない。跪く、ような姿勢を取っている。
獣人の若者が、怯えを振り切るようにして床を蹴ろうとする。
ガロムに向かって、疾駆あるいは跳躍をせんとする。
「待て」
左右2本の牙剣を油断なく構えたまま、ガロムは声を投げた。
「一時休戦、ってわけにはいかないか? ここには何か、得体の知れないものがある。俺たちが殺し合うのは、そいつが無害なものだとわかった後でも遅くはない」
人間の言葉を発声する事が出来ないのであろう獣人の若者と、会話が可能であるかどうかは、わからない。
それでも、ガロムは言った。
「そいつは多分、お前にとっても俺にとっても安全なものじゃあない」
ゆっくりと、牙剣の構えを解く。
獣人の若者は、動かない。
ガロムは背を向けた。
獣人の若者は、動かない。襲いかかって来ない。
そのまま、光を放つ謎めいた人影へと、ガロムは歩み寄って行った。
ここゲンペスト城には、グラーク家に滅ぼされたエンドルム家の怨霊が渦巻いているという。
この広大な地下空間で、例えば皆殺しでも行われたのだとしたら、立ち入る者に何かしら心理的瑕疵をもたらしても不思議はない、とは確かに思える。
しかし、とガロムは特に根拠もなく確信していた。
これは違う。そんなものでは、ない。
百年も前に滅ぼされた貴族の怨念、どころではない何かが、間違いなく、ある。
ぼんやりと禍々しく発光しながら、跪くもの。
それは、屍だった。
ぼろぼろに錆びて朽ちかけた甲冑をまとう、大柄な白骨死体。
片膝をつき、床に剣を突き立てている。
錆びた剣にすがり付くようにして絶命した、何者かの屍。
エンドルム家、最後の当主か。
一族共々グラーク家に殺された、グスター・エンドルム侯爵の屍であろうか。
ヴェルジア地方に流布している怪談話の、主人公。この人物の怨霊が、人々に災いをなすという。
ガロムはもう1歩、屍に歩み寄った。
錆びた剣で、この人物は死してなお何かと戦っている、ようでもある。
錆の塊に変わりかけた刀身の、根元。そこに銘打たれたものが、辛うじて見て取れる。
紋章、であった。剣を咥えた竜。
グラーク家の、家紋である。
グスター・エンドルム侯爵、ではなかった。
彼を殺し、エンドルム家を滅ぼし、この城を奪い、だが間もなくグスター侯の呪いを受けて怪死したと伝わる人物。
主家の英傑の御名を、ガロムは口にしていた。
「…………ガイラム・グラーク侯爵閣下……」
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ヴィスガルド王国の母体とも言うべき『帝国』の時代。
花嫁選びの祭典は、国家の重要行事として、頻繁に行われていたという。
皇帝の世継ぎを産むべき女性を、全帝国民の目で審査・選定する。そんな催しであったようだ。
いくらか宗教的な意味合いもあったのかも知れない、とメレス・ライアットは思っている。
その帝国は滅び、ヴィスガルド王国が興った。
建国者アルス・レイドック・ヴィスケーノは、帝国の兵士であったという。
兵士階級出身の風雲児が、帝国滅亡の混乱を巧みに利用して、ヴィスガルド王国を作り上げたのだ。
帝国の貴族階級にあった人々のうち、生き残った者たちは、初代国王アルスに臣下として従属する事となった。
現在、王国で貴族と呼ばれている人々の大部分は、その末裔。
兵隊出身の成り上がり者に対して拝跪せざるを得なかった帝国貴族の、怨念にも等しいものを、代々継承してきたのだ。
およそ五百年に及ぶヴィスガルド王国の歴史。その前半は、ヴィスガルド王家と旧帝国貴族との戦争の歴史であると言って過言ではない。
「私の家……バルファドール家はねぇ、由緒正しい旧帝国貴族の末裔なわけよ。わかる? 成り上がり貴族グラーク家のお嬢様」
魔法令嬢ルチア・バルファドールが、実家自慢を始めたのであろうか。
「花嫁選びの祭典。私だけじゃなくて、旧帝国系の御令嬢方が大勢参加してたわよね」
「帝国の国家行事を模したお祭りが、帝国滅亡後五百年を経た今この時代に開催された理由……」
シェルミーネ・グラークが、言った。
「……帝国の流れを汲む貴族の方々による、提案・働きかけと言うか圧力によるもの、という話は確かに聞きますわね」
「旧帝国の血筋でヴィスガルド王家を乗っ取る、絶好の機会というわけよ」
ルチアが微笑む。楽しげな笑顔、に見える。
「だからねえ、ほら私なんか最初の方で脱落しちゃったじゃない? うちの父様も母様も祖父様も、怒ったの何のって。帝国の栄誉を穢したとか恥晒しとか、もう散々な言われよう」
「バルファドール家は」
シェルミーネの口調は、重い。
「祭典終了後、間もなく家禄を抹消されたと聞き及んでおりますわ。御当主様をはじめ主だった方々が、お亡くなりになって……死因は不明との事。一体、何が起こりましたのやら」
「あんまり傷付く事ばっかり言うもんだからぁ、ちょっとね。皆殺しにしちゃった」
ルチアが、純白のフードの上から己の頭を小突き、可愛らしく舌を出した。
「魔法って恐いわー。私がちょっと嫌な気分になっただけで、人なんて簡単に死んじゃうんだから」
「アイリさんがいないので、やりたい放題……というわけですのね」
「うふふ、あんたにねぇ……アイリの名前、口に出して欲しくないなぁあんまり」
シェルミーネには劣る美貌が、微笑みではない歪み方をした。
陰影の兵士たちが、一斉に槍を構える。メレスとシェルミーネに、槍先を向ける。
その軍勢のあちこちで、醜悪なものたちが巨体を震わせていた。
屍の塊。人体の、成れの果て。
異形の軍勢の統率者ルチア・バルファドールに、メレスは和やかに話しかけた。
令嬢同士の、危険な空気。和ませなければならない。
「ルチア嬢。先程の、可愛らしい猫殿は……貴女の愛玩動物、いや御友人であろうか」
「クルルグ! 可愛いでしょ? 貴方なかなか見る目あるわねぇ」
ルチアが、またしても笑った。
表情がくるくる変わる。魅力的、ではある。
「あの子は私の、大切な兵隊さんよ」
「兵隊とは……戦を、なさるおつもりかな?」
「下手すると、この国そのものを相手に……ね」
メレスは息を呑んだ。
自分たちを取り囲む異形の軍勢。そのあちこちから、不穏な気配が漂って来る。
この中に、いる。
陰影の兵士や屍の塊、などよりもずっと危険な何者かが複数、恐らくは5、6体。
クルルグという名前であるらしい獣人の若者と、少なくとも同格の戦力を、この魔法令嬢は着実に集めつつあるのだ。




