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Sorĉado-23 蘇生

 



 昼休みが始まって間もなく、小雪がふらりと上の四階へ向かった。どこへ行ったのかは分からない。地震の直後、心配になって四階へ向かってみると、廊下に人影は見当たらず、充満した灰色の煙で数メートル先の視界も覚束(おぼつか)なかった。恐ろしくなって捜索を諦め、校内放送で呼びかけてもらうべく、森沢を探して応接室に辿り着いた──というのだった。


「四階でも火事が起きてるってこと?」


 震える声で叶奈が尋ねると、彼女は「有り得るよ」と唇を噛んだ。


「だってあの階、科学実験室とか家庭科室とか危ない部屋が揃ってんだよ。どこだって出火元になるよ。図書室には可燃物が山ほど詰まってるし……」


 その何気ない一言が、叶奈の脳裏に重大なヒントを刻み込んだ。

 図書室だ、と心の中の自分が囁く。かつて昴に想いを寄せていた頃、小雪は週に二度も三度も図書室にいる昴のもとへ通っていた。その昴が逮捕された今、小雪が何を思って図書室に向かったのかは分からないが、少なくとも目的地になり得る場所は図書室しか考えられない。

 心臓の奥が疼きを深めるのを叶奈は覚えた。

 何の根拠もないのに、わたしのせいなんじゃないか、と思った。


「……わたしに任せて」


 小さな声で訴え出ると、クラスメートたちは「はぁ?」と叫び返してきた。叶奈も喧騒に負けない声で叫んだ。


「四階に行く。朝霧さんを見つけてくる」


 廊下の向こうからは給食調理室由来の煙が充満しつつある。返答を待ってはいられなかった。無我夢中で足を蹴り、何事かを喚いている同級生たちの声を背に受けながら、一段飛ばしで階段を駆け上がった。二階、三階とフロアを通過するたびに、煙は薄くなり、周囲の人影も減ってゆく。『四階の科学実験室でも出火が確認されています』──校内放送の警告が反響をなして折り重なり、不安を強く煽り立てる。それでも叶奈は立ち止まらなかった。自分が行かなきゃいけないんだと、頑固な思い込みを手放せなかった。

 三階の廊下を走り抜けて奥の階段を上り、四階に出た。目の前には図書室の入り口がある。ガラス戸の向こうでチロチロと舌を出して笑っている炎を見つけ、叶奈は「朝霧さん!」と叫びながら図書室に飛び込んだ。

 すでに図書室の一部は火に包まれていた。倒れた本棚が折り重なり、大量に落ちて散らばった本の山が燃料になっている。地震の衝撃にやられたのか、スプリンクラーの作動している気配もない。青くなって立ちすくんだ叶奈は、次の瞬間には「ひっ」と息を詰まらせた。炎の壁を超えた先、奥の一角を埋めるように崩れ去った本棚の向こうに、人影らしき横長の影が横たわっているのを目にしたのだった。

 消火器を使ったのでは間に合わない。

 ()()を使うしかない。

 今度で終わり。もう本当に、今度で絶対に終わりにするから。

 恐怖で(しぼ)んだ胸に決心を投げかけつつ、燃えていない【歴史】の区画へ飛び込んだ叶奈は、一冊の本を棚から引き抜いた。いつか浅羽麻衣の事件を聞きつけた後、魔女の歴史を勉強しようと手に取った本だった。


「確か、どっかに魔法円が……っ」


 急いでページをめくると、魔女たちの用いる汎用的な魔法円の描かれたイラストが見当たった。普通の人間にしてみれば単なる参考情報に過ぎないイラストが、魔女の前ではそのまま武器になる。革手袋はしてないけど、お願い、上手くいって──。目を閉じて魔法円に右手を宛がい、詠唱の文句を組み立てた。


「Estingu la fajron(火を消せ)!」


 瞬間、轟音とともに大量の水が図書室の天井から降り注いだ。

 叶奈も、本も、頭から水をかぶって全身ずぶ濡れになった。プールの水を降らせて鎮火を狙ったつもりが、少しばかり調整に失敗したらしい。ともかく慌てて本を拾い上げ、抱きかかえながら、水溜まりを蹴って人影のもとへ向かう。激しい水しぶきで一気に温度を下げられた火災は跡形もなく鎮まり、もうもうと炭化した煙ばかりが天井を不気味に覆い尽くしていた。

 人影の正体はやはり小雪だった。崩れてきた本棚の下敷きになった彼女は、頭から血を流してカーペットに倒れ伏していた。


「朝霧さん! しっかりして!」


 肩を起こして揺さぶったが、小雪はぐったりと身体を預けるばかりで目を覚まさない。頭を打っているだけならともかく、一酸化炭素中毒で窒息した可能性もある。恐々と触れた胸に拍動があるのを確かめ、あまりにも弱くて不規則な呼吸に絶句した叶奈は、ともかく広くて安全な場所に連れて行こうと、小雪を引きずって入口ドアの前に移動した。


「う……」


 小雪が呻き声を上げた。

 血の気を失って青白く変じた人差し指が、最後の力を振り絞るようにして叶奈の腕に絡みつく。


「すばる……たすけて……」


 頭を打たないよう慎重に小雪を下ろしながら、その一瞬、叶奈は強く潤んだ瞳から光がこぼれるのを自覚した。地震で破壊された上に炎で(あぶ)られ、さらに大量の水までかぶって凄惨な地獄と化した図書室の一角で、小雪は目の前にいるのが誰かも分からないまま、命の淵から本能的に助けを求めている。唇を震わせた叶奈は、無意識に「ごめんね」と声を漏らしていた。

 わたし、大鳥居くんの代わりにはなれないよ。その代わり今度は絶対に、朝霧さんの役に立ってみせる。それが済んだら姿を消すから、どうかお願い。今だけはわたしで我慢して──。

 立てた誓いは素早く魔女語(エスペーロ)に変換されて呪文に変わり、魔法円に右手を押し当てた叶奈の口から弾けて飛び出す。噛んだ唇を解き放った叶奈は、叫ぶように詠唱した。


「Reakiru la spiron de ĉi tiu infano(この子の息を取り戻して)!」


 除細動器(AED)にかけられたかのごとく、小雪の身体は数センチほども激しく跳ね上がった。床に打ち付けられた背中が曲がり、「かはっ!」と小雪が苦しげに咳をするのを見て、祈る思いで固まっていた叶奈は目を見開いた。すぐさま、手近にあった左手首を取って脈を診る。不規則で弱々しかった脈拍が、おおむね正常のペースに戻りつつあった。

 蘇生成功だ。革手袋を嵌めていない状態で魔術を使ったにしては、驚くほどの上出来といってよかった。


「よかった……」


 へなへなと崩れるように座り込んだ叶奈の背後で、図書室のドアが勢いよく開いた。「春風!」と強い声で名前を呼ばれ、振り返ると、そこには息を荒げながら扉の取っ手にもたれかかる円花の姿があった。


「葉波さん、どうしてっ」

「避難場所……屋上に変更になったから……春風が四階に向かったって聞いて……」


 絶え絶えの声で切り出しかけた円花は、叶奈の前に倒れている人の姿に気づいた途端、せっかく吸い込んだ息を喉に詰まらせて数回むせた。いまや小雪はすっかり従前の肺機能を取り戻し、意識を朦朧とさせながらも自力で呼気を取り込んでいる。


「……本当に助けたんだ、その子」

「へへ。なんとか間に合ったよ」

「いや、そうじゃなくて……。春風には助けるメリットなんて何もなかったのに、それでも助けたんだなって」

「な、なんで?」


 思いがけない言葉に驚いて問い返した。円花は首筋を掻き、「だって」と口ごもった。


「そいつ、叶奈のこと長い間いじめてた子じゃん。助けたら前みたいな日々が戻ってくるかもしれないのに、よくそんな平気な顔でいられるよな……って思ったんだよ」


 助けるのに夢中で他のことなど考えていなかった叶奈は、言われて初めて小雪の顔を見下ろした。彼女は目を閉じたまま、苦しげに肩で息をしている。ほんの数時間も経って意識が回復する頃には、性懲りもなく現れるようになった叶奈を小雪はふたたび目の敵にし始めるだろう。

 また、腹を蹴られるかもしれない。

 精神攻撃で泣かされるかもしれない。

 それでも叶奈は、必死に小雪の救命に奔走していた瞬間の、何も後先を考えずに猪突猛進するような感覚を、どうしても否定しきれなかった。メリットやデメリットを悠長に価値判断の秤にかけていては、火の中に飛び込むような真似はできない。あの瞬間、叶奈はまぎれもなく善悪の垣根を超えた場所で、小雪に親切を働こうとしていた。


「……助けたかったから、助けただけだよ」


 へにゃりと笑って、いつか円花の前で口走ったセリフを繰り返した。たとえ言葉足らずでも、結局のところそれが小雪を助けようとした理由のすべてだと思った。

 説得のきかない相手を前に失望したような、呆れ果てたような面持ちで、円花はしばらく叶奈や小雪を交互に見つめていた。


「てか、なんで急に屋上になったの。校庭に避難するんだったんじゃ……」


 彼女の口にしかけていたことを尋ね返すと、我に返った円花の顔がうっすらと青ざめた。


「──津波が来るんだ」

「え?」

「大津波警報が発令されたって。あと二十分もしたら、木之本海岸に十メートルの津波が来る。この街は沈むんだよ!」


 常にクールで正気を失うことのなかった円花が、切迫感で声を上ずらせていた。思わず息を飲み、『十メートルの津波』という破格の破壊力を叶奈は想像した。たとえわずか数十センチの津波でも、人々は足を取られて流されるといわれる。数メートル単位にもなれば、鉄筋コンクリート造のビルだって無事では済まされない。首都圏のベッドタウンとして機能する人口密集地の友枝市に、もしも、それ以上の規模の津波が押し寄せれば──。


「……みんな、死ぬ」


 その意味の重みも想像しきれないままに、叶奈はつぶやいた。「だから屋上に!」と円花が急かしてきたが、あまり耳には入らなかった。

 みんな、死ぬ。叶奈も、円花も、小雪も、二度と戻らないと決めた夢野家の住人たちも、叶奈を大事にしない春風家の家族も、叶奈を遠ざけるクラスメートも、魔女を嫌悪する街の人々も、津波に飲まれればひとたまりもない。この街は根こそぎ破壊され、洗い流され、あとには累々と不幸の残骸が積み上がってゆく。

 不意に敦子の顔が浮かんだ。

 彼女は情けなく怯えるばかりの叶奈に、静かな、強い意志のこもった瞳で光を注いでいた。


──『地震、火山の噴火、津波、山火事、台風、干ばつ……。科学技術の存在しなかった古代、人々の力では自然災害に抗うことは不可能だった。唯一、超自然的な力で災害に立ち向かうことのできた魔女(シャーマン)だけが、人々に残された最後の希望だった』

──『誰にも文句を言わせないくらい強い魔女になって、いつか誰にも文句を言わせない仕事ぶりで世界を救ってちょうだい。あなたのような若い魔女の肩には、文字通り魔女の存亡がかかってる。それはもしかしたら魔女だけじゃなく、人類全体の存亡なのかもしれない』


 あのとき敦子の伝えようとしていた真意が、今、ようやく確かな実感をもって叶奈の心髄に染み込もうとしていた。圧倒的な自然の猛威を前にして、円花たち一般人は無力に恐れおののき、逃げ惑うことしかできない。けれども魔女はそうではない。人ならざる力を行使することのできる魔女は、人の力ではどうにもできない事態に立ち向かう能力を持ち、そうすべき使命を負っている。それは紛れもなく、今、この災害時をおいて他にはない。

 ひとたび魔術を身につけた以上、魔女をやめることはできない。どんなに恐ろしさで身体や心を震わせようとも、叶奈は迫り来る災禍に立ち向かわなければならないのだ。なぜならそれが、魔女になる道を選んだ叶奈が世間から与えられた、たったひとつの存在意義だから。たとえどんなに日頃から忌み嫌われ、遠ざけられようとも、家族やクラスメートや街の人々を失うわけにはいかないから──。


「葉波さん、朝霧さんのこと背負える?」


 小雪の背中をいたわりながら尋ねると、円花は「足でも痛めた?」と聞き返してきた。


「ううん、大丈夫」


 叶奈は微笑んだ。


「でもわたし、ちょっと用事を済ませてから屋上にいきたいなって思って。だから葉波さんは朝霧さんを連れて先に上がってよ」

「なに考えてんの春風、こんなときに用事なんて……」

「わたしは魔女だから」


 その一言で円花はすべてを理解したようだった。十秒ほど唇を結び、逡巡した彼女は、しかし首の一振りで普段の冷静な眼光を取り戻した。


「じゃ、そうさせてもらう」

「うん。また後でね」

「……死なないでよ」


 うつむいた円花は、その一言を残して叶奈に背を向けた。ひびわれた息で喘ぐ小雪に声をかけ、その肩に腕を回して立ち上がらせる姿を、叶奈は不思議と充足した心持ちで見守った。

 思えば、叶奈が最後まで欲し続けていたのは仲良くおしゃべりのできる友達ではなく、こんなふうに危機の手前で叶奈の所在を気にかけてくれる存在だったのかもしれない。じんと胸に突き刺さった円花の激励は、叶奈の胸に残っていたひとしずくの躊躇を粉々に散らし、いまにも凍てつきそうな心に無尽蔵のエネルギーをもたらして燃え始める。

 叶奈は足元に転がっていた本を開いた。

 そして、ページいっぱいに描かれた魔法円の中心へ、手のひらを強く押し当てた。


「Konduku min apud la maro(わたしを海沿いまで連れてゆけ)」


 巻き上がった粉塵が視界を闇に陥れる。ふたたび瞳を開いたとき、二人の同級生は叶奈の前から跡形もなく姿を消していた。





「目を覚ましてよ。わたしの身体を温めてよ。誰の姿もない道端で、冷たくなったわたしを何度も拾い上げてくれたみたいに──」


▶▶▶次回 『Sorĉado-24 ふたりぼっち』

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