二人きりの夜 その2
「キルトランス様…。」
「なんだ?」
おずおずと言うアリアに、目を閉じたまま応えるキルトランス。
「あの…寝てる姿を『見せて』いただいてよろしいでしょうか?」
以前に体を「見せた」時の事を思い出してキルトランスは納得した。そうか、この少女は私が今どういう状態なのかを分かっていないのだ。
「うむ、かまわない。」
彼がそう言うと、アリアは礼を言ってゆっくりと指を動かし始めた。
はじめは彼女の手が触れていた腕からはじまり、そしてゆっくりと胸の方へ。
彼女はキルトランスの姿を脳裏に刻みつけるように、ゆっくりと体を撫でてゆく。
「あ、もし触っちゃいけない場所や、くすぐったい場所があったら言ってくださいね…。」
彼女なりに気をつかいながらも、慎重にキルトランスの様子を見ていく。
以前触った胸元を確かめるとゆっくりと肩へ両手を滑らせて、彼女にとって未知である背中へとその細い指を進めた。
少し冷たい彼女の手が体を這っていく感覚を、キルトランスは不思議な気持ちで見届けていた。
背に指を進めるとすぐに、彼女が今まで「見た」ことのないものに出会った。それがドラゴンニュートの翼である。
その人間にはない部位に触れた時に彼女は戸惑った。
「キルトランス様…これは?」
指先は恐る恐る触れるか触れないかの位置に浮いている。
「それは翼だ。」
その言葉を聞いてアリアは眼を輝かせた。
その様子に少し驚くキルトランス。そんな反応が返ってくるとは思わなかったからだ。
「翼ですか!話には聞いたことがありますが、触るのは初めてです…。」
少し興奮した声ではしゃぐアリア。キルトランスはその様子を見て少々不安になった。
よく考えてみれば、自分は生まれてから一度も他人に翼を触られたことがない。
魔世界最強種の一角を担うドラゴンとは言えども、翼は比較的脆弱な部分であり、全てのドラゴン族で「翼には触らない」という不文律の文化があった。
それは、飛行に翼をほとんど使わないドラゴンニュートですら守られていて、翼のみで飛行する種族にとっては絶対の掟である。
それは普段はお互いに傷つけないように気をつかう部分であり、しかし同時に戦いで本気で相手を殺そうとするときには真っ先に狙う急所でもあるのだ。
ドラゴンニュートですら翼を裂かれれば高速飛行が困難になり、その後の生活にも大きな支障が出る。
「エアリアーナ、すまないが翼を触るのは止めてくれないか?」
彼が色々と悩んだ末にそう言うと、アリアはビクッと雷に打たれたように指を引いた。
「す、すみません!失礼な事をしました!」
怒ったつもりは毛頭ないのだが、泣き出しそうなほどに恐縮して謝るアリアに、キルトランスは優しく言った。
「いや、君が悪いわけではない。ただ私が翼を触られたことがないので少し怖いだけだ。」
しかしその言葉にアリアはむしろ大慌てする。
「そんな…。誰も触らせたことのない大切な翼を、私が触ろうとしてしまって申し訳ございません!」
「そんな大げさな話ではない。しかし、とりあえず今日は触るのはやめてくれないか?」
あまりにも恐縮するアリアに気をつかいながら、やんわりと断るキルトランス。
「わ、わかりました…。」
引っ込めた指をどうしたものかと悩みながらも、エアリアーナの心は一つの彼の言葉に占められていた。
「少し怖いだけだ。」
その言葉が彼女の中に大きな変化をもたらし始めた。
キルトランスと出会ってから、たった三日しか過ぎていない。そんな短い時間の中でも彼女にとっては驚きの連続であった。
異なる種族、異なる文化。そして魔術という未知の世界。
どれも体験した事のない素晴らしいものであったが、それ以上に彼女の心を動かしたものは、魔世界の住人の「心」だったのだ。
幼い時から昔話として聞かされた「魔物」という存在。そして村を行き交う旅人や、行商人から聞かされる各地の被害の噂話。
それらは全て恐怖に彩られたものであり、ごく稀に討伐に成功したという話を聞く程度であった。
そんな恐怖の代名詞の最上位、ドラゴンと会話を交わすことで、彼女はそれまで知る由もなかった「心」を知ることが出来た。
突然現れては人間を虐殺する、邪悪で凶暴で無慈悲だと思われていた魔物が、実は普通に話が出来る人だなどとは思った事も無かった。
そしていざ目の前にして話してみれば、文化などの違いはあれども、考え方や感じ方が人間のそれと大きく異なってはいない事に気が付いたことは、彼女にとって驚天動地であった。
そして今、彼女はさらに新たな発見をした。
しかしそれは驚天動地と言うよりは、むしろ静かな湖に広がってゆく波紋のように彼女の心に沁み渡っていった。
(キルトランス様にも怖いという感情があるのね…。)
人間にとって魔物は蛮勇の象徴であり、恐怖など無いものだと勝手に思い込んでいた。
それはもちろん彼女だけでなく、アルビのほとんどの人間がそう認識していただろう。
この三日間を共に過ごし、いかなる状況でも怯まずに淡々と困難を乗り越えてきた彼を見て、エアリアーナもやはり恐怖などという弱い心を、キルトランスが持っているとは思いもしなかったのだ。
それが今、初めて翼を触られるという行為に「怖い」と答えた彼を知って、彼女の心はなぜか震えた。
それまで目の前にいながらも、どこか遠い存在のようであったキルトランスが、本当の意味で「私と変わらない存在」として体感できたのだ。
「…どうした?エアリアーナ。他の場所なら触ってもいいのだぞ。」
しばらく考え込んで固まっていたアリアを見かねてキルトランスが促した。
「あ、すみません。」
そう言って彼女は翼を避け、再び彼の体を確かめはじめた。
しかし、そこに小さな変化があった事を彼女自身は気が付いてはいない。
むしろその変化に気が付いたのはキルトランスの方であった。
それまで恐る恐る確かめるように「触っていた」彼女の手であったが、今は「撫でる」ような動きになっていた。
彼もそれを明示的に理解したわけではない。ただなんとなく、心地よさを感じただけであった。それ故に彼女にそれを伝える事は出来なかった。
エアリアーナは無意識に微笑みながらキルトランスの体を確かめている。
全知全能だと思い込んでいたドラゴンの弱みを見たからと言って、彼女が落胆するようなことはなかった。
むしろエアリアーナが感じた心は「愛おしさ」であった。
それは神や天使が誇示するような弱者への憐憫ではなく、同じ人類としての共感できる心を見つけたという意識の融合である。
彼女の心からキルトランスへの恐怖心は溶けて消え、そこに少しずつ愛おしさが芽生え始めた。
エアリアーナの手がキルトランスの臀部に到達した時に、次の人間との決定的な違いのある部位に気が付いた。それは尻尾である。
「キルトランス様、これは?」
先ほどの翼の件もあり、エアリアーナは少し指を止めて彼に伺った。
「ん?…ああ、尻尾だな。」
彼は少し眠そうに答えた。
「こちらも触らない方がよろしいでしょうか?」
「ふむ…。」
考え込むキルトランス。
動物の尻尾は基本的にバランスを取るためであったり、物を掴むためにあったりと様々な用途があるが、それはドラゴンにとっても同じである。
猿のように物を掴むことは出来ないが、やはり飛行中のバランスを取ったり、体を動かす際のバランスに無意識に使うものだ。
そしてドラゴンニュートの尻尾は、戦闘時に第三の足として使う場合も多い。
全体的に筋肉の発達した尻尾は、根元に至っては人間の足くらいの太さと長さもあることから、鞭のようにしならせて相手を打てばけっこうな打撃になる。
それこそ人間相手であれば、成人男性一人を吹っ飛ばすくらいには十分な威力をもっているのだ。
そんな経緯もあり尻尾は比較的丈夫なので弱点ではない。
もちろんバランスを取るという繊細さもあるが故に、神経もしっかりと通っているために鈍感と言うわけでもない。
ドラゴン同士でたまに誤って他人の尻尾を踏んでしまったり、尻尾同士がぶつかる事もあるが、ケンカの原因程度にはなれども、誇りをかけた決闘になるようなものではない。
「いや、触ってくれてもかまわない。」
少し考えてからキルトランスは許可を出した。
アリアはお礼を言いながら手を動かし始めた。
人間の体であればある程度予想のつく形状だが、なにせ彼女も龍の尻尾を触るのは初めてだ。どんな形状かも分からないのだから自然とゆっくりと噛みしめるように触っていく。
「初めて触ります…。」
初めての経験に彼女の鼓動は少し高鳴っていた。指でその太さを確かめるように動かす。
「すごく太いんですね。」
尻尾の外周を撫でて彼女は感嘆する。ふと自分の太ももを触ってその太さを比較すると、それよりも太い事が分かって改めて感動した。
そしてそこからゆっくりとその先端を探って移動していくアリアの指。
「すごい…とっても長い…。」
キルトランスはベッドからはみ出さないように尻尾を丸めてあった。彼女はその先端に向かってゆっくりと進んでいく。
「私、犬とか猫の尻尾しか触った事ないです。」
少し上気した表情でアリアは話す。それをキルトランスは無言で聞いていた。
そんな彼は先ほどから気になっている事で頭がいっぱいであった。
尻尾なら平気だろうと思って触る事を許可したのではあるのだが、いざ触られると存外くすぐったいのである。
自分で触るのも、他人や物に触れる事も頻繁にある部位のはずなのだが、エアリアーナに触られるとこうもくすぐったいものなのかと驚いた。もっともそれは彼女がとてもゆっくりと、そして柔らかく触るからというのも理由の一つではあるのだが。
先ほど平気だと思って許可を出してしまった手前、「くすぐったいからやめてくれ」とも言いづらい。
別にそれが恥ずかしいという訳でもないのだが、彼女の手に負けるようで妙に悔しかった。
「動かしてみてやろう。」
そう言うと、キルトランスは彼女の手を乗せたままゆっくりと尻尾を振ってみせた。
今まで感じた事のない動きに彼女の顔はほころび、子供のように声を上げた。
「すごいです!本当に猫のように自由に動かせるんですね!」
腕の力を抜いてキルトランスにされるがままに腕を動かされるアリアは笑っていた。
要はキルトランスはむず痒さに耐えかねて、理由を付けて尻尾を動かしただけなのだが。
もちろん、そんな裏事情は彼女に気取られるはずもない。
彼女の笑顔を見ながら、彼は内心で「もう尻尾を触らせるのはやめよう」と思ったのであった。




