奥戸透は思う
今ならば、神の存在を信じてもいい。
奥戸はそう感じていた。
千堂沙十美の薬の納入を終わらせ、明日にはこの場所を去ろう。
後片付けをしながら、そう予定していた時に、突然の来客がやってきたのだから。
休憩の時間を邪魔されたのは不服ではあった。
だが、相手のすぐ詫びてきた様子に、悪気はない迷い込んだ客だと知る。
見たところ、この女性は強い感情を持ち合わせていない。
どうしてここに来れたのかは理解が出来ないが、早々に帰ってもらえばこちらはそれで良いのだ。
穏やかに退店を促すと、彼女は動揺のためか転倒してしまった。
駆け寄り助け起こした時に、ようやく奥戸は気付く。
左手首に揺れる大切な証を持ったこの女性に。
仕掛けておいた自分の子に、彼女は呼ばれて来てくれたのだ。
それならば特別に少しだけ、営業時間を延長してあげよう。
この冬野つぐみという女性の最期をもって。
この店の最期をも見守り、おくりとどけてやるのだ。
口元に溢れる笑みは、営業用のそれではない。
淡い輝きを放つ彼女のブレスレットを見つめ、奥戸は最上のもてなしをと考える。
あふれ出る喜びを笑顔に変え、つぐみへと向けていく。
さぁ、二人で楽しもうではないか。
――さいごの、ときを。
◇◇◇◇◇
「さて、まずは自己紹介からですね。私、ここの店長で奥戸と申します」
奥戸はつぐみへと礼をして、転倒した彼女を立ち上がらせた。
隅へと片づけていた椅子を二つと机を一つ取り出して再び並べ直し、そこに座るように彼女に促す。
机を挟み、向かい合わせで自分も座り彼女の様子を眺めれば、その顔には恐怖がくっきりと表れている。
自身の顔を見て、怯えだしたことを奥戸は思い出す。
つい笑いすぎたのがよくなかった。
そう思う一方で今この時ですら、彼は笑いをこらえているのだ。
我慢できようはずがない。
奥戸は今にも叫び出したくなる感情を、必死に抑え込んでいるのだから。
今までと違う、自己犠牲という新しい感情で作る薬。
犠牲にしてきた人間達とは正反対の、『善』の感情で作る薬。
それが一度は諦めていたのに、こちらに来てくれたのだ。
それを喜ばない人間などいるはずがない。
その思いから来る衝動に耐えながら今一度、冷静にと奥戸は心を落ち着かせていく。
あまり彼女に、負の感情を出させない方がいい。
それに気づくと、相手がうつむいているのをいいことに、声を出すことなく笑う。
なるべく穏やかに。
そう、最期まで穏やかな感情でいてもらわねば。
自分達の新しい糧、新しい薬。
そのためには、この今の状況はあまり望ましくない。
「驚かせてしまったこと。それをまずは謝らせてください」
悲しげな表情を作り、奥戸はつぐみを見つめた。
千堂沙十美からは、彼女は人を悲しませるのを嫌う性格だったと聞いている。
「あ……。と、とんでもないです! 私が勝手に転んだのに、笑うなっていう方が無理な話ですよね。こちらが悪いんです!」
焦った様子で、彼女は顔を上げると逆に謝ってきた。
話の通りだと、思わずほくそ笑む。
「では、許していただけるのでしょうか?」
「許すも何も! えっと店ちょ、奥戸さんとお呼びしてよろしいでしょうか? 奥戸さんは何も心配することなんてないですよ!」
彼女からは、すっかり怯えが消えている。
それを確信した奥戸は、話を続けようと新たな話題へと移りはじめた。
この子の心が落ち着いたら、始めることにしよう。
彼女に、私達の新しい糧になってもらうために。
喜びとその思いを湛え、奥戸はつぐみへと穏やかな視線を向けていった。




