大人の交際
翌日から二人は、完璧にいつも通りに仕事をこなした。屋敷内での個人的な接触は避け、週に一回程度の孤児院での一、二時間が唯一の逢瀬になっていた。
しかし、二人きりになる事は無くひと月以上が過ぎ去り、二人は想いを募らせていた。
そんなある日、神崎は紗希の休日に合わせて午後から休みを捻出した。
午後の柔らかな陽射しが降り注ぐ中、神崎は約束の場所に早めに到着した。普段は黒の執事の制服に身を包む彼だが、今日はカジュアルなジャケットスタイル。髪型も少し変えて前髪を下ろし、執事としてのイメージから脱却していた。
「お待たせしました!」
背後からの声に振り向くと、そこには春らしい薄ピンクのワンピースに身を包んだ紗希が立っていた。彼女も普段のメイド服ではなく、普通の女の子としての可愛らしい装いをしていた。
「……よく似合ってる…」
神崎は思わず息を呑んだ。
「綺麗だ……」
紗希は顔を赤らめながらも嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。怜司さんも素敵です」
「久しぶりの二人きりの時間だね」
神崎は紗希の手を取り歩き始めた。
「どこに行きたい?」
紗希は少し考えて答えた。
「……美術館はどうですか?」
彼女の目が輝いている。
「今季限定で展示されている話題の作品があって……見てみたいかなって…」
「いいね」
神崎は笑顔で頷いた。
「美術鑑賞なんて何年ぶりかな……」
美術館では二人とも静かに絵画に見入っていた。普段の厳格な執事の顔とは打って変わって、芸術に感銘を受ける素直な青年の姿があった。
「あの……」
紗希が小声で話しかけた。
「あそこにある絵がすごく気になるんですけど……」
神崎は紗希の肩に手を置いて絵に近づいた。
「確かに独特だね。色彩が……」
彼の声が僅かに震えている。
紗希が不思議そうに見上げると、神崎は照れくさそうに言った。
「実は僕……あまり詳しくないんだ……」
彼は自嘲気味に笑った。
「君と一緒に勉強したいな」
「はい!是非」
二人は美術館を巡りながら感想を話し合った。時には意見が分かれる事もあり、そんな些細な事すら楽しんでいる自分に気づく紗希だった。
昼食はテラスのあるカフェで取ることにした。開放的な空間で二人並んで座り、コーヒーとサンドウィッチを楽しむ。
「ねぇ紗希」
神崎がふと思いついたように尋ねた。
「……結婚して仕事を辞めたら、何かしたい事がある?」
紗希は少し驚いた表情を見せたが、真剣に考え始めた。
「そうですね……」
彼女は青空を見上げながら口を開いた。
「まずはお家の事をちゃんとやって、時間があるなら…孤児院のお手伝いをもっとしたいです」
「え、そうなの?」
「はい!子供達も院長先生も大好きだし、すごく楽しいんです」
神崎はコーヒーカップを両手で包み込むように持った。温かい液体が指先に伝わる感触さえ、今の彼には慰めにならなかった。
「実は……」神崎が言葉を選ぶように慎重に続けた。
「結婚すれば君はメイドを辞めざるを得ない。そのことで罪悪感があるんだ」
彼は真摯な眼差しで紗希を見つめた。
「君にとっては大切な仕事なのに」
紗希はカップを置き、テーブルの上で両手を組んだ。
「それは考えすぎですよ」
彼女の声は優しかった。
「私、メイドとして怜司さんと出会えたからこそ今があります」
そよ風が二人の間を吹き抜けた。紗希の髪がふわりとなびく。
「お屋敷では……」彼女は青空を見上げながら続けた。
「掃除や洗濯や家事全般を教えてもらいました。あの経験が今の私を作ったんです」
紗希の目に懐かしさが浮かぶ。
「紅茶の淹れ方やテーブルセッティング……お客様との接し方も学びました」
神崎は黙って耳を傾けていた。
「庶民の私には本当に貴重な経験でした。憧れのメイド服で働けて、すごく幸せでした。貴族のメイドが独身の若い娘だけの仕事なのは、最初からわかっていた事です。だから……」
紗希は少し照れくさそうに笑った。
「メイドの仕事に未練はないんです。最高の理由での退職で、感謝しています」
彼女の視線が神崎に戻る。
「それに……孤児院は私にとって特別な場所になりました。子どもたちのお世話は本当に楽しいんです」
紗希の目が輝いた。
「私が作ったおやつをおいしそうに食べてくれる姿とか、一生懸命に勉強してる姿とか……見ているだけで幸せになれます」
彼女は思い出に浸るように目を閉じた。
「あそこで働く事は私の天職だと思います。結婚したら今みたいなフルタイムの仕事は出来なくなるけど……その分週に何日か手伝いに行けたら嬉しいなって思ってるんです」
神崎は驚きと感動が入り混じった表情で紗希を見つめていた。
「紗希……」
彼の声がかすかに震えている。
「それにお屋敷のメイドの経験も活かせるんですよ」紗希は自信を持って言った。
「例えば掃除や洗濯、アイロンがけとか……いろいろ勉強しましたから」
彼女は神崎の手に自分の手を重ねた。
「だから心配しないでください」
神崎は深く息を吸い込んだ。
「こんなに素晴らしい女性を妻にできるなんて……」
彼の言葉が途切れる。
「僕は本当に幸せ者だ」
紗希は頬を赤らめた。
「大袈裟ですよ」
彼女は恥ずかしそうに言った。
「それに……私はまだまだです。これからも精進しないと」
「いや……」
神崎は静かに首を振った。
「君の存在そのものが……僕にとって最高の財産だよ」
二人の間に暖かな沈黙が流れた。テラスから見える公園では家族連れが遊んでいる。平和な日常の一コマだった。
「ねぇ紗希…」神崎が恥ずかしそうに優しく呼びかけた。
「その……まだ昼間だけど……君には門限があるし……」神崎の声が少し早くなった。
「もう少しだけ……一緒にいたいなって…思うんだけど……」
紗希は驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。彼女の頬が夕焼けのように赤く染まる。
「私も……同じ事を考えていました」
彼女は小さな声で答えた。
神崎は深呼吸をして紗希の手を握りしめた。
「もし……良ければ……」
彼の言葉が途切れ、沈黙が流れる。紗希はじっと彼を見つめたまま言葉を待った。
「ホテルに……行かないか?」
神崎の声は囁くように小さかった。
紗希の心臓が高鳴った。まさか昼間からこのような誘いを受けるとは思わなかったのだ。
「はい……」
彼女は小さく頷きながら答えた。
「怜司さんとなら……どこへでも」
神崎の顔に安堵の表情が広がる。
「本当によかった」
彼はホッとした様子で立ち上がった。
「それじゃ、行こうか」
「え……?」紗希は驚いて聞き返した。
「この近くに良いホテルがあるんだ。普段は使わないけれど……」
神崎は照れくさそうに笑った。
「こういう時に備えて調べておいたんだ」
紗希の心臓が更に早く鼓動を打った。神崎が自分の為にそんな準備をしてくれていた事が嬉しかった。
数分後、二人は優雅な内装のホテルのフロントに立っていた。神崎がスムーズにチェックイン手続きをしている間、紗希は落ち着きなく周りを見回していた。
「大丈夫?」神崎が振り返りながら尋ねた。
「はい……ただ……」
紗希は小声で答えた。
「こんな素敵なところに入るの……初めてで」
「君が居てくれれば何処でも豪華な場所になるよ」
神崎は鍵を受け取り、優しく微笑んだ。
エレベーターの中で二人の間に微妙な緊張感が漂った。紗希は神崎の横顔を見つめながら思った。
(昼間からこんな場所に来るなんて……)
恥ずかしさと興奮が入り混じる複雑な心境だった。
部屋に着くと神崎が照明を調整した。暖かな間接照明が室内を包み込む。広々としたベッドが視界に入り、紗希は思わず目を逸らした。
「疲れた?」神崎がソファを勧める。
「少し……」
紗希は素直に座り込んだ。
「でも……」彼女は小さく付け加えた。
「嬉しいです…」
神崎は紗希の隣に腰掛けた。ほのかな整髪剤の香りが彼女を包み込む。
「僕も……」
彼は紗希の手に自分の手を重ねた。
「まさか今日ここまで来られるとは思ってなかったんだ」
「そうなんですか?」
紗希は驚いて神崎を見上げた。
「ああ……まだ明るいし…」彼は照れくさそうに頷いた。
「実は……」
神崎は声を落とした。
「君があまりにも魅力的で……自分を抑えきれなくなってしまった」
紗希の頬が熱くなるのを感じた。
「そんな……」
彼女は俯いて言った。
「私なんかで……」
「君しかいない」
神崎の声が真剣味を帯びた。
「君以外の人にはこんな気持ちにならない」
二人の距離が縮まる。紗希は神崎の胸に顔を埋めた。
「嬉しいです……」
彼女の声がかすかに震えている。
神崎の手が優しく紗希の髪を撫でる。
初めての情事から既にひと月以上が経ち、神崎は昂ぶりを抑えきれない。
シャワーの水音が止んだ後、浴室のドアが開く音が静かな部屋に響いた。紗希はベッドの端に座り込み、緊張で硬直していた。バスローブの下は素肌のままだった。
「……待たせたね」
神崎の声が背後から聞こえた。振り返ると、彼もまたバスローブ一枚という姿だった。
「おいで……」
神崎の手が紗希の肩に触れると、彼女の身体がビクリと跳ねた。
「……怖い?」
「いえ……」紗希は慌てて首を振った。「ただ……」
彼女は言葉に詰まり、目を伏せた。
神崎は紗希の隣に腰掛けると、優しく彼女の髪を梳いた。
「焦らなくていいよ……」
彼の声にはいつもの冷静さが戻っていた。
「この一ヶ月半……本当に長かった」
「私も……」
紗希は小さく頷いた。
「仕事中も……あなたのことばかり考えていて……」
神崎の喉仏が上下するのが見えた。彼の手がゆっくりと紗希の頬に伸びる。
「嘘だろう……」
彼の指が紗希の唇に触れた。
「君がそんな事を言うなんて……」
紗希は目を閉じたまま言った。
「本当です……だから……今日は……」
「…うん……」
「心の準備はできています」
紗希が顔を上げると、神崎の瞳が潤んでいるのが分かった。
「だから……」
神崎が紗希を抱き寄せた。彼の身体から立ち上る、石鹸の香りが紗希を包み込む。
「ありがとう……紗希……」
彼の唇が紗希の唇に重なる。最初は軽く触れ合う程度だったが、徐々に深くなっていく。
……そして二人はベッドに横たわり、余韻に浸りながら見つめ合う。紗希は神崎の胸に頬を寄せた。
「あの……」
彼女は小声で言った。
「素敵でした……」
神崎の顔が赤くなる。
「君も……素晴らしかったよ」
彼は紗希の髪を優しく撫でた。「でも無理させてごめん」
「いいんです」
紗希は首を振った。「嬉しかったから……」
二人は再び口づけを交わした。窓から差し込む夕暮れの光が彼らを包み込む。仕事から解放された自由な時間は、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。
紗希の門限に遅れないように、屋敷に戻らなければならない。情事の余韻を残したまま、二人は身支度を整え、帰路についた。
またしばらくの間、二人きりになれない日々が続いた。神崎は、仕事中に紗希の姿を見る度にあの日の事を思い出してしまい、抑え込むのに苦労していた。
夜の静寂が神崎の自室を包む中、彼はベッドに横たわり天井を見つめていた。執務を終え就寝前のこの時間、いつもなら読みかけの本を手に取るはずが、今日は違った。紗希との逢瀬から半月が経とうとしている。
(あと何日我慢すればいいんだろう)
思考が自然と彼女へと向かう。神崎は目を閉じた。すると瞼の裏に浮かぶのは、あの日の紗希の姿だった。春の薄ピンクのワンピースに身を包み、髪を風になびかせながら笑う彼女。そしてホテルのベッドで見せた官能的な表情。
「っ……」
吐息が漏れる。最近では仕事中にも脳裏に彼女の姿がちらつくようになっていた。特にメイド服に身を包んだ彼女が目の前を通る度に胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
(いけない……こんな事では…)
神崎は起き上がり、机に向かい筆記用具を整理しようとする。しかし作業に集中できない。指先が震え、全くはかどらない。
(あと四日……)
次の逢瀬まであと四日。それが今の彼にとって永遠にも等しい時間だった。この状況に自分でも困惑していた。これほど誰かに恋焦がれることがあっただろうか。これまで冷静沈着を貫いてきた自分が、一人の女性に対してこれほど情熱を燃やすなど想像もしていなかった。
「紗希……」
思わず声に出てしまった名前に自分で驚く。慌てて周囲を見回すが、当然誰もいない。そのことに安心する反面、孤独感が押し寄せてくる。
(僕は一体どうしてしまったんだ)
再びベッドに倒れ込む。枕に顔を埋めると紗希の残り香が蘇るようだった。先日の逢瀬で彼女が使ったシャンプーの匂いを思い出す。清潔でありながら甘い香り。それを嗅いだ時の鼓動の高鳴りまで鮮明に蘇る。
「はぁ……」
深いため息が漏れる。
時計を見ると深夜2時を回っていた。眠ろうとしても意識は冴え渡る。今夜何度目か分からない寝返りを打つ。シーツの感触が妙に生々しく感じられる。
「紗希……早く会いたい……」
独り言ちる声は暗闇に溶けていく。天井を見つめながら考える。あの夜以来の身体の火照りが収まらない。もう一度彼女と……




