その答案、捨てないで
果樹園が、頭上へ落ちた。
石床が垂直に起き上がり、二十人分の悲鳴と青白い果実を天井へ放り投げた。根を下にしていたはずの樹々は、いまや空から逆さに垂れ、枝の海を揺らしている。実だけが重さを忘れ、星のように上へ昇っていった。
リナは根の網へ肩から落ちた。
息を取り戻すより先に、枝が動く。
ぎ、ぎぎぎ、と硬い音を立て、細枝が受験生たちの周りへ籠を編んだ。向かいの根には、小柄な生徒が片脚を挟まれている。さらに下――いまの下は石床のある壁だった――では、枝籠が一つ、根の網から剥がれかけていた。
「触らないで! 宮が次の向きを決めるまで待て!」
見届け人の声が遠い。
待てば、枝籠は落ちる。
「待たない」
リナの手元に、試験前に返された答案があった。
名前の下に、乾いた暗赤の長方形が押されている。
不合格。
点数はない。結果欄ばかり埋め、肝心の条件を説明できていない答案には、数える価値もないという印だった。
リナは腰紐から白灰色の解環を外した。平たい一重の輪を、答案の余白へかざす。
「それを使うな!」
「使えるかどうか、まだ誰も知らないでしょ」
書いた一行が光った。
文字は紙に残ったまま、同じ形の光だけが輪の内側へ移る。
――枝檻は開いている。
世界から音が引いた。
どくん。
果樹園全体が一度、脈を打った。
答案の余白に刻まれた十二の小枠のうち、一つ目だけが暗くなる。
閉じていた枝のあいだへ、白い縁を持つ大きな裂け目が現れた。開いていく途中はなかった。初めからそこだけ枝が育たなかったように、向こうの空まで抜けている。
リナは手を伸ばした。
裂け目の縁は冷たい。指が触れる。押せば体重を返す。
「見えてるだけじゃない」
開口の向こうには、半透明の人影が浮かんでいた。
小柄な生徒は根の上に座り、挟まれていた脚を抱えている。別の受験生は割れた枝を踏み越えている。リナ自身の影もいた。頬に細い傷をつけ、枝籠の外でこちらを睨んでいる。
だが、現在のリナはまだ籠の中だ。頬にも傷はない。
「あれが未来なら、どうして私はここにいるの」
「人は影だけだから」
根を這ってきた声が答えた。
銀灰の長い髪に葉をつけたセシルが、枝の外からリナを見ていた。教室では紙以外に触れないような筆記首席が、いまは両膝を泥だらけにしている。
「景色は触れる。でも、そこにいる私たちは影だけ。十二までに同じ景色を本物にしなければ、あの開口は消える」
「一文で怖いこと言うね」
「二文よ」
「首席って、そこ数えるんだ」
二つ目の鼓動。
開口の白い縁に、薄いひびが走る。
セシルは半透明のリナを見た。未来の頬傷ではなく、その足元を見る。
「あなたの影が踏んでいる枝だけ、折れ口が白い」
現在の同じ場所には、枝が重なっている。その奥で、獣の角のような青いものが光っていた。
未決宮の守護獣が残した角片だ。
「あれを差せば、籠を割れる?」
「差すだけでは足りない。影のあなたは頬を切っている。枝が跳ねる」
「だから避けろって?」
「避けるかどうかは、あなたが決めて」
三つ目。
枝籠の下で、小柄な生徒が息を詰めた。
「脚、抜ける?」とリナは叫んだ。
「動かすと、もっと挟まる」
「枝が開いたら、根の太い方へ転がれる?」
返事が遅れた。
四つ目。
「……やる」
「ほかの人も。開いたら、影と同じ方へ出る。いやなら今言って」
受験生たちが互いを見る。見届け人は止めようとしていたが、枝の海に隔てられて届かない。
「出る」
「私も」
「行ける」
五つ目。
「セシル。角片、取れる?」
「取る」
セシルは魔法を使わなかった。
解環へ手も伸ばさない。根の網を渡り、枝へ腹ばいになり、青い角片へ片腕を差し込む。袖が裂けた。指先が届かないと知ると、靴を脱ぎ、その踵で角片をこちらへ弾いた。
角片が空中へ出る。
リナは未来の開口へ腕を出し、それを掴んだ。
実体のある未来を通して、現在の遺物を受け取れる。
六つ目。
角片を未来痕の足元へ差す。枝が鳴った。
七つ目。
「顔、右へ!」
セシルの声に、リナは反射で左を向きかけた。
「右って言った!」
「分かってる!」
負けたくなくて、右へ顔を背ける。
角片へ体重をかけた。
枝が白い折れ口から裂ける。
ばきん。
跳ねた枝先が、未来痕と同じ場所を薙いだ。リナの頬を薄く切る。
八つ目。
先にあった開口と、いま本当に割れた開口が重なる。
白い縁が消えた。けれど穴は閉じない。答案に書いた景色へ、現在が追いついたのだ。
「今!」
小柄な生徒が根の太い方へ転がる。他の受験生も続く。最後にリナが枝籠を抜けた時、十二まで数えるはずだった鼓動は八つで止まった。
床がもう一度回る。
今度は皆、根へ腕を回していた。果実だけが空へ降り、石床が足元へ戻ってくる。
*
見届け人は答案を拾い上げた。
「未認証の誤答だ。封じて保管する」
「返してください」
リナが手を出す。
「これは事故を起こした」
「人も助けた」
「再現条件が分からない」
「だから調べるんでしょ」
言い合う二人の間へ、白い手が伸びた。
セシルは答案の端をつまみ、見届け人の手から抜き取った。
「首席?」
「成立条件欄が空白です。保管前に、筆記上の欠落を確認します」
「それは担当官が――」
「私が首席です」
便利な言葉として使った顔だった。
セシルは答案を外套の内側へ入れる。
「ちょっと。それ、私の」
「ええ」
「返して」
「あとで」
「捨てる気?」
セシルは、頬に同じ位置の傷をつけたリナを見た。未来痕はもうない。それでも、あの影が嘘でなかったことだけは残っている。
「その答案、捨てないで」
頼んだくせに、紙を持っているのはセシルの方だった。




