9話 金色の侵食
アルバ、カント、イルシオンの三人は、幾何学の中にいた。
ふと、アルバの心に感情が植え付けられる。それは自己否定や自己嫌悪。かつてのノーチェが抱えていたもの。その瞬間、アルバは思い出す。無力な自分を。
『おねがい、離して! ノーチェ! ノーチェ!』
無力な子供が騎士の腕の間から叫ぶ。だが、その手は届かない。傷ついた顔をした少女を救えない。
『お前は無力だ』
頭の中で声が響いた気がした。自己否定が沸き上がる。だが、アルバはつぶやいた。
「違うよ。ぼくはもう無力じゃない。ノーチェを助けるために、頑張ったんだ」
思い出す。ノーチェの近況を知ろうと、ポラールから来た商人から話を聞いた日々を。少しずつ、少しずつ情報の手を伸ばしていった日々を。……ノーチェに、手が届かなかった日々を。
『暗い離宮に閉じ込められている』
『使用人にいじめられている』
『周囲に信用できる人はいない』
手が届かない。ノーチェは苦しんでいる。
「……ちがう。手は、届いたんだ……」
思い出す。求婚した日を。思い出す。訓練を受け、闇の霧、闇の蝶、闇の薔薇を作れるようになったノーチェの姿を。思い出す。闇の雷、闇の渦に守られた自分の姿を。
「……ノーチェは、すごいや」
それに比べて自分はどうなのだろうか。祝福を持たず、自分ひとりの力では彼女を救えなかった。挙句の果てに、ノーチェに助けてもらった。
「……ノーチェは、ぼくがいないほうが、強くなれるのかもしれない」
そうつぶやいた途端、彼の瞳にくすんだ金色が侵入する。
『お前は、祝福を持たない』
脳裏に声が響く。だが、アルバはそれを否定できない。
『お前は、役に立たない』
「ぼくは、役に立たない」
言葉を繰り返す。
「ぼくは、何もできない」
「ぼくは、邪魔だ」
頭の中の声は、否定の言葉は、彼自身の言葉になる。言葉をつぶやくたびに金色が広がっていく。
「ぼくは、いなくていい」
金色に染まった虚ろな目で、アルバはつぶやいた。床に座り込んで、壁に背を預ける。
「そのほうが、ノーチェは自由になれる」
へらりとした笑みを浮かべる。貼り付けたような、王子の笑みを。
カントの脳裏には、「ルナリアにとって、僕が消えるのが最適解だ」という結論が浮かんだ。ルナリアの破滅願望に似ている。いつもなら「合理的でない」と切り捨てていたはずだった。だが。
「ルナリアは衝動的に行動します」
事実を並べる。この前も、急に「踊るわよ!」と庭に飛び出していた。……カントが踊りやすいよう調整した庭に。
「なぜなら、それは僕が彼女の衝動を許容しているからです」
記憶の中のカントは、急に飛び出していった彼女に苦笑するばかりだ。狼のような色の目に金色が混じる。
「衝動的な行動は、破滅をもたらす」
思い出す。自傷衝動に飲まれ、虚ろな目で「ぐちゃぐちゃの……めちゃめちゃに……なりたい……」とつぶやくルナリアの姿を。
「だから、やめさせなければなりません。ですが、衝動は彼女の感情から生まれています」
ルナリアの感情を封じることは逆効果だ。抑圧された感情は自傷に向く。
「彼女から衝動が生まれぬよう、コントロールしなければいけません」
金色が増えていく。
「衝動を許容する存在を、排除しなければ……」
カントの表情から微笑みが消える。
「すなわち、僕を排除しなくては」
植えつけられた論理は、カント自身のものとなる。
「やはり、僕が消えるのは最適解です。ルナリアの幸福のためには、必要な処理でしょう」
彼は金色の虚ろな目で、飛躍した論理を結論として口にした。壁にもたれ、ぶつぶつと計画を練り始める。カント自身を、排除する計画を。
イルシオンは一瞬、『楽しい』と感じなくなった。
「クッキーの山には、アイシングの雪がかかってるの」
彼女は抗うように虚言を口にする。心に浮かぶのは、大きなクッキーの山と甘いアイシングの雪。
「果実水の川には、バームクーヘンの丸太が流れてくる。丸太に乗れば、ゼリーの海にたどり着くわ」
景色が変わる。色が変わる。彼女の得意な問わず語り。
「……でも、このままじゃ海があふれちゃうわね。ゼリーが固まってるから」
空想に現実が混じる。瞳の色が揺らいだ。
「ケーキのお城に、クリームが飾られている。きらきらと輝く宝石……だと食べられないかしら。チェリーの砂糖漬けかな」
空想が現実のようになっていく。世界が狭まっていく。
「お城の中にイルとクラロがい……入れないわね。机の上に乗ってるのを、見てる」
世界が切り替わらない。水色の瞳が金色に変わっていく。空想は現実となっていく。色が消えていく。
「……一緒にケーキを食べて……。味は……えっと……」
言葉が止まる。味が思いつかない。
「……何味にすれば、いいの……?」
何を選べばいいのか分からない。……かつてのクラロのように。イルシオンはただ上を見上げた。その瞳は金色に染まっていた。
「……なにも、思いつかない……。なんで、こんなことしているんだっけ……」
彼女の心の中から、世界が消えた。
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