オレガノ邸 脱出作戦
ひと時の静寂に浸っている部屋には、少女の穏やかな寝息とランプの燃える微かな音が漂っていた。
その平和な時間を崩したのはホートライドであった。
「あ…っ!!」
突然青い顔をして大きな声を出しかけるが、安らかに眠るレッタの手前、ギリギリで声を手で押し殺した。
だがその声にキルトランスとエアリアーナはたいそう驚いた。
「どうかしたんですか?!ホートライドさん!」
ビクッとなった時にレッタの手を強く握ってしまったエアリアーナは、慌てて手を緩めて彼女の様子を伺う。
だが深い眠りに落ちている彼女に起きる気配は全く無かった。
「しまった…。ここに俺がいたらマズかった…。」
レッタの様子を伺いながら、小声でホートライドが呟く。
「どういう事だ?」
一応、場の空気を読んで小さめの声で尋ねるキルトランス。
「そもそも俺はこの家の監視で周りを警備していたんだ。で、裏口の警備を言われていたんだが…持ち場を離れてしまった…。」
「しかも屋敷への勝手な突入は禁止されていたのに…。」
事の重要性がキルトランスにもエアリアーナにも分かりかねたが、とりあえずなんだか彼が大変な状況になっているのだろうという事は察した。
「ど、どうしたらいいでしょう?」
どうしようもない事だがエアリアーナはとても心配なようだ。キルトランスは全く状況がつかめずに大人しく口をつぐんでいた。
「なんとかバレずに屋敷から脱出する方法はないだろうか…。」
その真剣に悩む横顔がランプの灯りに照らされて、彼の男前さが際立っている。
だが目の見えるレッタは寝ており、眼の見えないエアリアーナに見えるはずもなく、唯一見えるキルトランスは人間の顔の美醜など分からない。つまりはその横顔は完全に無意味だという事だ。
「アリア。この家に正門と裏木戸以外の出入り口は?」
「無い…と思います。少なくとも私が聞いていたり、通った事がある場所はその二カ所だけです。」
ホートライドが頭を抱えてブツブツと独り言を言っている。
「壁を乗り越えたら…いや、見つかるな…。見つからなかったら見張りの奴らが何やってんだって話だし…。」
「キルトランス様。何か方法はないでしょうか?」
「え?!アリア…?!」
キルトランスに助言を求めたエアリアーナにホートライドが驚く。
何というか、彼女はさも当然のようにこの異界の魔物を頼るのだ。たった一日の邂逅で何が彼女をそこまで信頼させたのだろうか?
そんな人間の都合でドラゴンを使おうだなんて、という思考がホートライドの脳裏をかすめる。しかし先ほど、エアリアーナの懇願を聞いてレッタを治したじゃないか…と理性で抑制した。
現にキルトランスを見れば、彼女の言葉を聞いて真剣に考えているではないか。
だがよく考えたらこの龍は、さっきからずっと黙ってうつむいていた。本当に考えているのか…?
そんなホートライドの心配とは裏腹に、キルトランスは閉じていた目をゆっくりと開くと、ホートライドの方を向いた。
「壁を越えて出る事は出来るのだな?」
突然の対面に少々臆するホートライドだったが、しっかりと目を見据えて答える。
「ああ。確か裏側の壁に少し大きな樹がある。そこからだったら壁を越えられるはずだ。」
その状況を思い出しながら彼は答えた。それを聞いてキルトランスは話を続ける。
「問題は壁を越えるところを見られる事か…。壁の向こうの見張りは何人いるんだ?」
「まさか…やるのか?」
ホートライドの眼光が鋭くなった。
「…え?」
しかしキルトランスは一瞬ポカンと口を開けた。全くの予想外の反応だったからだ。
「やって…いいのか?」
「ダメに決まってるだろう!」
ホートライドが声を荒げる。それをエアリアーナが宥めた。
「ホートライドさんが勝手に決めつけて怒ってるだけですよ。キルトランス様は好き好んで人を傷つける人じゃありません。」
言葉は優しいが、どこか反論を許さない強さがある口調に、ホートライドも思わず口をつぐんだ。
「…まあ、それは置いておいて。木の向こうに見張りは何人いるんだ?」
「東西の角に二人ずつ。裏門に三人。巡回に二人…かな。」
記憶を掘り起こして慎重に答えるホートライド。それを聞いて眉間にしわを寄せるキルトランス。
「思ったよりも多いな…。そんなに厳重警備だったのか。」
「そうだ。自警団総出で対応しているからな。」
妙に誇らしげに言うホートライド。彼が自分たちの自警団を誇りに思っているのが、その瞳から見てとれる。
「だが…それが今だけは仇となっているけどな…。」
そう言って自嘲的な笑みを浮かべた。
キルトランスはその様子を横目に冷静に提案する。
「とりあえずその場所に行ってみよう。」
そう言って立ち上がった。ホートライドも共に立ち上がる。
エアリアーナは慌てて二人の方を見るが、ホートライドはそれ優しく制する。
「アリア。君はレッタと一緒にいてやってくれ。その方が彼女も心強いだろう。」
彼なりの優しさであり、同時にキルトランスを二人から引き離す意味合いもあった。しかしキルトランスはそれを知ってか知らずか何も言わない。
二人は共に廊下へと出た。
薄暗い廊下に出ると、ホートライドが廊下の窓辺に立ちキルトランスを手招きする。
「ここから左手に塀よりも高い木が一本立っているのが見えるか?」
「ああ。」
「そこから塀の向こうに飛び降りたい。」
思案しながら窓から周囲を見渡すキルトランス。左右の端の塀の角を見る。
あの両角に合計四人がいるのだろう。そして巡回の兵が二人。この二人はどこにいるのかは分からない。最悪、飛び降りたその場に居合わせる可能性がある。
「ホートライド…だったか。とにかくお前が飛び降りる時にさえ、見つからないようにすればいいのだな?」
「何か策でもあるのか?」
「策と言うほどでもないが、お前が飛び降りる瞬間に風を起こして音を立てる。」
「…魔術か。」
「そうだ。」
不安そうに聞き返すホートライド。未だに彼の中には魔族が使用する魔術に対しての不信感が拭えない。
だが無理もない、散々攻撃されてきたのであろう人類が、不信感を持つのは当然の事なのだと思ってキルトランスは黙っている事にした。
しばしの静寂の後、ホートライドは意を決して口を開いた。
「分かった。お前を信用する。よろしく頼む。」
「…ありがとう。」
キルトランスは瞬間押し黙ったが、素直に信じてくれた礼を言った。
「それではどうすればいい?」
「そのまま、あの木に向かってくれ。私はここからでも十分だ。…それに私が家の外にいるのが見つかったら面倒なのだろう?」
眼前の龍は淡々と述べる。それを聞いてホートライドはやはり思った。
このドラゴンは人間を襲うどころか、俺を、周囲の人間にまで気をつかっている。十分な理性を持っている…生命なのだと。
やはり少なくともこのドラゴンだけは、他の魔族とは違うと認識しなければならない。
「そうだな。それでは…よろしく頼む。」
そう言って裏口へと続く厨房に足を向けるホートライド。
「なあ。キルトランス。」
「…どうした?」
「なぜ魔族のお前が俺を助けるんだ?」
その問いにしばし沈黙をするキルトランス。
「…そうだな…。一つは…エアリアーナに頼まれたからだ。そしてもう一つは…レッタを助けてくれた礼、とでも言っておこうか。」
それを聞いてホートライドも歩みを止めた。
「そうか…。」
その後の言葉が上手く出てこない。
「えっと……レッタとアリアを…一晩頼む。」
「分かった。無事を約束しよう。」
キルトランスの真剣な声色を聞いてホートライドは覚悟を決めた。よし。俺はこいつを信用しよう、と。
「キルトランス。俺は明日もう一度ここへ来る。今度はおそらく正面玄関から。」
「お前には面倒かもしれないが、もし私が来たらアリアとレッタを連れて出てきてほしい。」
「…?何かするのか?」
「今は何とも言えないが…少なくとも悪い事にはならない…しないつもりだ。」
「…分かった。」
キルトランスの返事を聞いて、ホートライドは再び歩みを進めた。
キルトランスは彼の背中が奥の扉に消えるのを見届けると窓の外を眺めた。
月が一つ見え、その光が裏庭を照らしている。明るいが故に塀の影は濃い。あそこならばそれなりにホートライドも隠れられるであろう。
もっともランプの光から逃れ、暗闇に目が慣れ始めたキルトランスにとっては、その影の奥すらもしっかり見えたが。
そう思っていると、ホートライドが身を屈めて壁際を音をたてないように歩いていくのが見えた。
それを見てキルトランスは思った。あの鎧。光るし音も立てる。面倒だな、と。
俺は息を殺して慎重に壁際の影の中を移動する。
しかしどんなに慎重に動いても、鎧の金属がぶつかり小さな音を立てる。鎧を脱いでしまえば楽だろうが、それでは戻った時に言い訳がしづらくなるし、後日鎧が建物の中に残されているのが見つかったら万事休すだ。
諦めて慎重に慎重を重ねて一歩ずつその木を目指す。
途中でキルトランスが立っているはずの窓を見る。でも月の灯りがガラスに反射して中の様子は全く見えない。
再び不安が心に押し寄せるがそれを理性で押し殺す。
俺はあいつを信用すると決めた。あれだけ人心の機微に敏いアリアがキルトランスを信用しているのだ。レッタに何があったのかは分からないが、それは彼女が元気になってから本人に聞けばいい。
色々な思索をしていると、気が付けば遠くに感じた木の近くまで来ていた。
木を仰ぐと予定通り、太い木の枝の一本が塀の外まで伸びていた。あれを伝って塀の外へ飛び降りればいいな…。
そう考えながら木を登ろうとする。
ここで予想外というか、予想通りの事態が発生した。
木を登ろうとすると、鎧が木に当たって結構な音が立つのだ。色々な姿勢を取ってみるが、どうあがいても鎧が木に当たる。
焦りが額に浮かぶ。クソッ…やはり胸部の鎧だけでも脱ぐしかないか…?!
その時ホートライドが心の底から驚く事態が起きた。
彼の体がゆっくりと浮かび始めたのだ。
生まれて初めての浮遊体験にホートライドは混乱するが、すぐにキルトランスの魔術が思い当たった。
炎だけでなく浮遊術まで使えるその魔力に驚愕したが、彼を助けてくれるつもりなのだと分かって心の底から感謝した。
彼の体は驚くほど静かに、そしてゆっくりと木の枝の上に降ろされた。
枝の上に両足が付くと魔術が消えて、突然の体重を実感すると共に枝が軋む。
その音は思った以上に大きく、隊員たちに聞こえてしまうかと肝を冷やす。夜の空気は音をよく通す。枝の先端まで行くには結構な音が立ってしまうに違いない。
軽く見渡したところ巡回の隊員は見えない。だが壁の真下が死角になっていて、もしその真下にいたら気が付く事は出来ない。
だが彼らも鎧を着ている。巡回であれば少なからず音は鳴るはず、そうホートライドは思って耳を澄ませる。
夜のタタカナルの音が彼の耳に吸い込まれていく。
いつもは宵の口。街の中央広場に近いこの家であれば、酒場の盛り上がりが聞こえてくるはず。奥の家のオヤジはいつも酒を飲んで一人で笑っていた。だが、今は家は死に絶えたように静まっている。いくらあのオヤジでも今日ばかりは酒を控えたか、とホートライドは少し笑った。
風を起こすと聞いてはいたが、どうしたものかとキルトランスがいるはずの窓の方向を見た。
すると風が吹いた。
最初は穏やかな風が。周りの木の葉がサワサワと音を立てて俺を包んだ。その魔術に驚いていると、風は徐々に強くなってきた。
魔術はあまり見た事がないが、本当に風を吹かせられるとは驚きだ。そう思っている間にも風の勢いは増していく。
見れば奥の家の樹も揺れている。かなりの風切音と木々のざわめきが立っているだろう。行くなら今しかない…。
覚悟を決めて枝の先端に慎重に歩みを進める。枝のしなりも気にならないほどの葉のざわめきだが、それが逆に枝が揺れて少々怖い。
それでもようやく足が塀を越えた瞬間に下を見る。運よく巡回の兵はいない!飛び降りるなら今!
俺は覚悟を決めて飛び降りた。
空中で着地の衝撃を考えて身を屈める。
その瞬間、轟音と共に突風が吹いた。ホートライドの下から。
木々も草木も一斉に音を立てて騒いだ。
周囲の自警団たちは突風から目を守ろうと腕で顔を覆った。
そしてホートライドはほとんど音を立てることなく地面に降りた。
着地の体勢のまま驚いて固まるホートライド。
キルトランスは風を発生させて、彼の着地の衝撃まで和らげたのだ。
こうなればもう笑うしかない。完全に俺はあの魔族に助けられたのだ。何から何まで至れり尽くせりで。
立ち上がるとホートライドは何事も無かったように歩き始めた。
だがその口元には笑みが浮かんでいた。
こうしてホートライドはオレガノ邸に忍び込んだことをばれずに、無事脱出に成功したのだった。
後で持ち場を離れた事はバレて団長から少し叱られたが、「どこからか屋敷に潜入できないか探していた。」と言い訳をして事なきを経た。
そんないい加減な言い訳が団長たちに通用したのも、彼の日ごろの真面目さゆえだ。
そしてその後ホートライドは団長たち幹部相手に、次の作戦提案を一人で展開したのだった。
それは一人で自警団と戦った少女レッタのように。




