報告・実家へ
子供達の祝福を受け、幸せを噛みしめながら、神崎は帰路についた。婚約したとはいえ、公表するまでは慎重に事を運ぶ必要がある。
その夜、神崎は孝一郎の部屋を訪れた。
「旦那様、ご報告したい事がございます。お時間よろしいでしょうか」
「やあ、神崎君、何かあったのかい?」
緊張した面持ちで入室した神崎を、孝一郎は笑顔で迎え入れた。
「お疲れ様。さあ、どうぞ」
孝一郎はデスクから立ち上がり、神崎をソファに促した。
「何か重要な話があるようだね」
神崎は背筋を伸ばし、深々と一礼した。
「はい。旦那様にご報告したい事がございます」
「うん」
「実は……個人的なことで誠に恐縮なのですが……」神崎の声が僅かに震えた。
「私、神崎怜司は……雨宮紗希さんと婚約致しました」
その言葉に孝一郎の目が丸く見開かれた。
「え!? なんと! それは本当かい!?」
予想以上の反応に神崎は少し驚きながらも頷いた。
「はい。9月に紗希さんが18歳を迎えますので……その際に正式に籍を入れる予定です」
孝一郎の顔に喜びの色が広がっていく。まるで自分のことのように両手を開いて立ち上がった。
「おめでとう! それは素晴らしい! 本当によかった!」
彼はそのまま興奮気味に神崎の両手を取り、固く握りしめた。
「こんなに嬉しいことはないよ」
その率直な祝福に神崎の緊張が解けていくのがわかった。
「紗希さんの気持ちも確かめ合えたんだね?」
孝一郎は優しく問いかけた。
「はい。彼女も承諾してくれました」
「それはよかった……君たちはとてもお似合いだと思うよ」
孝一郎は椅子に座り直し、感慨深げに頷いた。
「紗希さんはまだ若いけど……君なら安心して任せられる」
その言葉には父のような慈しみが込められており、神崎は胸が熱くなった。
「恐れ入ります」神崎が頭を下げると、孝一郎は笑みを浮かべて言った。
「これから色々と準備が必要だろうけど……遠慮せずに何でも相談してほしい」
「ありがとうございます……」
「さて……」孝一郎はソファから立ち上がった。
「紗希さんにも後日改めて会いたいな。怜司君の事をよくよくお願いしたいからね」
「……近日中に二人でご挨拶に伺う所存です」
「うん! 楽しみだよ」
孝一郎の快活な笑い声が書斎に響き渡った。その笑顔は心からの祝福に満ちており、神崎の心に深い安堵と幸福感をもたらした。新たな門出への第一歩は、最善の形で踏み出されたようだ。
「そうだ…新居の事だけど…」
孝一郎は思い出したように切り出した。
「はい…まだ具体的に話し合っていないのですが…」
神崎は少し困ったように答えた。屋敷に住み込み、独身を貫く執事の結婚は前例が無く、神崎自身も思案中のようである。
「…お許しいただけるなら、近隣にアパートを借りて通勤する事になるかと…」
「そんな必要は無いよ!」
「…え…?」
孝一郎の言葉に神崎は困惑する。
「1年前に君に改修工事の指揮を頼んだ離れがあるだろ?」
「離れ…?しかしあの場所は、旦那様が妾を迎えるために整備されたものかと…」
「違うよ!確かにあそこは先々代が妾を囲っていたようだけど…だいたい愛人なら外で会うし…って僕の事はいいんだよ」
神崎は孝一郎の真意がわからず、困惑している。
「あそこの改修工事を君に頼んだ時の僕の注文を覚えているかい?」
「はい。大切な人に住んでもらいたいから、君が最高と思う住まいにして欲しい、と。ですから…」
「僕は君達に住んでもらいたいんだ。最初からそのつもりで、君に整備を頼んだよ」
「え……? そんな……!」
神崎は絶句した。孝一郎の真意がまったく理解できなかった。これまで自分は執事として忠誠を尽くしてきたつもりだったが、主家の財産を使って個人的な新居を用意されるなどとは夢にも思わなかったのだ。
「どうしたんだい? そんなに驚く事はないだろう?」
孝一郎は不思議そうな顔で神崎を見た。
「旦那様……そんなご厚情は……恐れ多いです……」
神崎は必死に頭を下げた。その額には冷や汗が浮かんでいる。
「なにを言っているんだ」
孝一郎はソファに戻り、神崎に向かい合った。
「君はこの屋敷の中枢を担う人物だ。その君が外部から通勤するというのは効率が悪い。でも、だからって……」
ここで孝一郎の目が優しく細められた。
「妻帯者となる君に今まで通りの住み込みを強いるほど僕は冷酷じゃないよ」
「しかし……あの建物は由緒ある別棟ではありませんか。それをこのような……」
神崎が言葉を選びながら抵抗しようとすると、
「あのね……」
孝一郎は軽く手を振った。
「過去は過去だよ。大切なのは君たちの未来だろう?」
その言葉に神崎は胸がいっぱいになった。孝一郎の思慮深さと自分への信頼の大きさを痛感した。
「ありがとうございます……このご恩は一生忘れません」
神崎の声が震えた。それは畏怖だけでなく、主家の当主からの純粋な祝福と配慮への感謝に満ちていた。
「そんなに硬くならないでくれ。これは当主命令ではなく、友人としての祝いだと思って欲しいんだ」
孝一郎は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。夕暮れの光が彼の横顔を優しく照らしている。
「君と紗希さんの幸せは……きっとこの屋敷全体に良い風を吹かせるよ」
「旦那様……」
「とにかく……」孝一郎は真顔に戻って続けた。
「大事なのは君たちのペースで幸せになることだ。僕からの勝手な期待だけどね」
「肝に銘じます」
神崎は再び深く頭を下げた。この日、彼は孝一郎の上司としての威厳以上に、一人の人間としての温かさと懐の深さを知ることとなった。
(紗希さんは……この話を聞いたらどんな反応をするだろう)
孝一郎の部屋を後にした神崎は自室へと戻りながら考えた。きっと驚きつつも喜んでくれるに違いない。
彼女の嬉しそうな笑顔が目に浮かび、神崎の口元にも自然と笑みが零れた。これまで執事として生きてきた人生が、新たな段階へと移行していく感覚。それは不安ではなく、むしろ胸を高鳴らせる希望の種だった。
執事であり続けることと恋愛は決して矛盾しない。むしろ二つの道が交差することで、これまで見えなかった景色が広がる。神崎は強くそう感じた。
廊下の窓から差し込む夕日に目を細めながら、神崎は明日紗希にこの話を伝える時の情景を想像した。そしてその先にある二人の生活を思うと、不思議と足取りが軽くなっている自分に気づいた。それはこれまで感じたことのない新鮮な活力だった。
一方で紗希は、突然のプロポーズに酔いしれながらも、今後の事に想いを巡らせていた。
(神崎さんと結婚…今でも夢みたい…)
ベッドに入っても興奮が冷めやらず、全く眠れそうに無い。
(結婚したら、この先どうなるのかな?)
仕事は辞める事になる。貴族のメイドは独身の若い娘の仕事で、先輩達も皆結婚退職していった。
(でも、メイドじゃなくなったらどこに住むのかな?)
ベッドに入っても、紗希の思考は堂々巡りを続けていた。枕に顔を埋めても、興奮と不安が交互に押し寄せる。
(神崎さんと結婚したら……わたしはどうなるんだろう?)
最初に浮かんだのは、先輩メイドたちの結婚退職だった。みんな20代前半までに「おめでとうございます!」という祝福の中、幸せそうに屋敷を去っていった。
(私もそうなるのかな……)
結婚すれば当然仕事を辞める。それは自然な流れだ。だが──
(でも……神崎さんは?)
執事として九条家の中枢を任されている神崎が、そう簡単に屋敷を離れられるはずがない。彼がここに留まるなら──
(私たち……別居するのかな?)
その考えに紗希はハッとした。結婚しても離ればなれに暮らすことなんて……でも現実的にはそれが最もあり得る状況かもしれない。
彼の誠実さと献身性を誰よりも近くで見てきた自分が一番よく知っている。主人への忠誠心と仕事への誇りは計り知れない。
(もし別居だとしても大丈夫)
自分に言い聞かせるように心の中で呟く。だって神崎さんはいつだって優しい。どんな距離があっても愛は変わらないはずだから。
(でも……)
紗希の胸に一抹の寂しさが広がる。同じ屋根の下で朝起きて、一緒に食卓を囲み、疲れた身体を寄り添って休める生活。ドラマや映画で見る「普通の家庭」への憧れがチクリと疼く。
(贅沢なのかな、こういう願望って)
寝返りを打って天井を見つめる。木目の模様がまるで迷路のように見えた。何百通りもある行き先の中で自分は何処を目指せばいいのだろう?
一人でいくら考えても答えは出そうに無い。紗希は神崎への想いを胸に、眠りについた。
翌日も、紗希がいつも通りに仕事を終えると、神崎から準備室へ来るようにと告げられた。確かに今日の紗希は少しぼんやりしていたので、叱られるのだろうと仲間たちは気の毒そうに見送った。
準備室に入ると神崎は、昨夜孝一郎に報告して祝福された事を紗希に伝えた。
そして新居についての孝一郎とのやり取りを伝えると、紗希は大きな瞳を更に見開いた。
「離れ……ですか?」
驚きと疑問が入り混じった表情だったが、すぐに昨日からの不安が氷解するような希望の色が差し込んできた。神崎は静かに頷いた。
「旦那様のご厚意です。本来は執事として屋敷を離れることはできないはずなのに……」
紗希は両手を胸の前で握りしめながら、言葉にならない感情に戸惑っているようだった。昨晩、密かに抱いていた別居の可能性が打ち砕かれ、その代わりに予想もしなかった展開が訪れようとしている。
「あの……それって……」
「そうです」
神崎は紗希の言葉を引き継ぐように優しく微笑んだ。
「私たちの新居です」
「うそ……本当……ですか?」
紗希の声が震えた。
神崎は彼女の手を取りながら力強く頷く。
「嘘じゃありません。旦那様は最初からそのつもりで離れの改修を依頼していたらしいのです」
紗希の瞳からぽろぽろと涙があふれ出し、慌てて袖で拭った。喜びと安堵が溢れ出すのを止められなかった。
「良かった……」
「え?」
神崎の問いかけに紗希は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「実は……昨日から考えていたんです。結婚しても、神崎さんは執事としてお屋敷を離れられないだろうし……もしかしたら私だけ別の場所に住むことになるんじゃないかって……」
「そうでしたか……」神崎も同じく胸のつかえが下りたようにほっとした表情を見せた。
「やはり貴女も同じことを心配していましたか」
「でも……!」紗希が勢い良く神崎を見上げた。
「たとえ別居でも…どんな形でも神崎さんの傍にいられるだけで充分だと……」
「ありがとうございます…」神崎は紗希の言葉に深く頷いた。
「貴女のような理解のある方が伴侶になってくださるのが何よりの幸せです」
紗希は頬を染めながらも嬉しさを隠しきれない様子で小さく笑った。その笑顔を見て神崎も自然と口角が上がる。
その後、二人は孝一郎に挨拶をするため、彼の部屋へと向かっていた。
廊下は普段より長く感じられた。紗希の靴音がカーペットの上を微かに滑るように進む。深呼吸を三回ほど繰り返したが、それでも心拍数は収まりそうになかった。
「大丈夫です」
不意に耳元で囁かれた低音に紗希は驚いて顔を上げた。神崎がわずかに身を屈め、安心させるように優しい眼差しを向けていた。
「旦那様は大変お優しい方です。貴女に会うのをとても楽しみにしていますよ」
その一言で紗希の肩の力が少し抜けた気がした。神崎の手がそっと背中に触れ、エスコートするように歩調を合わせてくれる。それだけで恐怖心が薄れていくのが不思議だった。
「失礼いたします」
神崎がノックの後、扉を開けた。孝一郎はデスク前の応接セットに腰掛けて待っていた。穏やかな微笑みが二人を迎える。
「二人ともよく来てくれたね!どうぞお入りなさい」
孝一郎の明るい声に促されてソファに向かうも、紗希は一層緊張した面持ちで背筋を伸ばした。
「雨宮紗希と申します」
完璧な作法で挨拶しながらも指先がかすかに震えていた。
「この度は、私達の結婚をお許しいただき……また離れのお話もいただきまして……本当にありがとうございます」
神崎はその様子を心配そうに見ながら、静かに補足した。
「紗希は昨日から大変緊張しておりまして……」
「いやいや!」孝一郎は慌てて手を振り、神崎の言葉を遮るように立ち上がった。
「そんな堅苦しい挨拶は要らないよ!もっと楽にして」
孝一郎は二人をソファに招き入れ、自らも腰を下ろした。
「まずは婚約おめでとう!紗希さん、怜司君の事は任せたよ。彼は僕の大切な片腕なんだ。小学校からの幼馴染で、親友で、兄弟のように思ってる」
「…旦那様…!」神崎は感極まる。
「彼はいくら言っても頑張り過ぎるから、身体を壊さないように支えてあげてね」
「はい……お役に立てますよう精進いたします」
紗希が小声ながらも芯の通った返事をすると、孝一郎の顔に満面の笑みが広がった。
「やっぱり良い娘だねぇ!可愛いし、しっかりしてる。怜司君が選んだのも頷けるよ」
紗希が控えめに笑みを返すのを見つめながら、神崎は改めて口を開いた。
「旦那様……ご配慮いただいて誠に有難うございます。私と紗希はこの機会に御恩を倍にして返せるよう尽力致します」
「いやいや……」孝一郎は少し照れた様子で首を振った。
「むしろ怜司君達が幸せになってくれる事が一番の恩返しさ」
紗希が改めて深く頭を下げた。
「僭越ながら……お言葉に甘えさせていただきます」
「うん!」孝一郎は満足げに頷きながらも、ふと真面目な表情に戻った。
「ただし……一つだけ条件がある」
その言葉に二人が固唾を飲むのを見ながら、孝一郎は悪戯っぽく笑った。
「時々は食事も一緒に楽しもう!主と使用人としてじゃなく……友人としてね」
瞬間的に張りつめていた空気が柔らかくなり、三人の間に笑顔が咲いた。紗希の頬を伝った涙が感謝の印となり、部屋全体が温かい空気に包まれた。
こうして二人は正式に主の許しを得て、新たな人生への一歩を踏み出したのだ。
孝一郎の部屋を退室した二人は、その足で美奈子の医務室へと向かった。
医務室のドアをノックする紗希の手は、先程までの緊張で少し汗ばんでいた。神崎がそっと彼女の背中に手を添えると、紗希は小さく深呼吸をしてドアを開けた。
「失礼します」
「あら、神崎君に……紗希ちゃん?珍しい組み合わせね」
診察記録を整理していた美奈子が顔を上げた。いつもの白衣に聴診器という姿だが、その眼差しには柔らかい優しさが宿っている。
「どうしたの?何か体調に問題でも?」
美奈子が椅子から立ち上がろうとした時、神崎が一歩前に出て真剣な眼差しで告げた。
「仲野先生……実はご報告があります」
その緊張した声色に美奈子が息を呑むと、紗希もまた一歩進み出た。
「私達は……結婚することになりました」
「え?」
美奈子の動きが止まった。まるで時間が止まったかのような沈黙が流れる。やがて彼女の表情がゆっくりと変化し──
「まぁ!」
思わず両手で口元を押さえた。その瞳にみるみるうちに喜びの色が広がっていく。
「本当に?結婚!?おめでとう!」
美奈子は思わず立ち上がり、両腕を大きく広げて二人を包み込んだ。
「二人とも本当におめでとう!よかったわねぇ!」
紗希は驚きつつも嬉しそうに美奈子の腕に収まりながら、頬を染めて小さく頷いた。
「ありがとうございます……先生」
「まぁ……あなたたちが並んで立つと本当にお似合いね」
美奈子は二人の顔を見つめながら感嘆の声を上げた。
美奈子に祝福された二人は改めて向き合い、言葉を紡ぎ始めた。
「先生……」紗希が震える声で切り出した。
「先生には本当に……たくさんご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんて……」美奈子は優しく紗希の手を取った。
「むしろ私が何もしてあげられなくて申し訳ないと思っていたのよ」
「いいえ!」紗希が首を振る。
「いつも私の悩みを聞いてくださり……」
彼女の目には涙が浮かび始めていた。
「神崎さんに片想いしていて……どうすればいいか悩んでいた時に話を聞いてくれて…………」
「そうだったわね」美奈子は微笑みながら紗希の頬を撫でた。
「でも紗希ちゃんの一途な想いが一番大事だったのよ」
その言葉に紗希はさらに感極まった様子で俯いた。すると神崎が一歩前に出て美奈子に頭を下げた。
「私の方からもお礼を言わせてください。先生には本当に助けられました」
「あら?」美奈子が意外そうな顔をする。
「悩む私の話を聞いて後押しして下さり……二人で話し合う時間を作るための便宜を図っていただいたり…」
神崎は丁寧に言葉を選んでいた。
「この交際が円滑に進んだのも先生のおかげです」
「神崎君ったら……」
美奈子が照れたように笑いながら二人を見た。
「二人とも、幸せになってね。」
「「はい……!」」
紗希の瞳から溢れた涙が頬を伝った。神崎がそっとハンカチを取り出して彼女に差し出す様子を見ながら、美奈子は深く頷いた。
「これからも何かあればいつでも相談してね」
「さて」美奈子が真剣な面持ちで二人を見つめた。
「これからお二人には山積みの課題があるはずよ」
神崎と紗希は思わず顔を見合わせた。
「籍を入れる手続きや引っ越し……それに執事とメイドの結婚となると周りの目も気になるでしょう?」
美奈子が紗希の肩に手を置いた。
「そういう時のために……」
彼女は机上の鍵束を軽く掲げた。
「この医務室を自由に使ってちょうだい」
「え?」紗希が驚いて目を見開く。
「二人きりで話し合う場所が必要な時はいつでも言ってね」
美奈子はわざとらしくウインクすると、悪戯っぽく付け加えた。
「なんならベッドだって使っていいのよ?」
「!?」
紗希の顔が一瞬で林檎のように真っ赤に染まる。俯いたまま震える声で何かを言いかけるも言葉にならない。一方で神崎は眉間の皺が深くなり、拳を固く握りしめている。その手が微妙に震えているのに美奈子は気づいた。
「先生!冗談が過ぎます!」
普段は滅多に声を荒げない神崎が珍しく強い口調で制止した。その様子に美奈子は思わず吹き出しそうになったが、辛うじて平静を装った。
「あらあら」彼女は優雅に髪を耳にかける仕草をした。
「ただのジョークじゃないの。結婚前の男女が密室で二人きり……それくらいの事があってもいいんじゃない?」
紗希が小さな悲鳴を上げそうになって口を押さえている。耳まで真っ赤になっているのが横顔からでもわかる。
「いえ!そのような意図は全く……」
神崎の弁解は途中で途切れてしまう。紗希が恐る恐る顔を上げると、彼の表情が珍しく狼狽していることに気づいた。整えられた髪が少し乱れているのが何故か可愛らしく見えた。
「まあまあ」美奈子が二人の間に割って入った。
「ほんの冗談よ」
そこで彼女はクスリと微笑んだ。
「でも本気で言ってるのよ。必要な時には遠慮なく使ってね」
紗希は複雑な表情を浮かべていたが、やがて小さく頷いた。
「……ありがとうございます。でも……まだ早いと思います……」
その素直な反応に美奈子の顔がほころんだ。
「そうよね」
彼女は咳払いをして話題を変えた。
「とりあえず今日のところはおめでたい報告を聞かせてもらっただけでも十分幸せよ」
そう言うと二人に向き直った。
「これからお忙しくなるだろうから今日は早めに休みなさい。特に紗希ちゃん」
紗希はもう一度頭を下げると神崎と共に部屋を後にしようとする。ドアの前で振り返った紗希の瞳には感謝の色が濃く浮かんでいた。
「先生……本当にありがとうございました」
美奈子は満足げに頷いた。
「どういたしまして」
ドアが閉まって静寂が戻った医務室で、美奈子は独り言のように呟いた。
「青春ねぇ……」
彼女の唇に浮かんだ微笑みは母性的な温かさに満ちていた。
孝一郎と美奈子への報告を済ませた二人は準備室へと戻ってきた。
準備室のドアが背後で閉まった途端、紗希は大きく息を吐き出した。
「ふぅ……緊張しましたぁ」
彼女の声には明らかな安堵が混じっている。胸に当てた掌から徐々に鼓動が治まっていくのを感じながら、紗希は神崎を振り返った。
「旦那様も先生もあんなに喜んでくださって……」
神崎は壁に背を預け、ようやく全身の力を抜いた様子だった。普段はぴっちりと整えられている制服の襟がわずかに緩んでいる。
「二人とも快く受け入れてくださって……本当に良かった」
彼の声は落ち着いているが、長い睫毛が伏せられると安堵の色が濃く現れた。
「美奈子先生があんなに冗談を言うなんて思ってませんでした」
紗希が頬を染めながら呟くと、神崎は小さく笑みを漏らした。
「彼女なりの祝福なのでしょう」
しばらく沈黙が流れた後、神崎が改めて紗希に向き直った。彼の漆黒の瞳が紗希をしっかりと捉える。
「貴女のおかげです」
「え?」
「孝一郎様も仲野先生も……貴女の誠実さと人柄を認めてくださったからこそです」
紗希は神崎の真摯な眼差しに釘付けになった。いつもの執事としての堅い表情とは違う、恋人を見る男性の優しい表情がそこにあった。
「そんな……神崎さんが……」
「…怜司です…」
唐突な名前呼びに紗希の言葉が詰まる。
「私たちだけの時は……名前で呼んでください」
紗希の顔が火照った。公私混同を避けている普段の神崎からは想像できない提案だった。
「れい……じさん……」
彼女の震える声に神崎は微かに口角を上げた。
「はい」
「あ、あの…私の事も、紗希って呼んで…欲しい…です」
「紗希……」
紗希の心臓が早鐘を打つ。改めて名前だけでで呼ばれることの特別な意味に気づいたのだ。そして同時に実感する。今や彼は単なる執事ではない—自分の婚約者なのだ。
「これから忙しくなりますね」
神崎が話題を切り替えた。
「ええ……婚姻届のこととか引っ越しのこととか……」
「明日からは通常業務に加えて準備も始まります」
神崎は制服の内ポケットから取り出した小型の手帳を開いた。
「まず二人で予定を確認しましょう。当面の優先事項は……」
いつものように淡々と事務的な口調だが、彼の目は穏やかだった。紗希はそんな神崎を眺めながら思った。
(やっぱり私の大好きな彼だ……)
執事としての冷静さと恋人としての優しさを常に合わせ持っている。
神崎は手帳をパラパラとめくりながら言った。
「最優先事項は……やはり貴女のご両親へのご挨拶です」
紗希が息を呑んだ。確かに結婚となれば当然の手続きだが、まさか最初にそれを持ち出すとは思わなかった。
「それに関しては私から直接ご両親にお会いしてご挨拶すべきです」神崎の口調は揺るぎない。
「私の休みについては心配いりません。旦那様にも許可は取っております」
紗希は瞬きを繰り返した。彼女が考えるよりもずっと前から神崎が動いていたことに気づいたのだ。
「わざわざお休みを……?」
「当たり前です」神崎は至極当然のように言った。
「貴女のご両親に対面し、きちんとご了解をいただくのは婚約者の義務ですから」
その言葉に紗希の胸が熱くなった。こんなにも自分の事を大事に思ってくれるなんて…この感激と喜びをどう表現すれば……
それでも今この瞬間は恋人の誠実さを真正面から受け止めることしかできなかった。
「お父様とお母様の都合の良い日をご確認いただきたいのですが……」
「はい!」紗希は思わず勢い良く返事をしてしまった。
「明日すぐに連絡します!」
「あまり早く動かなくても大丈夫ですよ」神崎は苦笑した。
「まずは落ち着いて日程を立てましょう」
「いいえ!」紗希は珍しく食い下がった。
「一刻も早く伝えたいんです。こんなに素敵な人が私のフィアンセだってことを」
その言葉に神崎の表情がふっと和らいだ。
「では……近いうちに」
紗希は力強く頷いた。彼女の顔には新しい決意が刻まれていた。
「怜司さん」
初めて呼ばれた名前に神崎が少し身構える。
「私は幸せです。本当に」
その一言に全てが凝縮されていた。紗希の瞳に浮かぶ透明な雫が部屋の灯りを反射して輝いている。
「私もです」神崎は素直に応えた。「共に歩んでいきましょう」
二人の間の空間が温かさで満たされるようだった。執事とメイドという立場を超えて結ばれた恋人同士の絆が、新たな章へと繋がっていく予感に満ちている。それはどんな契約書よりも確かな未来への誓いだった。
紗希は神崎の言葉に思わず口元を押さえて微笑みをこぼした。
「……怜司さんが私の両親に挨拶してくれるなんて……」
声が上擦っているのが分かる。こんなにも自分の事を大切にしてくれる人がいるなんて……
「紗希」
不意に優しく名を呼ばれて顔を上げると、神崎の黒い瞳が真っ直ぐに自分を見つめていた。いつもの執事然とした態度とは異なる柔らかな表情に胸が高鳴る。
「貴女にとって大切なご家族です。きちんとご挨拶するのは当然の礼儀です」
「でも……」
「それに」神崎は少し照れたように目を伏せた。
「私も緊張していますよ」
その正直な告白に紗希は思わず吹目を見開いた。あれほど完璧に見える大人の男性が自分の両親に会うことに緊張しているなんて。
「怜司さんが緊張するなんて……珍しいですね」
「当たり前です」神崎の頬がわずかに赤らむ。
「人生最大級の大事な節目ですから」
紗希は幸せで胸がいっぱいになった。この人と一緒になれる喜びと不安が入り混じって涙腺が緩んでしまう。
「あの……泣いてしまってごめんなさい」
「謝らないでください」神崎はハンカチを取り出してそっと紗希の頬に当てた。「涙は幸せの証拠ですから」
その優しい仕草に心が溶けるような温もりを感じる。紗希は小さな声で囁いた。
「ありがとうございます……大好きです」
神崎の表情が一瞬固まった後、まるで少年のようにはにかんだ笑顔が浮かんだ。
「私もです」
それ以上の言葉は必要なかった。準備室の暖かな夕陽の中、二人の影が重なり合うように寄り添っていた。
次の日、紗希は早速実家へ電話をかけた。両親は驚きながらも非常に喜んでくれて、一週間後の土曜日に会う約束ができた。紗希はすぐに神崎にその旨を伝えに行った。紗希にとって生まれて初めての、家に連れて行く恋人になる。
「両親と連絡が取れました!」
執務室に入るなり紗希は興奮した様子で神崎に駆け寄った。両手を胸の前で組み合わせて、頬をピンクに染めながら話す。
「父も母もとっても喜んでくれて……一週間後の土曜日にぜひ来てほしいって!」
神崎は作業中だった書類から顔を上げると、穏やかな微笑みを浮かべた。
「分かりました。早急な日程で大変恐縮ですが」
彼が手帳を開きながら言うと、紗希が少し心配そうに見上げた。
「あの……両親の反応なんですけど……」
紗希の目が泳ぐ。言いづらそうに唇を噛む様子に神崎はペンを置いた。
「何か心配な事がありましたか?」
「その……」紗希は俯いて小さな声で続けた。
「喜んでくれたんですが、すごく驚いていました。"貴族の執事様?本当にうちの娘と?"って何度も聞いてきて……」
神崎の表情が一瞬曇った。
「そうですか……無理もないですね」彼は窓の外を見ながら呟いた。
「私が執事という特殊な職業である事と年齢差を考慮すると……」
「え?」紗希が驚いた声を上げる。
「私は今年32歳です。紗希は17歳。15歳の差があります」神崎が目を閉じて言葉を選ぶように続けた。
「一般的には相当な年齢差と見られます。ましてや貴女はまだ未成年で……」
彼の眉間に深い皺が刻まれていくのを見て紗希は咄嗟に否定した。
「違うんです!」
彼女の大きな瞳が潤んでいる。
「年齢差のことじゃなくて、怜司さんが貴族の屋敷に勤めるすごい執事だって知ってびっくりしたみたいです。私みたいな普通の家庭から来た娘が……って」
「そうでしたか……」神崎の肩から力が抜けた。
「でも年齢については……?」
「実は……」
紗希は少し照れくさそうに打ち明けた。
「お父さんとお母さんも12歳の年の差結婚なんです。だから家族はそういうの全然気にしないんですよ」
神崎は目を丸くした。
「そうだったのですか」
「はい!だから心配いりません!」
紗希は自信を持って言い切った。普段は神崎に守られる立場なのに今は完全に立場が逆転している。
「それに怜司さんは年齢よりもずっと若く見えますよ」
その言葉に神崎が思わず笑った。
「褒め言葉として受け取ります」
「もちろん!」
紗希が嬉しそうに微笑む。
「怜司さんがうちの家族に会ってくれるなんて夢みたいです」
神崎は深呼吸をして背筋を伸ばした。
「当日は失礼のないように全力を尽くします」
「よろしくお願いします!」
そして、約束の土曜日が訪れた。
二人は揃って2日間の休みを取り、車で3時間以上かかる紗希の実家へと向かった。
「…その角を曲がって……こちらです」
紗希が助手席から案内した先には、こじんまりとした二階建ての住宅があった。庭には季節の花々が植えられている。見ると、玄関前では両親と弟が既に並んで待っていた。
車が停まると同時に三人は深々と頭を下げた。父親はワイシャツにネクタイというスーツ姿、母親は薄紫色の上品なワンピースを着ている。小学生の弟までカッチリしたジャケット姿だ。
「ようこそおいでくださいました!」
父親の声が裏返っているのが分かった。
「貴族の執事様にお越しいただけるとは……恐縮でございます」
母親も極度に緊張しながらも、精一杯の笑顔を向ける。
弟は完全に固まっており、紗希の隣に立つ長身の神崎を見ると、驚いて母親に耳打ちしている。
(ママ、あの人……めちゃくちゃ格好いい)
(静かになさい)
神崎は両親の前に進み出ると背筋を伸ばし、最敬礼した。
「初めまして。神崎怜司と申します」
「紗希の両親でございます。娘が大変お世話になっております。これは弟の祐希でございます」
「こ、こんにちは…」
祐希がはにかみながら挨拶をする。
「こんにちは、祐希君」
神崎は優しい笑顔を浮かべた。
「あ、あの……立ち話もなんですので」父親が震える手で玄関を示す。
「どうぞ中へ」
リビングに通されると、そこは狭いながらも暖かい雰囲気の空間だった。棚にはメイド服姿の紗希のスナップ写真と、屋敷をバックに撮った集合写真が飾られている。
応接セットに向かい合わせになると、神崎は意を決して切り出した。
神崎は居住まいを正すと、まず父と母の顔を順番に見つめた。
「本日はお時間を頂戴し、誠にありがとうございます」
声のトーンを抑えて話す神崎に、父親が慌てた様子で手を振る。
「いえいえ!こちらこそご足労いただきまして!」
「この度は……」
神崎は一呼吸置いてから続けた。
「本来ならば正式な交際に先立ち、紗希さんとのお付き合いについて許しを得るべきところを」
彼の漆黒の瞳が真摯に輝いた。
「既にお付き合いを始めてしまった後でのご挨拶となり、大変申し訳ございません」
「いえ!そんな……」
父親が困惑した様子で言葉を探す。
「滅相もございません……」
神崎は両手を膝の上で強く握りしめた。
彼の声が一段と厳かになる。
「私は紗希さんが18歳を迎えたら」
一瞬の間があり──
「結婚させていただきたいと考えております」
リビングに沈黙が落ちた。まるで時間が止まったかのような緊張感が漂う。
「つきましては」
神崎は額が膝に触れるほど深々と頭を下げた。
「どうかお嬢様との結婚をお許しください」
その姿はまさに執事の鑑とも言うべき完璧な最敬礼だった。普段の冷静沈着な佇まいとは異なり、全身で懇願するような真摯さが滲み出ている。
「まあ……」
母親がハンカチを取り出しながら呟いた。
「こんな丁寧なお申し出をいただくなんて……」
父親も立ち上がって応答する。
「神崎さん!どうかお顔を上げてください!」
彼の声は震えていた。
「私どもも紗希の幸せを考えています」
父親が続ける。
「ですが……」
そこで母親が言葉を継いだ。
「その……娘は働いているとはいえまだまだ未熟で……本当に宜しいのでしょうか?」
神崎はゆっくりと顔を上げた。その端正な顔に浮かぶのは紛れもない誠意だった。
「紗希さんは立派な女性です」
彼の声は確信に満ちている。
「献身的で責任感が強く……」
神崎は紗希の瞳を見据えて言葉を続けた。
「誰よりも純粋で美しい心の持ち主です」
その言葉に紗希の頬が真っ赤に染まる。
父親が重い口を開いた。
「神崎さん、お気持ちは大変有難い事なのですが……」
その声には敬意と躊躇が混じっている。
「貴族の執事様と……我々のような庶民の娘とでは……本当に大丈夫なのでしょうか?」
神崎はわずかに首を傾げた。その動作には無意識の優雅さが漂っている。
「お父様」
彼の声は低く落ち着いていた。
「私は確かに貴族である九条家にお仕えしておりますが」
ここで彼の表情が僅かに柔らかくなる。
「私自身は貴族ではありません。むしろ……」
一瞬の躊躇いの後、神崎は毅然と言葉を紡いだ。
「孤児院出身の一使用人にすぎません」
リビングに再び沈黙が落ちた。今回は先程とは異なる種類の静寂だった。
「幸運にも九条家の先代当主からフットマン奨学生として採用され、教育を受けさせて頂きました」
彼の目に複雑な光が宿る。
「その恩に報いるために現在は執事として働く身です」
「なんと……」
父親の声が裏返りそうになる。
「それでも我々にとっては雲の上の存在です」
神崎は穏やかに首を振った。
「誤解なさらないでください。私にとって紗希さんは身分など関係なく大切な女性です」
彼の目は真っ直ぐに紗希を見つめた。
「ただ一人の愛する人なのです」
その言葉に紗希は思わず涙ぐむ。
父親はゆっくりと頷いた。その目には尊敬の念が宿っている。
「神崎さん……」
彼は一呼吸置くと深々と頭を下げた。
「こんなにも真摯な想いをいただけるなんて……」
声が少し震えている。
「紗希のことを……どうかよろしくお願いいたします」
母親も涙を拭いながら続けた。
「あの子はちょっと世間知らずなところもありますが……」
紗希をチラリと見て優しく微笑む。
「純粋で優しい子なんです。どうぞ大切にしてやってください」
神崎は立ち上がると、紗希の隣に立った。
「誓います」
彼の声には鋼のような強さがあった。
「必ず紗希さんを幸せにします」
(怜司さん…!)
神崎の言葉に、紗希は感激のあまり言葉を発する事もできずにいた。
そんな二人を、弟の祐希が興味津々といった表情で見上げている。
「お姉ちゃんが結婚したら……」
彼が小さな声で尋ねた。
「僕のお兄ちゃんになってくれるって本当?」
神崎が思わず微笑みを浮かべる。
「もちろんです」
紗希が弟の頭を優しく撫でる様子を愛おしそうに見つめながら。
「これからは義兄さんと呼んでくださいね。よろしくね、祐希君」
「やったー!僕、お兄ちゃんが欲しかったんだ」
その後、皆で昼食を共にした。和気あいあいとした暖かい家庭の雰囲気に神崎は幸せを噛み締めた。
惜しまれながら紗希の実家を後にした二人は、大仕事をやり終えた安堵感に包まれていた。




