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山陰の家、血の記憶

人は誰もが、自分だけの「秘密の画面」を持っている。


本作の舞台となるのは、山あいに囲まれ、美しい伝統が息づく静かな町。夏の夜、誰もが我を忘れて踊り明かす、あの情熱的なお祭りの裏側で、ある凄惨な殺人事件が幕を開けます。


事件の謎に挑むのは、冷徹なまでの論理を操る名探偵・一ノ瀬蓮。

彼が暴いていくのは、一見すると平穏に見えるコミュニティの歪みであり、現代のネット社会が地方の閉鎖的な人々に落とす、あまりにもおぞましい影の数々です。


積み上げられた嘘。それぞれの自己保身。

パニックに陥った人々が織りなす「多重誤認のドミノ倒し」を、名探偵がどのように叩き潰していくのか。その圧倒的なロジックの妙味を、まずはじっくりとお楽しみください。


しかし、どうか忘れないでほしい。

どれほど完璧に見える論理であっても、人間が抱く「底なしの狂気」の前では、ただの虚構に過ぎないかもしれないということを。


熱気と闇が交錯する夜へ、ようこそ。


奥神楽の山々は、夕刻を過ぎると途端にその輪郭を深い闇へと溶かしていく。


九条川の上流、九条谷の市街地からさらに險しい山中へと分入った先にある『そば処川久』の周囲に


は、文字通り山しか見えなかった。


夜になれば静寂がすべてを支配し、点在する数軒の灯りも、すべて身内のものだった。



「……よし、これで終わりか」



店主の和田は、使い込まれた湯桶を流し台の棚に仕舞い、厨房の勝手口から夜の山を見上げた。



柱時計の太い針は21時を回ったところだ。11時の開店から引きずってきた足の重みを覚えながら、


彼は煤けたエプロンを外す。


かつて和田の家は、この山で木炭を生業として生きてきた。

だが、時代の流れとともに炭の需要は完全に下火になり、生きるために始めたのがこの蕎麦屋だった。


暖簾を守り続けてはいるが、心の中の乾いた虚しさは消えない。


(結局、俺たちはこの山に縛られて生きていくしかないんだな……)


和田が母屋へと続く渡り廊下を歩きながら見つめるのは、敷地内にぽつんと佇む別棟の影だ。

そこには、かつてこの家に新しい風を吹き込んだはずの、外国籍の妻の面影が染み付いている。国際結婚――。その響きは、この閉ざされた村において、祝福ではなく「奇異の目」という静かな排除の対象でしかなかった。


(あいつが生きていた頃は、まだ、この暗い山道にも光があるように思えたのに)


妻は、長女の麗華がまだ中学生という、もっとも母親を必要とする多感な時期に、癌に侵されて逝った。看病の末に妻が息を引き取ったあの日から、和田の時間は半分止まったままだ。悲しみに暮れ、ただ泥のように眠る日々の中で、残された二人の娘の存在だけが、彼を現世に繋ぎ止める細い糸だった。




第二章:長女・麗華の「傷」と「光」

母屋の自室で、長女の麗華はスマートフォンの画面に目を落としていた。

地元の高校の陸上部に所属する彼女の身体はアスリートらしく引き締まっているが、その心には、誰にも触れさせない深い抉れ傷がある。


(どうして、あんな酷いことを言っちゃったんだろう……)


母が亡くなったあの日の朝。些細な、本当に取るに足らない口喧嘩をしてしまった。それが、最愛の母との最後の会話になった。「ごめんなさい」も言えないまま、母の身体は冷たくなっていった。


その罪悪感は、当時中学生だった麗華の心を容赦なく引き裂いた。沸き立つような自己嫌悪と息苦しさから逃れるため、彼女は衝動的にカミソリを握り、自分の肌を傷つけた。刃が皮膚を走る瞬間の、鋭い痛みと、その後に訪れる妙な静寂。

そうして自傷行為を繰り返すことでしか、当時の麗華は精神のバランスを保てなかったのだ。


「お姉ちゃん、大丈夫……?」


当時、2歳離れた妹の麗奈が、不安そうに部屋の障子を開けて覗き込んできた時のことを、麗華は今でも鮮明に覚えている。泣き出しそうな妹の目を見て、麗華はハッと我に返った。


(私がしっかりしなきゃ。お父さんも、麗奈も、私が支えるんだ)


親子三人、互いの傷口を舐め合うようにして、ただ寄り添って悲しみを逃してきた。

母の壮絶な看病を目の当たりにした経験から、麗華の心には「看護師になる」という明確な灯火が宿っていた。


毎朝、父の運転する軽トラックの助手席に乗り、村の入り口まで送ってもらう。それが彼女の日常の始まりだ。車内には出汁の匂いが微かに漂い、父は無言でハンドルを握る。村の入り口で車を降り、そこから高校へと向かう。


高校でも、麗華は陸上部に全てを捧げていた。

走っている間だけは、過去の悔恨も、自傷の衝動も、すべて風の彼方に置き去りにできる気がしたからだ。


「絶対に、県大会に行くんだ……!」


放課後のグラウンド、夕焼けに染まるトラックを走り込みながら、麗華は荒い息の隙間でそう自分に発破をかける。最近、同じクラスの男子と付き合い始めた。彼と過ごす時間は、麗華にとって人生で初めて訪れた、歪みのない「真っ当な青春の光」だった。





第三章:次女・麗奈の「退屈」と「世界の歪み」

一方、中学生になった妹の麗奈は、姉と同じ陸上部に籍を置きながらも、全く違う熱量で日々を過ごしていた。

毎日、近くの中学校へ通い、部活が終われば山奥の自宅へと帰る。


「……はぁ、今日も何もない」


静まり返った母屋で、麗奈は畳の上に大の字になった。

最初の頃は、誰もいない家で一人の時間を満喫していた。お気に入りの漫画を読み、静寂を楽しむ。けれど、そんなものはすぐに飽きた。段々と、この山奥の環境が、自分を窒息させる檻のように思えて仕方がなくなってきたのだ。


(お姉ちゃんは陸上で忙しいし、お父さんは毎日お店。私はここに置いてけぼり)


寂しさを紛らわせるように、麗奈はノートに絵を描き殴り、声を張り上げて流行りの歌を歌った。物置から埃をかぶった古いアコースティックギターを引っ張り出し、コードを指に染み込ませて弾き語りをしてみる。


「これ……誰か見てくれるかな」


ほんの悪戯心だった。自分のスマートフォンで、歌っている姿をSNSに配信してみた。画面の向こうには、誰もいないはずの山奥とは違い、無数の「誰か」がいた。


『可愛いね』『声、癒されるわ』


流れてくるコメントに、麗奈の胸は高鳴った。視聴者たちは、この山奥ではぐくまれた「純朴な少女」という記号に飛びつき、やがて画面越しに『投げ銭』を放り込むようになっていった。


ある日の配信中、麗奈は冗談半分で、近くの自動販売機に貼ってあったQRコードを画面に映してみた。

「誰か、これに投げ銭してジュース奢ってよー」


ピコン、と手元の端末が鳴った。次の瞬間、目の前の自販機がガタリと音を立て、冷たい缶ジュースが取り出し口に落ちてきた。


「え……?」


麗奈は総毛立つような恐怖と、同時に奇妙な全能感を覚えた。会ったこともない、名前も知らない誰かが、自分の指先ひとつの動きで、この山奥の物理的な現実を動かしたのだ。


(何これ……おかしい。この世界、なんか歪んでる……)


気味の悪さを感じつつも、麗奈の心は完全にインターネットの泥沼に囚われていた。彼女の中に、ひとつの明確な野心が芽生える。


(ここから出たい。この閉ざされた退屈な山から、一刻も早く飛び出すんだ。そのために、このお金を貯めて、都会で一人暮らしをしてやる)





第四章:エスカレートする闇

しかし、甘い時間は長くは続かなかった。

麗奈がどれだけ新しい歌を歌っても、突飛なことをしても、視聴者は徐々に飽き、投げ銭の額は目に見えて減っていった。一人暮らしの資金には、程遠い。


「このままじゃ、ここから抜け出せない……」


焦りと、暗い山奥に閉じ込められる恐怖が麗奈を苛む。そんな焦燥感の中で、彼女のスマートフォンが、これまでとは違う特別な通知を鳴らした。


アカウント名:『わたる』。フォロワー数8万人を誇る、SNS界隈の人気配信者だった。20歳の彼は、都会の洗練された空気を纏い、麗奈にとっては雲の上の存在だった。


『君の配信、面白いね。よかったら今度、一緒にネットゲームでもしない?』


「嘘……渉くんから、DM……っ!?」


麗奈はベッドの上で跳ね起き、胸の鼓動が耳の奥でうるさいほどに鳴り響くのを感じた。

自分が一番不安で、誰かにすがりたかった絶妙なタイミングで、憧れの人が自分を見つけてくれたのだ。


それからというもの、麗奈は毎日のように渉とネットを通じて連絡を取り合うようになった。

歳の近い、都会の優しいお兄ちゃんのような存在。毎晩オンラインで渉と一緒にゲームをして、他愛のない会話を交わす時間だけが、孤独な麗奈にとって、唯一の救いであり、息ができる空間だった。


『麗奈ちゃんは本当に素直で良い子だね。僕はいつだって君の味方だよ』


スマートフォンの冷たい画面に映る渉の優しい言葉を見つめながら、麗奈は甘やかな依存の心地よさに深く、深く沈んでいく。




第五章:村の因習と、仮面の下の獣

山奥の閉鎖性は、インターネットの闇とは別のベクトルで、父・和田を追い詰めていた。

地域で立ち上がった『地域もりあげ隊』という組織。その実態は、古くからの同権意識を押し付ける強制的な集まりだった。


「和田さん、あんたの店も協賛金と、当日の炊き出し協力、義務だからね。地域の顔を立ててもらわんと」


そう言って店に上がり込んできたのは、町内会長であり、PTA会長も兼任する、清水という男だった。事あるごとに「自分がこの地域の顔だ」と言わんばかりの傲慢な態度を取り、村の人間は皆、清水を嫌っていた。だが、波風を立てるのが面倒なため、誰もが愛想笑いを浮かべて従っている。


和田の胸の奥で、黒い感情がとぐろを巻いた。

(あいつが生きていた頃、外国人の嫁をもらったと、村に汚い血を入れたと、さんざん奇異の目で見て爪弾きにしやがったのは、どこのどいつだ。清水、お前だろ……!)


自分たちの都合で地域を盛り上げるとなった途端、掌を返して「義務」だの「協力」だのと命令してくる態度に、和田は吐き気がしていた。だが、娘たちの生活を思えば、ここで孤立するわけにもいかない。


しかし、この清水の仮面の下には、さらにおぞましい歪みが隠されていた。


表向きには「地域の顔」として大声を張り上げ、道徳を説く清水だったが、夜の帳が降りると、彼は村の誰にも言えないような不穏な活動に身を投じていた。夜間巡回を口実に、誰の目も届かない暗がりへと消えていく清水の背中には、昼間の厳格さは微塵もなかった。


彼が闇の中で貪っていた、村の人間には絶対に知られてはならない歪んだ欲望。そして、その暗がりで行われていたおぞましい行為の全貌に、村の男衆がどう関わっていたのかは、この時点ではまだ、誰も知らない深い闇の中に隠されていた。





第六章:長女・麗華の疑惑と、決意の朝

長女の麗華は、家族を取り巻く空気が日に日に狂っていくのを、誰よりも敏感に察知していた。

「地域の顔」を気取りながら、父の店に上がり込んでは協賛金や義務を押し付け、執拗に和田家を追い詰めていく清水の傲慢な態度。父の背中は、日に日に疲弊していくように見えた。


そんな運命の『夏祭り』の数日前。麗華は、『もりあげ隊』の青年のスマートフォンに届いた、一通の不審なポップアップ通知を偶然目撃してしまう。

送り主は清水だった。そこには不気味な隠語とともに、あまりにも醜悪で、冷酷な男たちのやり取りが並んでいた。恋人もまた、『次の祭りの夜、例の場所(神社の木炭小屋)で』と、下卑た返信を送っていたのだ。


(嘘……清水たちは、裏で何かおぞましいことを企んでいるの!? 私の恋人まで巻き込んで……!)


地域の顔役を気取る清水は、裏で若者たちを巻き込み、村の人間には決して言えないようなおぞましい闇の活動に手を染めている。そしてその夜、神社の裏で何かを共有しようとしているのだ。


(神社の裏で『証拠』を突き止めなければ。)





第七章:混迷の夏祭り、闇に重なるドミノ

夏祭りの当日。山あいの村は熱気と酒の匂いに包まれていた。

至る所に提灯が灯り、威勢の良い掛け声が響く中、父・和田は『地域もりあげ隊』の命令通り、汗だくになって炊き出しのうどんを茹で続けていた。大鍋から立ち上る湯気の向こうで、村人たちにペコペコと頭を下げながら立ち働く父の背中は、村の因習に耐え続ける男の哀愁と疲弊に満ちていた。


深夜、祭りが最高潮に達し、誰もが泥酔して周囲への注意を散漫にさせている頃。

長女・麗華は、喧騒から離れた静まり返る神社の境内へと足を進めていた。懐には、数日前に恋人のスマホに届いていた『次の祭りの夜、例の場所(神社の木炭小屋)で』という清水からの通知が焼き付いている。


(あの清水の弱みを握るか、あの場所にある『証拠』を突き止めなければ、お父さんも、私たちの生活も、全部あの化け物に喰い尽くされる……)


手にした懐中電灯の細い光だけを頼りに、麗華は神社の本殿裏にある古い木炭小屋へと滑り込んだ。鍵の壊れた古い道具箱。麗華は息を殺し、台所から持ち出した父の工具を使って、清水たちが裏で共有しているはずの「おぞましい活動の証拠」を暴こうと、必死に箱の隙間をこじ開けようとしていた。


その時だった。


ギィ……と不気味な乾いた音を立てて、小屋の古い木扉が開いた。

ハッと振り返った麗華の視界に飛び込んできたのは、下卑た笑みを浮かべ、酒の匂いをプンプンと漂わせた清水の巨体だった。


「誰だ……? ほう、麗華じゃないか。こんな夜中に、お前、俺を待っていたのか? 随分とかわいい真似をしてくれるじゃないか」


清水は麗華の姿を見るなり、その瞳に猛烈な、ねっとりとした欲望を宿らせて距離を詰めてきた。麗華は背中を道具箱に打ち付け、恐怖で全身の血が引いていくのを感じた。

「清水さん、触らないで……! あなたたちが裏で何をしてるか、全部暴いてやるから!」


「暴くだと? 生意気な口を利くな。お前たちの店がこの村で生きていけるのは、誰のおかげだと思っている。父親の代わりに、お前がその身体で義務を果たしに来たんだろ?」


清水は傲慢に言い放ち、抵抗する麗華の細い腕を強引に掴んで冷たい床に押し倒した。巨体で完全に組み敷かれ、衣服を剥ぎ取られそうになる極限のパニック。麗華の脳裏に、これ以上父を苦しめさせない、自分たちの生活を守るという執念が爆発した。彼女は必死に床を這うように手を伸ばし、転がっていた荷造り用の頑丈な麻紐を掴むと、清水の首へと必死に巻き付けて全力で締め上げた。


「嫌……! 離れて、離れろ!!」


必死の抵抗。だが、清水の肉体はあまりにも分厚く、逆に麗華の首を掴み返され、彼女の視界が恐怖と酸欠で遠のきかけた、その時だった。


「麗華に触るなーーーっ!!」


暗闇を裂いて飛び込んできたのは、麗華の恋人である彼氏だった。彼は床に転がっていた木炭用の重い薪を拾い上げると、麗華を組み敷く清水の頭部を、背後から全力で殴りつけた。


ゴカッ、という鈍い音が小屋の木霊こだまとなって響き、清水の巨体がドサリと床に崩れ落ちて完全に動かなくなった。


「大丈夫か、麗華!?」

恋人に抱き起こされ、麗華は激しい呼吸を繰り返しながら、ガタガタと震えた。

「あ、ありがとう……! 私、清水たちの証拠を掴もうと思って……。あなた、清水に無理やり従わされていたのね? 私を助けてくれたのね……!」


「……ああ、そうだ。俺もあいつの言いなりになるのはもう限界だったんだ。今のうちにここを出よう。俺が殴ったことは誰にも言うな。いいな」


恋人の青年は恐怖に顔を歪めながらも、優しく麗華の手を引いた。麗華の胸には、自分を命がけで怪物から救い出してくれた恋人への、これまで以上の深い愛と、強い絆が芽生えていた。清水の闇に染まりかけていた彼を、今度は私が支えて、一緒にこの村で生きていこう――。互いの手を強く握り締めながら、二人は入念に自分たちの痕跡を拭き取り、命からがらその場を立ち去った。



暗い木炭小屋の床に、清水の巨体は横たわっていた。麗華の紐で首を絞められ、恋人の薪で頭を強く殴打された清水は、完全に意識を失っていた。


だが、彼は死んでいなかった。


二人がパニックで小屋を飛び出してから数十分後。夏の夜風が隙間から吹き込む小屋の中で、清水の巨体がピクリと動いた。



「……がはっ、げほっ……!」



清水は激しく咳き込みながら、朦朧とした意識の中でゆっくりと上体を起こした。


麗華の麻紐による窒息も、恋人の一撃も、彼を気絶させるに留まっていたのだ。

強烈な頭痛に顔を歪め、後頭部から流れる血を指で拭いながら、清水は床に唾を吐き捨てた。

「あのクソアマとガキめ……ただで済むと思うなよ……」

急激な痛みと冷や汗のせいで、泥酔していた酔いは完全にさめていた。清水はよろめきながらも立ち上がり、怒りに身を焦がしながら、事態を『もりあげ隊』の連中に報告し、和田の店を完全に潰す算段を立てるため、自分の持ち場へと戻るべく小屋を後にした。


その直後だった。

歪んだ忠誠心を誓っていた「大柄で知能の低い村の男」が、重い薪を手に木炭小屋へと忍び込んだのは。しかし、そこにはすでに誰もいない。男は、愛する人物を苦しめる悪魔(清水)を排除し損ねたことに気づかず、あるいは暗がりの別の痕跡を見て「もう誰かがやったのか」と歪んだ勘違いを抱くことになる。

さらに、父・和田もまた、自分を侮辱し続ける清水に一発殴り込みを入れるためにこの小屋へ向かっていたが、清水がすでに移動していたため、完全に行き違いとなってしまった。


一方、頭を血で染めた清水は、足元をふらつかせながら村の入り口付近の暗がりにまで辿り着いていた。

そこで、最悪の遭遇が起きる。


「おい、お前……そこで何をしている」


清水の前に立ちはだかったのは、スマートフォンを自撮り棒に固定し、不気味な笑みを浮かべて画面に向かってブツブツと喋り続けている、村の外部から侵入した男だった。


男はネットの海から「過激な投稿動画」を発見し、その背景に映り込んだ神社の風景や建物の形から、この山あいの村を特定して潜入していたのだ。動画の主を直に拝み、さらに過激なネタを掴んで配信の数字を爆発させるという狂気に取り憑かれた男は、カメラを清水に向けながら下卑た声を上げた。


「おっと、画面の向こうのリスナーのみんな、見ろよ! 祭りなのに頭から血を流したヤバいおっさんが歩いてきたぞ!」


「どけ、不審者が……! 警察に突き出されたいか!」

頭の激痛と麗華たちへの怒りで尋常ではない苛立ちを見せる清水が、男を突き飛ばそうとする。しかし、男は軽快にそれをかわしながら、レンズを清水の顔にこれでもかと近付け、挑発するように言い放った。


「警察? 呼べるわけねえだろ。お前らこの村の人間全員、あの動画のこと隠してえもんなぁ? 知ってんだよ、わざわざ東京からここまで探しに来たんだからさ。ネットにあんなド変態な動画をバラ撒いてる奴が、この田舎村に隠れてるってことをよぉ!」


「な、何だと……!?」

清水の顔が、怒りと動揺で引きつる。清水は、男が自分たちの『裏チャットグループ』の存在を嗅ぎつけたのだと誤認したのだ。


「とぼけんなよ! 名前は言わねえけどさ、この村にはね、本物の.......……! 」


暗闇の村の入り口に、男の狂気じみた叫びが響き渡る。


「ふざけるな、このくそやろーがァ!!」

自身の、そして村の男たちの「おぞましい秘密」を全て暴かれたと思い込んだ清水は、激昂して男の胸ぐらへと掴みかかった。酔いが生々しくさめた清水の怪力と、スクープを逃すまいと暴れる配信者の男。二人は暗がりでもつれ合い、激しい泥仕合の乱闘へと発展していく。


罵声と肉体がぶつかる鈍い音。

そして――激しくブレるスマートフォンのカメラの向こう、二人の乱闘に割って入るようにして、闇の中から誰ともわからない人物の影が音もなく近づいていた。

あるいは、清水の怪力に命の危険を感じた配信者が、パニックになって足元にあった重い凶器を清水に振り下ろしたのか。


暗闇の中、ゴカッという決定的な衝撃音と共に、清水の巨体が今度こそ本当に崩れ落ち、二度と動かなくなった。


誰の、どの攻撃が清水の本当の命を奪ったのか。

木炭小屋で「殺してしまった」と怯える麗華と恋人。清水を追って狂気に走った大柄な男。殴り込みに向かった父。そして村の入り口で配信を繋げたまま血を流した男。


すべての人間が、自分の限られた視点だけで最悪の誤認のドミノを深めていく。この夜、清水の命を本当に奪った「真犯人」の輪郭は、混沌とする夏祭りの闇の中へと完全に溶けていくのだった。






第八章:父の逮捕と、引き裂かれる姉妹

翌朝、村の入り口付近で頭部を激しく破壊された清水の凄惨な遺体が発見され、狂乱の夏祭りは一瞬にして恐怖のどん底へと突き落とされた。村の中をパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、静かだった山あいの集落は異様な緊迫感に包まれる。



臨場した捜査一課による現場検証が進む中、その日の午後、最悪の事態が和田家を襲った。

地元の駐在を伴った本庁の刑事たちが、突如として和田の店へと踏み込んできたのだ。清水の遺体が遺棄されていた現場のすぐ近くから、父・和田が普段仕事で使っている「名前入りの工具」が発見されたためだった。



「和田さん、同行願います」

「お父さん! 違う、お父さんはやってない! 離して!」



両脇を刑事に固められ、父・和田は重要容疑者として連行されていった。パトカーが上げる砂埃と去りゆく後ろ姿に、長女・麗華は喉がちぎれるほどの悲鳴を上げた。



部屋に戻った麗華は、激しい自己嫌悪とパニックで狂いそうになっていた。

(なんで……? 清水は神社の木炭小屋で、私と彼が……。なんで村の入り口で、お父さんの工具が落ちてるの!?)



自分が清水の証拠を掴もうと、父の工具をこっそり持ち出したのが仇になったのだ。あの夜、清水に襲われ、彼氏が乱入してくるという極限のパニックのあまり、現場のどこかに工具を落としてきてしまったに違いない。それを誰かが移動させたのか、それとも自分の記憶が錯乱しているのか。



(私が清水を殺したのに……。私のせいで、お父さんが身代わりでお巡りさんに連れて行かれちゃった。私が名乗り出なきゃ……でも、そうしたら、私を助けてくれた彼まで捕まっちゃう……!)



自分を救ってくれた恋人を殺人犯にするわけにはいかない。しかしこのままでは父親が犯人にされてしまう。激しい葛藤に引き裂かれ、爪が食い込むほど拳を握りしめていた麗華の耳に、部屋の隅から小さく、異様な声が聞こえてきた。



「……どうしよう。お姉ちゃん、どうしよう……」



振り返ると、次女の麗奈がベッドの上で膝を抱え、見たこともないほど顔を真っ白にしてガタガタと震えていた。その瞳からは大粒の涙が溢れ、スマートフォンを握る手が激しく小刻みに震えている。清水からしつこく執拗な目を向けられ、家族の中で最も怯えているように見えた、無垢な中学生の妹。



「麗奈……? 麗奈、どうしたの」



麗華が恐る恐る近付くと、麗奈は狂ったように首を振り、縋り付くように悲痛な声を漏らした。



「私のせいだ……。私のせいで、お父さんが捕まっちゃった……。あの人が、私の代わりに……神社の小屋で、清水を殺しちゃったんだ……!」



「え……?」

麗華は息を呑み、耳を疑った。

麗奈の言う「あの人」とは、村に住む、少し知能の低い大柄な男のことだった。いつも麗奈のことを妙に気に入り、お菓子をくれたり、彼女の後ろを静かに歩いて守るようにくっついていた男だ。麗華はそれを、ただの気のいい、あるいは少し気味の悪い「妹の熱心な懐き相手」だと思っていた。



「あんた、何を言ってるの? 小屋で、何を見たの!?」



麗華が詰め寄ると、麗奈は溢れる涙を拭おうともせず、消え入りそうな声で告白した。

「昨日……清水にひどいことを言われて、もう耐えられなくて泣いてたら、あの人が『僕が麗奈を助ける、いじめる奴は僕がやっつける』って……。だから私、あの人に言っちゃったの。『清水さんなんか、いなくなっちゃえばいいのに』って……。本当に殺してなんて言ってない! なのに、夜中に怖くなって小屋に見に行ったら、あの人が血のついた薪を持って立ってて……清水が倒れてて……。私、怖くてすぐ逃げたの。お姉ちゃん、どうしよう、もし本当のことを言ったら、私が警察に『あの男をそそのかして清水を殺させた犯人』にされちゃう……!」



麗奈は、大柄な男を心配しているのではなかった。

自分が男の狂気を引き出し、清水の殺害を『命令』してしまったのではないかという、凄まじい罪悪感と、警察に逮捕されることへの恐怖に縛り付けられ、自分の保身のためにパニックを起こして泣き叫んでいたのだ。



その言葉を聞いた麗華の脳内は、さらなる混沌へと叩き落とされた。

(違う……清水を襲ったのは私と彼よ。でも、あの男が、その後あそこで清水にトドメを刺したの……? じゃあ、清水の本当の死因はそれ? でも、だったらどうしてお父さんの工具が村の入り口に……?)



姉妹は、お互いが「清水殺害の真犯人」を生み出した関係者であるという最悪の秘密を抱えながら、致命的にすれ違ったまま、恐怖のどん底で睨み合った。麗華は恋人を守るために。麗奈は自分が警察に捕まるのを恐れるあまり、自分の保身のために。お互いに「本当のことは言えない」という冷酷な沈黙が、和田家のリビングを支配した。



一方、警察の取調室では、父・和田が厳しい追及に対して頑なに口を閉ざしていた。

警察は現場に落ちていた名前入りの工具を突きつけ、「お前が清水さんを撲殺したんだろ」と迫るが、和田はただじっと床を見つめ、唇を噛み締めることしかできない。



父親には、黙秘せざるを得ない決定的な理由があった。



あの祭りの夜、清水に一発食らわせてやると息巻いて木炭小屋へ向かった和田は、すでに空になっていた小屋を見て、清水を探しに村の入り口へと向かったのだ。そこで彼が目撃したのは、頭から血を流して錯乱した清水が、見知らぬ不審な男(配信者)と激しく掴み合い、殺し合わんばかりの勢いで大乱闘を演じている最悪の光景だった。



驚いた和田は、二人を引き離そうと割って入り、激しく揉み合った。そのドサクサの最中、清水の巨体に突き飛ばされて仕事用の工具袋をぶちまけてしまい、パニックになりながらいくつかの工具を現場に残したまま、命からがらその場を逃げ出したのだ。



(あの後、清水は死んだ……。あの場所に俺の工具が落ちていたのなら、警察は俺が清水を殺したとしか思わない。下手にあの場にいたと言えば、そのまま殺人犯にされてしまう……!)



父親は、自分のすぐ目の前で起きていた「真犯人と清水の激突」に自分が深く巻き込まれてしまった恐怖と、下手に喋れば刑務所に送られるという絶望から、ただガタガタと震え、黙秘を貫くことしかできなかった。



家族の絆は、誰の目にも見えない無数の嘘と、それぞれの視点による自己保身の誤認の泥沼によって、完全に内側から崩壊しようとしていた。



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