第二十五話 新天地の夜に ③
漠然とした懸念が胸に蟠る……。
言葉では言い表し難い不安に駆られる詩織は、逸る気持ちを抑え家路を急いだ。
達也の下で働きたいと志願してバラディースに押し掛けたふたりは、都市西部にある五階建てのワンルームマンションにそれぞれ居を構えている。
収容可能人員の枠に比して圧倒的に居住者の数が少ない為、マンションも戸建て住宅もガラ空きの状態で、彼らが入居した物件も、他の住人はひとりも居ないという有り様だった。
着替えと僅かばかりの私物だけを持って来艦した当初、食事をふくめた私生活を心配したクレアから、同居しないかと熱心に誘われたのだが……。
庶民を自負する彼らは白銀邸の豪奢な威容に気後れし、敬愛する恩師でもあり、雇用主の奥方でもある彼女の申し出を丁重に断り、身の丈に合った物件を選択したのだ。
足早に帰路を踏破した詩織はマンションのエントランスに駆け込むや、そのままエレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押す。
このマンションは一階に三部屋、その他のフロアーに各五部屋。
キッチンとダイニングのスペースも充分に広く、狭いながらもリビングまである都合二十三の個室で構成されている。
青龍アイランドであれば直ぐに空室が埋まる筈の好物件だが、此処では他に条件の良い不動産が目白押しである為、入居者は蓮と詩織のふたりだけだった。
彼らはこの新居を気に入っていたが、引っ越しを終えて直ぐにエスペランサ星系への探査行に同行した為、実際に住んだのは数日だけであり、まだまだ新居に慣れたとは言い難いのが実情だ。
五階のホールに降り立った詩織は、そのまま足を止めずにフロアーの東端にある501号室……蓮の部屋の前に立った。
因みに彼女の部屋はエレベーターホール前の503号室だ。
呼び鈴を鳴らすが、中からは何の反応もない。
(まだ帰っていないのかしら? もうっ! 何処をほっつき歩いているのよ?)
余計な心配をさせてくれる義兄に心の中で文句を浴びせ、何気なく接触式の開閉端末に触れたのだが、扉はロックされていなかった様でスライド式のドアが簡単に開いて彼女を驚かせた。
一瞬面食らって足を止めた詩織だったが、意を決して部屋に足を踏み入れるや、恐る恐る周囲を窺い蓮を探す。
「蓮?……いるの? あっ……」
ワンルームマンションにしては快適な空間が確保されているとはいえ、人ひとりを捜すのに苦労するはずもなく、詩織は御目当ての人間を難なく発見したのだが、次の瞬間には息を呑んで立ち尽くしてしまった。
未だに陽が落ち切っていないとはいえ、既に薄暗くなった室内には明かりも点いておらず、その薄闇の中に蹲る蓮の姿は異様と言う他はない様相を呈している。
ベッドに腰を下ろし両手で頭を抱えて背中を丸めている彼は、微かに両肩を震わせながら良く聞き取れない声で何かを呟いていた。
物心ついて以来初めて見るそんな幼馴染の姿に一驚した詩織は、矢も楯も堪らずに駆け寄るや蓮に縋りついて叫んだ。
「蓮っ! どうしたのっ? しっかりして頂戴っ!」
しかし、懸命に呼びかける彼女の声にも気付かないのか、蓮は一向に顔を上げようとはしなかったのである。
◇◆◇◆◇
戦闘が終わってからというもの、蓮はずっと沈痛な想いに苛まれていた。
何が原因なのかは考えるまでもない……。
あれ以来、頭の中では同じ映像が何度も何度も再生され続けている。
最後に撃墜した敵女性パイロットの断末魔に歪んだ顔……。
無念と未練、そして怨情に見開かれた双眸が脳裏に焼き付き、その幻影が繰り返し再生され続けるのだ。
(頭では分かっているつもりだった。戦争だから、大切なものを護る為には相手を殺さなければならない……とうに覚悟を決めた筈だったのに……)
覚悟を決めたと言いながら、何処かで戦場を甘く見ていたのではないか……。
そんな自問自答に懊悩する蓮。
相手のパイロットも同じ人間だという当たり前の認識が欠落していた。
いや、敢えてその事を考えようとはせず、単に目を背けていただけなのかもしれない。
だが、撃墜した若い女性パイロットの憎しみに彩られた瞳に見据えられた瞬間、使命感と初陣で猛っていた心に冷水を浴びせられ、気が付けば自らの手で人を殺したという罪悪感だけが心に刻み込まれていた。
だからこそ、可惜実直で正義感が強い蓮は煩悶し続けているのだ。
(これからどうすればいいんだ、俺はッ!? 敵ならば、あんな女の子まで殺さなきゃならないなんて……俺や詩織と何も変わらない女の子までッ!!)
激しい葛藤に焦慮した瞬間だった、閉ざされていた五感が何かを捉えた。
身体が揺さぶられている……。
誰かの手とその温もりが……。
そして声が、自分の名を呼ぶ声が次第に大きくなるのを知覚した。
そして、それは確かな人の声として耳朶に飛び込んで来たのだ。
「蓮ッ! しっかりしなさいッ! お願いだから正気に戻って頂戴ッ!!」
聞き間違える筈もない幼馴染の声に意識を揺さぶられた蓮は、思わず顔を上げて反射的に声のする方を見ていた。
そこにあったのは、動揺し憂いを濃くした詩織の顔……。
しかし、幼馴染の沈痛な顔と怨嗟に満ちた敵パイロットの顔が混然となって重なり合い、刹那の安堵は脆くも掻き消されてしまう。
「ひいぃぃぃッッ!! やめろっ! やめてくれッ!!」
「きゃあぁぁ!」
蓮は苦悶に顔をゆがめて悲鳴を上げるや、乱暴に腕を振って詩織を突き飛ばし、恐怖から逃れるように頭からベッドに突っ伏す。
不意を衝かれて成す術もなくフローリングされた床の上に尻餅をついた詩織は、訳が分からずに呆然とする他はなかったが、直ぐに人変わりした幼馴染に縋りつき、正気に戻そうと大声で疾呼した。
「しっかりしてッ! 大丈夫だからぁッ! 私は蓮の味方だからッ!」
懸命の叫びが届いたのか、恐る恐るといった風情で蓮は顔だけを振り向かせる。
「し……詩織? ど、どうして……」
現実と幻想の区別がつかないのか、悄然として呟く幼馴染の変わり果てた姿を目の当りにした詩織は、胸を締め付ける悲しみを堪えて語り掛けた。
「どうしてじゃないわよ……それは私の方が聞きたいぐらいだわ……でも、まずは落ち着いて頂戴。此処は蓮の部屋で、いるのは私達だけだから」
何があったのか直ぐにでも問い質したかったが、混乱する彼を落ち着かせるのが先だと思った詩織は、努めて柔らかい微笑みを取り繕って蓮を宥めた。
「……俺の部屋?……あぁ、そうか。俺は……ごめん、詩織。迷惑をかけたな」
自分が置かれている現状を理解し漸く正気を取り戻した蓮は、溜息ひとつ零して謝罪の言葉を口にする。
「ううん……気にしなくていいわ。待ってて、直ぐに飲み物を用意するから」
そう告げてから身体を起こしてキッチンに向かった詩織は、冷蔵庫からフレッシュジュースのボトルを取り出し、コップに注いでトレーに乗せて部屋に戻った。
幾分かは気持ちが落ち着いたのか、蓮はベッドに座り直して背筋を伸ばせる程度には回復しており、その様子に安堵した詩織は胸を撫で下ろす。
蓮はコップを受け取り冷たい液体を一気に煽るや、再度小さな溜め息を吐いた。
「ありがとう……もう落ち着いたよ……本当にすまなかったな、詩織。何処か怪我しなかったか?」
「大丈夫よ。それよりも、何があったの? 口にしたくないことなら無理して聞かないけれど……ひとりで抱え込んでたら辛いだけだよ?」
幼い頃はどんな事でも隠さずに話せていたのが、成長するに従って話せない秘密が増えていったのは一体いつからだろうか……。
当然の様に隣に腰を下ろし、肩が触れ合う至近距離に身を置く幼馴染。
遠い昔に戻った気がした蓮は、ぽつりぽつりと戦場での出来事を話しだした。
◇◆◇◆◇
「そう……そんな事が……」
余りに痛ましい話を聞かされた詩織は、戦死した敵パイロットに哀惜の念を懐かずにはいられなかった。
だが、安っぽい同情や浅薄な綺麗事が何の慰めにもならないのを、今回の実戦で嫌というほど身に沁みて知ってもいる。
それ故に安易な追従は口にできなかった。
「分かってたつもりだったんだ……戦争だからな……でも、何処かで夢物語の様に考えていたのかもしれない……でも、そうじゃなかった……」
言葉の端々に悔恨の情を滲ませ呟く蓮に、詩織は抑揚のない声音で告げる。
「イェーガー准将が戦死されたわ……」
今度は蓮が驚愕して詩織をまじまじと見つめる番だった。
士官候補生だった頃に、練習艦リブラの貸与に骨を折ってくれた縁で知り合い、それ以降も何かにつけて教えを受けた恩人でもある。
そのイェーガーが死んだと聞かされた衝撃は計り知れない。
だが、愕然として言葉もない蓮を尻目に詩織は言葉を続けた。
「バラディースを逃がす時間を稼ぐ為に、シルフィードで特攻されたわ……自分がやると言った白銀提督の不意を衝いてスタンガンで気絶させてね……提督と私達、そしてバラディースの人々は、イェーガー閣下のお蔭で生きながらえたと言っても過言ではないわ」
すっかり暗くなった部屋の闇間に視線を投たた詩織は切ない吐息を漏らす。
彼女がその胸に懐くのは大切な想い人を救いたいという願いだけだ。
「私達だって必死なんだもの……敵だって必死。それが当然じゃない……それぞれに信じる正義があって、譲れない想いがあるから……だから負けられない。いえ、負けてはならないのよ……でないと、自分の大切なものを何ひとつ護れないから」
「詩織……」
彼女の言葉が胸に沁み、忘れかけていた想いが蘇る。
それでも何と言葉を返せば良いのか分からず戸惑う蓮は、辛うじて幼馴染の名を口にしたのだが、それ以上は何も言葉にならなかった。
すると柔らかい微笑みを口元に浮かべた詩織が、有ろう事か華奢な両腕を絡みつかせて来たのである。
為す術もなく抱きしめられた蓮は、幼馴染の温もりに包まれて言葉を失くした。
一方で己の身体と想いの全てを重ね合わせた詩織は、偽りのない気持ちを大切な想い人に伝える。
「蓮……私はね、自分がヒドイ女だって自覚があるよ……だって、あなたが生きていてくれて本当に嬉しいもの。戦場で誰が死んでも……それが敵でも味方でも私はどうだっていい……でも……でもね、蓮が死ぬのは嫌……それだけは絶対に嫌!」
彼女の声が湿り気を帯びて涙声へと変わったのを知った蓮は、その告白の重さも相俟って動揺を隠せない。
だから『嫌』と強く言われた時に身体を押されても抗えず、そのままふたりしてベッドの上に重なって崩れ落ちてしまった。
「お、おい、詩織」
幼馴染の突飛な行動に狼狽して抵抗しようとしたが、それよりも早く詩織の顔が迫って来て何も出来なくなってしまう。
その澄んだ両の瞳から溢れ落ちた涙の雫を顔に受けた蓮は、只々呆然とし彼女を見つめ返すしかなかった。
「だから、蓮が辛いのならば……その苦しみも、悲しみも……苦しい事は全て私が受け止めてあげる……」
何時も自分の事は後回しにして世話を焼いてくれた幼馴染。
意地っ張りなくせに泣き虫で、意見が対立した時も文句は言うけれど最後は必ず折れてくれた。
いつも明るくて魅力的な彼女の笑顔にどれだけ救われて来ただろう……。
そんな最も身近な存在だった女の子に懐き続けて来た彼自身の切ない想い。
その女の子……詩織がポロポロと涙を零しながら素直な想いを吐露しているのだから、蓮にしてみれば青天の霹靂以外のなにものでもない。
(こんなの反則じゃないか!?)
様々な記憶と想いが綯交ぜとなり混乱の極みに陥った蓮は、思わず心の中で抗議の声を上げてしまう。
しかし、それが唯の照れ隠しに過ぎないのは、誰よりも彼自身が自覚していた。
だからこそ、詩織の唇と自分のそれが重なり合うのを予期していたにも拘わらず、蓮はその幼馴染の想いを拒めなかったのだ。
(し、詩織とキス……してる……)
甘く柔らかい感触……そして微かな温もりが、彼の思考と心を蕩けさせ……。
その未知の感覚に陶然となった蓮は、抱え込んでいた全ての柵までもが溶けてしまい、彼が望む想いの儘に詩織の身体を強く抱き締め返すのだった。
新天地での初めての夜。
アルカディーナの衛星ミュートスの下、想いを重ね合わせた蓮と詩織にどの様な運命が待つのか……。
それは当の本人達にも計りかねる事だった。
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