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086 美しい場所

「あんたが……レットン・グリドール」


 ソルドは呟き、わずかに眉をひそめた。


 車いすに座る、縫い目のない真っ黒な装束を着てつば(ひろ)の帽子をかぶったその男は老いている。スキャンするまでもなく、その年齢は七十歳程度であろうと容易に推測でき、痩せた体躯と微笑んでいるようにも見える緩んだ口元を見て脅威だと判断するのは難しい。


 だが、その目。

 ソルドをまっすぐ見つめ返すその瞳は白内障に曇っているが、まるで獲物の寿命が尽きるのを待ち構えているハゲワシのように鋭く、狡猾。

 サイボーグ傭兵に仕事を与え、そして使い捨てていた連中と同じ。欲深い資本家の目だ。


「そう構えなくてもいい。僕にはあなたに、あなた方に敵対する意思は無い」


 しゃがれた声で言いつつ、レットンは自分で車輪を転がし、ソルドの目の前までやってきた。


「バージルが迷惑をかけた。彼は優秀で、思慮の深い男だったが、こんな形で別れることになろうとは。欲をかかず、内なる声によく耳を傾けていれば、こんなことにはならなかったはず。残念でならないよ」


 両断されたバージルの遺体を見たレットンは身体の前でゆっくりと指を動かし、クロスの字を描いて祈る。その動作は丁度、キリスト教徒が十字を切るのと似ていた。

 ただし十字架は逆さま。

 ギャンブルの街で信仰される、異端の宗教。その信徒の証。


「スレイズ教……」

「ご存じかね。天におわす大いなる存在に祈るシルトとは違って、スレイズの者は内なる声に祈るのだよ。壮大なことは何もないが、僕はこのささやかな祈りが身の丈に合っていて好きだ」


 車いすからソルドを見上げ、にこり、と口元を綻ばせるレットン。

 彼が微笑み返すとは思っていないのか、レットンはそのまま車いすを回転させ、バージルが横たわる血だまりを横切った。

 車輪が引きずった血液が二本のわだちを描き、床に倒れて寝息を立てる少女へと向かう。


「何をする気だ」


 その進行方向に立ちはだかったソルドを見て、レットンはまたも微笑む。


「ああいやすまない、警戒させる気はなかったのだが。彼女がステラ・ホライソニア・ウォルムハルトだね? 倒れているから、どうしたのだろうと思ってね」

「あんたの優秀な部下とやらが妙な怪音波を発したせいで気を失っているんだ。そして今も鳴り続けている。あんたなら止められるか?」

「おお、そうか。バージルめ、僕に断りを入れずに研究室にこもっていることがあるとは気づいていたんだが、妙なものを発明したものだ。どれ……」


 レットンは黒い装束の内側を探り、小さな錫杖のようなものを取り出し、振った。


 りん、しゃん、りんと。


 錫杖に取りつけられた金属の輪同士が擦れ、光の玉のようなものが発生し、空気中に散っていく。

 すると数秒も経たないうちに、ソルドの電子鼓膜が異音を検知し始めた。正確には、キャンセルしていた波形の音が聞こえなくなったために、キャンセル用に発していた逆位相音が聞こえるようになったのだ。


「ずいぶんあっさりと停止させられるじゃないか。こんなに簡単な事なら、俺たちが戦っている間に止めてくれればよかったものを」

「すまないね。歳だからか、最近は耳が遠くてな。ともかく音波は止めた。ウォルムハルトもしばらくしたら目を覚ますだろうが、目が覚めたらこんなひどい有様の部屋にいるというのも可哀そうだろう。僕の部屋を案内するから、ついて来たまえ。そこで怪我した者たちの治療をしよう」

「『銀の呪い』の話もだ」

「ああ、もちろん」


 サイボーグ傭兵の念押しにレットンはにこ、と微笑み、車いすをUターンさせて大扉の奥へと進んでいく。


「……ったく」


 ソルドはステラをそっと抱え上げ、車いすの後について歩き始めた。


「しかし自分で鼓膜を破るだなんて……君の無謀さには呆れるよ。これからずっと聞こえなくなってしまったらどうするつもりなんだ」

「だから聞こえねえって言ってるだろ? なんか説教してきてるのは分かるけどさぁ。だいたい、オマエが助けに来るのが遅いからこうなったんじゃないかよ」


 途中、困り顔のオウルと彼に食ってかかるクロウとも合流する。


「お疲れ様、ソルド。君は無事みたいだね」

「おかげさまでな。お姫様もこの通り、すやすや寝息を立てて元気いっぱいだ」


 ソルドがいわゆるお姫様抱っこで抱えたステラを軽く掲げると、クロウはアハハと苦笑する。


「君も僕が助けに来るのが遅かったと思っているのかな?」

「いいや、遅いとは思っていない。助けに来るとも思っていなかったからな。だが……どうして奴と一緒に現れたのかは聞かせてもらおうか。俺たちを囮に使ったのか?」

「そう睨まないでくれよ。後でちゃんと説明するけど、天に誓って、君たちを囮になんてしていない……強いて言えば全部彼の、レットン・グリドールの掌の上だったんだ」

「そりゃ大いに結構。そして大いに気に食わねえな」

「まあそう言わずに……おっと」


 と、前方のレットンが扉の前で待っているのに気づいたオウルが駆けていき、車いすの老人の代わりに大きな二枚扉を押し開けた。

 隙間からカラフルな光が差し込み、ソルドは一瞬クラブにでもやってきたのかと錯覚する。

 だがその正体は酒に酔った客たちから正常な判断を奪うLED照明の閃光などではなかった。


 開き切った扉の向こうにあったのは、壁一面のステンドグラス。

 色とりどりの光が照らす巨大な空間はまるで聖堂だが、白い大理石を横断する赤いカーペットの向こうにあるのは説教台ではなく澄んだ水が張る人工の泉。


「この美しい場所なら、何日だってここで祈っていられる。そんな気がしないか?」


 車いすの男は自慢げに問う。


「だがまあ、どうあれ世界は先へと進む。停滞してもいられまい」


 そして振り向き、柔和に微笑んだ。


「そして今、ようやく進歩の時だ。美しき世界の未来について、何から話そうか?」

読んでいただきありがとうございます!

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