◆『リズ』
十月十五日(リーヴェの日)
早朝。
リズアートは王城の自室で一日の支度をしていた。
衣装は身頃とスカートが一続きになったもの。
空色基調で濃淡を利用した模様付けがなにより美しく、また目に優しい。
布製で肌触りも良く、ゆったりとしているため長時間の公務でも疲れにくい。
これがリヴェティアの職人が作ったものだというのだから、自分のことのように誇らしくなる。
今は、部屋の片隅で鏡面台に座っていた。
鏡の中、自身の姿の他に、可愛らしい少女の顔が映っている。
リズアートの世話役を務める侍女だ。
彼女はまだ十二歳と若く、身長は低い。
だが風貌に似つかわしくなく、仕事は卒なくこなしてくれている。
なにもその愛嬌ゆえに、世話役を任せているわけではなかった。
と、不快にならない程度に後ろの髪が引っ張られた。
鏡の中、侍女の手がリズアートの髪を結い上げていく。
「ログナート様、遅いですね。いつもなら、もういらっしゃってる時間なのに」
「あ、今日はエリアスは来ないわ。あなたはまだ知らないかもしれないけれど、彼女にはこうしてたまに休んでもらっているの」
「そうだったのですか。ですがログナート様がよく納得されましたね。こういってはなんですが、意地でも断りそうな印象しかありません」
侍女のあけすけな言い方に、歳相応の無遠慮さを感じた。
そうしたところもまた彼女の魅力なのだが、もしこの場にエリアスがいたら、きっと怒られていただろう、とリズアートは思った。
「もちろん最初は断られたわよ。でも、やっぱりエリアスが良いって言ってくれても、わたしの方が、ね。気を遣うとかそういうわけじゃなくて、彼女にもやっぱりわたしの護衛……騎士以外にも生き甲斐というか、したいことを見つけて欲しいから」
「優しいですね、リズ様は」
「ただの自己満足よ。結局は自分が楽になりたいから。もしわたしがいなければ、彼女はもっと良い道を歩めたんじゃないか、って。そう思うとね」
「そうした言い方も、やっぱり優しいです」
穏やかな笑みを浮かべながら、侍女は持ち上げてくるのをやめない。
これが表面上だけの発言であれば軽くあしらえるのだが、彼女の場合、おそらく心底そう思っている。
だからこそ始末が悪かった。
半ばあきれ気味にリズアートが「もう」と言い放つと、侍女がくすりと苦笑した。
「では代わりにどなたか別の騎士様が来られるのですか?」
「ええ。一人だけど、来てくれることになっているわ」
「一人、ということは一桁代の方ですね」
「そうなるわね」
おそらく言い切らない返答に違和感を覚えたのだろう。
侍女が首を傾げていた。
「リズ様。なにかいいことでもありましたか?」
てっきりつい先刻の言い切らない返答について訊かれると思っていたのだが、まったく別の質問をされた。
リズアートは思わずきょとんとする。
「別にないけれど……どうかしたの?」
「いえ。ただ、なんとなくなんですが、今日はいつもよりご機嫌だなって」
あどけなさの残る貌に満面の笑みを浮かべ、侍女が鏡を介して目を合わしてきた。
リズアートは目をぱちくりとしながら、正面に映し出された自身の顔を見つめる。
「そっか……嬉しそう、ね」
「も、申し訳ありません。勝手なことを言ってしまって」
「いいのよ。そう見えるのなら、たぶん……いえ、きっとそうだと思うから」
ほんのわずかだが、いつもより頬が上がっていた。
これでは機嫌が良いと思われて当然だ。
そしてなにも理由がないまま、こんな浮かれた顔にはならない。
きっと無意識のうちに、これからのことを待ち遠しく感じてしまっていたのだろう。
だって彼と二人きりで話すなんて本当に久しぶりなんだもの。
意識すると、そわそわしてきた。
唯一、自分に気兼ねなく接してくれる人物。
ベルリオット・トレスティング。
つい先日、王城騎士に叙任された彼が、本日の護衛役だった。
◆◇◆◇◆
「でもまさかリンカが七位になってたとはな」
「ベルが叙任される直前にね」
「別に序列に対してこだわりはないんだが、リンカの上になるって思ったときだけはほんのちょっと優越感を覚えたな」
「そういうところ、ほんと生意気」
ベルリオットは、リンカと肩を並べて王城内を歩いていた。
本日、エリアスが久方ぶりに休みをもらうとのことで、ベルリオットが護衛役に指名された。
王城騎士になって初の大任だが、そう思えないのはリズアートとすでに親しくなっているからだろう。実際は親しいとは意味合いが違うかもしれないが、少なくとも気兼ねなく話せる関係であることは間違いなかった。
ちなみにリンカがいるのは、ベルリオットが女王相手に粗相を犯さないか心配だから、という理由らしい。あんたは俺の保護者か、と最初は断ったのだが、なにを言っても聞かないので結局こちらが折れることにした。
リンカが足を止め、腕を組む。
「あたしの方が上なんだから。もっと敬いなさい」
「上なのは序列だけだろ。あと歳もか。それ以外は……」
ベルリオットは、リンカの足から頭のてっぺんまで見つめる。
と、リンカにブーツのつま先で脛をかつんと蹴られた。
しびれるような痛みに見舞われ、思わず飛び跳ねる。
「いてぇ。なにすんだよ!?」
「誰が小さいって?」
「んなこと言ってねえ」
「目がそう言ってた」
じっと見つめられ、目をそらしてしまった。
「ほら、やっぱり」
「いや、思ったのは身長だけだからな。それだって別にけなしてるわけじゃなくて」
「これでも気にしてるの。っていうか、“だけだから”って他にもなにかあるってことよね」
どうやら自ら失態をおかしてしまったらしい。
リンカが細めた目でじーっと見つめてくる。
今も腕を組んでいる彼女だが、まったく強調されないその胸こそが、まさにベルリオットの脳内に小さいとして認識された“他のもの”だった。
「いや、それは言葉のあやというか」
「言い訳しない」
「……悪かった。まあ、別に色々小さいからって気にする必要ないだろ」
かつん、という音と同時、ふたたび脛に痛みが走る。
「いってぇ! またっ!」
「しつこい」
「くっそ……俺は気を遣っただけで――」
「嫌味にしか聞こえない。罰として今度おごってもらうから」
ぎりっと睨まれた。
その瞳には有無を言わさない迫力があった。
「わかった、わかったよ……」
大げさにため息をつきながら、ベルリオットは肩をすくめた。
とはいえ、態度ほど嫌な気持ちはなかった。
もともと金銭面は問題ない。王城騎士になったこともあって給金が増えたからだ。
そうではなく、初対面からなかなか上手く付き合えなかった相手と、こうして打ち解けられていることが嬉しかったのだ。
「どうしてリンカがいるのかしら……?」
ふいに聞こえてきた声は、近場に迫っていた王城居住区の方からだった。
そちらへ向き直ると、リズアートが怪訝な表情で立っていた。
すばやく姿勢を正したリンカが、リズアートの問いに答える。
「僭越ながら自分も陛下の護衛に同行させていただいてもよろしいでしょうか。一応彼、自分の元部下だったので、陛下に粗相をしでかさないか心配で様子を見ていたいのです。昼から任務の予定があるので、それまでになると思いますが」
リズアートの眉根がぴくんと動いた。
「無理をしなくてもいいのよ。最近はあまり休みをとれない日が続いていたでしょうし、休めるときに休んだ方がいいと思うわ」
「お気遣いありがとうございます。ですが無理はしていませんので大丈夫です。それに休みをとっていないのは、彼の方が当てはまると思います」
「そ、そう。そうね」
「自分のことはどうか気にしないでください」
「そういうことなら、いいでしょう」
「ありがとうございます」
リンカの淡々とした受け答えに、心なしかリズアートの顔が引きつった――ように見えた。
不穏な空気を感じ取ったベルリオットは、挨拶がてら話題転換を試みる。
「あ~、と、陛下。初めてなんで色々至らないところはあるかもしれませんが、今日はよろしくお願いします」
直後、リンカに肘打ちを食らった。
「だから雑」
「そう言われてもな」
頭をかきながらベルリオットが言い訳しようとする。
と、それを遮るようにリズアートがしとやかに微笑んだ。
「ええ。お願いね。“トレスティング”」
無駄のない洗練された笑みだ。
しかしだからこそ、それにはふんだんに嫌味が込められている気がした。
リズアートの公務は基本的に王城内で行われる。
動き回ることはなく、執務室に政務官側から出向いてくる形だ。
打ち合わせの内容は大きく二つにわけられる。
グラトリオが引き起こした事件で生じた被害への復興作業、ディザイドリウム民の移住受け入れの二つだ。中でもディザイドリウム民の食糧の確保が急務となっているようで、そちらに関する案件が多かった。
公務中、ベルリオットはリンカとともに、リズアートの背後でずっと控えていた。
その間、見ていて感じたことがあるのだが、政務官たちがやけにおびえているようだった。
恐らくリズアートの態度が原因だろう。
いつもの彼女がどのように公務を行っているかはわからないが、理不尽に怒りを振りまくような人間でないことはたしかだ。
だからきっと今日に限ってのことだろう。
今もまた、ひとりの政務官が怯えながら退出していった。
こちらにだけ聞こえるぐらいの声で、リンカがささやく。
「怒らせるようなこと、なにかしたでしょ」
「いや、なにも」
そう答えたが、本当は予想がついていた。
リズアートは対等に扱ってもらうことをなによりも好いている。
そのため、つい先刻、ベルリオットが礼儀を重んじたのがきっと気に障ったのだろう。
彼女は女王という立場を理解しているため、誰にでも対等に接することを求めるわけではない。
公務で関わる相手には、しっかりと一線を引いている。
その公務で関わることのなかった人間の中に、ベルリオットは今まで入っていた。
だが、今は違う。
王城騎士という肩書きを得た。
王を頂点とした階級に明確な立場として組み込まれたのだ。
だから他人がいる中、リズアートに対等な接し方をしてはまずい、とそう思った。
きっと彼女だってわかっているはずだ。
しかしそれでも思うところがあるのだろう。
「なにをこそこそしているのかしら」
振り向かずにリズアートが言い放った。
棘が大量につけられたその言葉に、ベルリオットとリンカは即座に姿勢を正した。
「それでは陛下。自分はこれから東方防衛線の監査があるので失礼します」
王城の回廊。
リズアートに挨拶をしたあと、リンカがベルリオットの傍に寄ってくる。
「じゃあね、ベル」
「ああ」
「おごりの件、忘れないでよ」
「わかってるって」
リンカが去った。
つまりリズアートと二人きりだ。
「随分と仲が良いのね?」
リンカの姿が見えなくなるなり、リズアートが言った。
「別にそんなことは――」
「ないとは言い切れないでしょ。つい最近までは、リンカに嫌われてるってエリアスに相談していたくらいなのに。いつの間にか名前で呼び合っているし」
「別に深い意味はないって。ただ、まあ色々あったんだよ」
「色々、ねえ」
意味深に「色々」を強調してきた。
別に弁解する必要はない。
だが、弁解したい、と思う気持ちが生まれた。
どう説明したものか、と考えていると、ふと視線の先に見知った人物を見つけた。
小柄な体形、緑色の長衣に大きめの帽子姿の彼は、ラグ・コルドフェン。
ディザイドリウムの宰相だ。
ラグもこちらに気づいたようだ。
ぱたぱたとこちらに駆け寄ってくると、リズアートに一礼した。
リズアートが声をかける。
「コルドフェン宰相。わざわざリーヴェまで来てくれてありがとう」
「いえ、とんでもないです。それにディーザの民のためですから」
リズアートとの挨拶を済ませたラグが、こちらに向き直る。
「ベルさん。こちらでお会いするのは初めてですね」
「そういえば。最近よく会ってるからか、ラグさんとはずっと前から知り合いみたいに感じるんだよな」
「わたしもです」
嬉しそうにラグが無垢な笑みを浮かべた。
恥じらいもなくこうした笑顔を自然と作れる人は少ない。
それが彼の魅力であり、ベルリオットも気に入っているところだった。
ラグはリヴェティアの政務官たちと打ち合わせがあるらしく、簡単に挨拶を済ませたのち、早々に去っていった。
「ベルさん、ねえ」
リズアートがねちっこく言った。
「なんだよ」
「いいえ、なにも。ただコルドフェン宰相と“も”仲が良いんだな、って」
「まあ、最近はほとんどディーザで過ごしてるしな。食事にもよく一緒に行くし」
「ふーん。リンカに、コルドフェン宰相……ベルリオットって、そういう系が好きなの?」
「は? なに言ってんだよ」
「なにってそのままの意味だけれど?」
リズアートは無表情だが、そう装っているだけに過ぎないことはわかった。
怒っているのがひしひしと伝わってくる。
「いい加減、機嫌なおせよ」
「あなたが本当に鈍感な人だったらこうも怒らないわよ。わかってるんだから。あなたが、わざとわたしの名前を呼ばないようにしていたってこと」
言って、唇をきつく結んだリズアートのしぐさは、年相応の少女のそれだった。
女王の威厳など一切感じられない。
「そのぶんのつけをしっかり払ってちょうだい」
「つけって。どうすればいいんだよ」
その問いに、リズアートが目をそらしたあと、わずかに顔をうつむかせた。
体をこわばらせながら、なにやら口元をもごもごとさせている。
「リズ……って呼んで」
こちらをうかがうように、彼女がぼそりとつぶやいた。
ベルリオットはたまらず目をしばたたかせる。
途端にリズアートの瞳が不安で満たされていく。
「な、なによ……?」
「いや、あんたが恥ずかしがってるとか柄じゃないな、と」
「うるさいわね。なんかこう、改めてだと照れるの」
指摘されたことで、さらに恥ずかしくなったのか。
リズアートが顔をそらした。
顔は見えなくなってしまったが、代わりに赤くなった耳がよく見えた。
それがおかしくて、ベルリオットはぷっと噴き出してしまう。
「“女王様”の意外な一面を垣間見たって感じだな」
「ちょっと! それはないでしょう?」
「それってなんのことやら」
「だから……!」
怒るリズアートに背を向けて、ベルリオットは先を歩く。
「待ちなさい、ベルリオット!」
後ろから彼女の怒声が聞こえた。
ベルリオットは足を止め、肩越しに告げる。
「俺がひねくれものだってことぐらい、もう“リズ”だってよく知ってるだろ」
一瞬だけきょとんとしたリズアートだったが、すぐに含まれた言葉に気づいたらしい。
眉尻を下げ、心底あきれたようにため息をついた。
「もうっ……ほんとよ。たちが悪いってもんじゃないわ」
彼女と知り合った当初、いつも振り回されてばかりだったのだ。
これぐらいいいだろう、と。
そんなちょっとした仕返しのつもりだったのだが、彼女を名前で呼べたことに、嬉しいと感じた自分がいたことに気づいた。
リズ。
いつも毅然としている彼女には似合わない可愛い愛称だと思っていた。
だが今日の彼女からは、普通の女の子と変わらない愛嬌を感じられた。
だから、今ならはっきりと言える。
彼女にぴったりの愛称だ、と。




