マデリーン・アッシュフィールドの婚約者 6
父親であるヴィクターと二人きりになると、いつだってヴィクトールは緊張してしまう。
「結果的には悪くない方向へ行ったがね」
小さくため息をつきながら、父はそう言った。昔から声を荒げることのない、穏やかな話し方をする人だが、ヴィクトールはそれが酷く嘘くさく感じられるのだった。
実際嘘くさい。父が穏やかなのは、欺瞞に満ちている内面を包み隠すためのものでしかない。本人もそれを十分に自覚している。だからこそ、笑顔の裏で、ある計画を着々と推し進められるのだ。数年後裏切り、断頭台へ送る相手を前に、慈愛に満ちた笑みを浮かべて見せられるのだ。
「けど、さすがにあれは言い過ぎだと思うよ。確かに、マデリーン嬢への暴力は言語道断だけどね。……まあ、娘の前で罵倒するのは抑えたことだけはよかったがね」
あの時すぐさまヴァイオレットにマデリーンを託し、別室に連れて行かせたことは正解だった。さすがに、娘の前で父親が、それもヴィクトールのような若造にこき下ろされることはまずいと、ヴィクトールにだってわかる。
ただし、父が言うように抑えたのではなく偶然だった。もしヴァイオレットを連れて行っていなかったら、マデリーンが頬を腫らせていなかったら、彼はそのまま彼女の前で彼女の父を罵倒していただろう。
「……差し出がましい真似をしました。他の家庭に、他人である私が踏み込むべきじゃありませんでした。それに、感情を抑えられず、不用意に相手を不快にさせてしまいました。反省しています」
「うん。そこがわかっているのなら、私が言うことはないかな。結果的にはいい方向へ行ったし、間違っているわけじゃないけどね。相手を怒らせたらいけない。なにしろ、アッシュフィールド家にはもうしばらくモラン家を存続させてもらわなくちゃいけないんだから」
ちくりと胸が痛んだ。結局、自分はマデリーンを目的のために利用しているに過ぎないことを、父の言葉で突き付けられたからだ。
「父親には私からフォローしておくよ。彼も同級生だったからね。……まあ、私としては彼の気持ちもほんの少しだけわからなくもないんだよね。いや、娘に対するあれはいただけないけど、まあ彼はよくやったよ。有能ではないけれど、頑張った方じゃないかな」
「頑張った?私にはとてもそうは思えませんが」
マデリーンの父親マーカスは無能だ。ヴィクトールはそう思っているし、そう本人にも言った。夫人が築き上げた実績を悉く潰してきたという印象しか持っていない。
顔に出ていたのだろう。ヴィクターが苦笑した。
「まあ、いろいろあるのさ」
幼い頃、母が身支度を整えているところを、こっそり見るのが好きだった。
母は美しい人だった。その母が、髪をとかし、白粉をはたき、唇に紅を挿して、ゆっくりと、だが確実に一層美しくなっていく様を見るのが、何よりも楽しみだった。
母は鏡の前で集中しているため、自分が後ろにいることに気付いていない。彼女は上機嫌なのか、時折鼻歌を歌いながら、メイドに仕上げてもらった姿の、最終点検をしている。
母の機嫌がいいのは、マデリーンにとっても嬉しいことだった。なぜだか忘れてしまったけれど、母が上機嫌でいる時、家の空気が柔らかい物だったような気がする。綺麗に髪を結い上げたメイドは、今は下がっている。鏡の前にいるのは、光り輝くような母だけだ。
「コリーン、支度は終わったかい」
その時、父が控えめなノックと共に入って来た。父もまた、美しく着飾った母に目を向けているため、マデリーンには気付いていない。
「あら、あなた」
母の鼻歌が止まった。一瞬だけ、部屋の温度が下がったように感じられた。
「ああ、今日も君は綺麗だ」
父はそう言って、へつらうような笑みを浮かべた。しかし、その言葉に母は気を良くするどころか、不愉快そうに眉を顰めた。
「あなたって、いつも同じ言葉しか言えないのね。本当につまらない人」
吐き捨てるように言った後、母は再び鏡に向き直った。まるで、父の存在など、最初からなかったのだと言わんばかりに。父は何も言わない。困ったように、悲し気に眉を下げるだけだ。
「つまらないといえば、マデリーン。あの子、あなたに似たのね。華やかさもないし、友だちも少ないみたい。本ばかり読んで、根暗な子なのよね」
母の口から自分の名前が出たことで、彼女は身体をこわばらせた。
「マ、マデリーンはおとなしいけど、素直ないい子だよ。それに、難しい本も読んでいるようだ。きっと賢くて――」
「そんなことはどうでもいいのよ」
不機嫌そうに夫の言葉を遮り、コリーンは立ち上がった。マーカスは居たたまれない表情で口をつぐんだ。寂しげな、悲しげな父の背中。
その時の情景を、マデリーンはようやく思い出した。
「ああ、きっかけはお母さまだったのだわ」
顔を冷やし、ヴァイオレットお手製の薬草を顔に塗り、あてがわれた豪華な部屋のベッドで、マデリーンは一人静かにそう呟いた。
それほど裕福ではない子爵家の三男だったマーカスは、アッシュフィールド家の婿養子に入ることに、何の異存もなかった。それどころか、幸福で一杯だった。昔からコリーン・アッシュフィールドを慕っていたから。彼女の強さも、美しさも、その気高い血も、憧れてやまなかった。手の届く人ではないと思っていたのに、運やタイミングが重なって、彼女との縁談が決まった時は、小躍りしたものだった。しかし、憧れの人と結ばれたからといって、幸福な結婚になるとは限らないのだ。
激しい情愛ではなくても、お互いに尊敬と労わりを持って、温かい家庭を作れると思っていた。しかし、彼女の方では、そうする気はなかったらしい。
コリーンはアッシュフィールド家の女当主として、その才覚を生かして盛り立てていた。社交界でも人の心を掴むのが上手く、人脈を広げていった。才能豊かな女傑であったが、唯一彼女が犯したあやまちは、早々に後継者を作らなかったことである。彼女は、夫であるマーカスを、アッシュフィールド家の事業に関わらせなかった。信用がなかったのか、最初から夫は後継ぎを作るためだけの存在と思っていたのか。恐らく両方だろうと、マーカスは踏んでいる。
恵まれた人間にありがちなことだが、自分の身に何かが起こることなど、想像もしていないことが、往々にしてある。マデリーンを産む時、あまりに安産だったので、彼女は出産をそこまで大仕事とは思っていなかった。しかし、マデリーンの弟モーリスを産む時は難産だった。そうして、長い時間苦しみ、それでも何とか産み落とした後、彼女はベッドから起き上がることができなかった。そして起き上がれないままこの世を去った。
夫である以上、マーカスが引き継ぐしかなかったが、事業に関わっていた使用人の多くが、彼に反発し、協力することなく去って行った。彼らが忠誠を誓っていたのは、あくまでコリーンだったのだ。無能で、もともとの身分も低いマーカスには、見向きもしなかった。味方はなく、右も左もわからないまま継いだのだ。
それは、海図も羅針盤もないまま、たった一人小舟で大海に乗り出すようなものだった。
それでも毎日誰かに頭を下げ、残された資料を舐めるように見回し、必死に食いついてきたのだ。それでも業績は徐々に下降していき、財産は目減りしていった。焦燥に駆られ、日々怯え、気が付けば自分によく似た、コリーン曰く「つまらない娘」が自分を咎めるように見ていることに気が付いた。
そうして、気付けば大事な娘だったはずのマデリーンに、酷い言葉を投げつけていたのだ。
「しかし、それは言い訳にもなりません」
「そうですね。とはいえ、あなたはよくおやりだ。あなたがいなければ、アッシュフィールド家はもっと早く没落していたでしょうね」
アッシュフィールド家を訪ねたヴィクターが、憔悴した様子のマーカスに笑いかけた。表向きの名目は息子の暴言の謝罪ではあるが、肝心のマーカスは恐縮するだけで、謝罪を受けることすらない。
「いいえ。ようやく目が覚めました。分不相応な肩書に押しつぶされ、正気を失っていたのも同じです。とはいえ、そんなことは言い訳にもならない。娘に許されるとは思っていません。今更娘に会わせる顔もありませんが、もはや潔く――」
「いえいえ。それはもったいないことです。ご子息だっていらっしゃるのですから。マデリーン嬢のご結婚も二年後に控えてらっしゃるじゃないですか。愚息が言う通り、彼女はトレヴァー商会の今後の発展になくてはならない存在です。彼女のためにも、こちらでもできる限りの援助をさせていただきます」
そう言って、ヴィクターは、さらに恐縮するマーカスに慈愛に満ちた笑みを浮かべて見せた。