第三十ニ話 最終回
瞼の裏に焼き付いていたあの毒々しい緑色の残像が、一気に霧散していく。次に目を開けたとき、視界を埋め尽くしたのは、暴力的なまでに澄み渡った「本物の八月の青」だった。
私たちはびしょ濡れのまま、一九九九年の洋館で全ての因果を焼き尽くした。滝音太郎の研究ノートは暖炉の炎に抱かれ、未来を汚染する赤い結晶は金槌の一撃で塵となった。因果を狂わせ、人々を不幸に陥れる全ての呪いを、あのミレニアムの闇の底に埋葬し、私たちは跳躍した。
気がつくと、そこは見慣れた都立高校の、夕暮れ時の穏やかな廊下だった。
窓から差し込む茜色の夕闇が、廊下の隅々までを浄化するように照らし出している。校庭からは野球部の掛け声と、乾いた金属バットの音が風に乗って響いてきた。それは、因果の歪みに囚われていた俺にとって、何よりも愛おしく、誇らしい「ありふれた世界の呼吸」そのものだった。
「吉川くん、三島さん。合宿の準備、もう終わった? 今年の夏山合宿は、先生が美味しいスイカを用意してくれるって言ってたぞ」
廊下の向こうから歩いてきたのは、田口と大内だった。その表情には、二郎による凄惨な被害の影も、復讐に燃える暗い眼光も微塵もない。ただの、夏休みを謳歌する高校生の眩しい笑顔がそこにあった。
俺は込み上げる安堵感を押し殺し、震える声で尋ねた。
「……ああ、今終わったところだ。ところで、顧問の先生は?」
「何言ってるんだよ。そこにいるじゃないか」
大内が指差した先。職員室の入り口に立っていたのは、滝音二郎という男ではなかった。
そこにいたのは、滝音梨代という名の、優しく穏やかな表情を浮かべた女性教師だった。
「先生、お兄さんの太郎さんは、今どうされていますか」
恐る恐る口にしたその名は、静かな放課後の教室で場違いな響きを持って消えた。
「あら、私はずっと一人っ子よ。タキオン? 何かのアニメの技かしら。どうしたの、吉川くん。変な夢でも見たのかしら。顔色が悪いわよ、熱でもあるの?」
梨代先生は親身になって私の額に手を当てようとする。その瞳には、未来を盗もうとした者のどろりとした執着など欠片もなかった。滝音太郎という因果の結び目は消え、ただの梨のような真っ白な静寂がそこに残されたのだ。俺は深く息を吐き、肺の奥に溜まっていた過去の澱みを、すべて吐き出した。
将棋の専門誌を徹底的に調べても、あの北山乙子の名は、引退した棋士のリストにさえどこにもない。タキオンという禁断の果実が消え去った正しい歴史では、彼女たちは最初から生まれてこなかったか、あるいは全く別の、平凡で幸せな人生をどこかで歩んでいるのだろう。
すべてが変わり、私と美鶴の記憶だけが、この新しく塗り替えられた世界の継ぎ目として残されたのだ。
放課後。誰もいない保健室。夕日が差し込み、白いカーテンが夏の終わりの微風に吹かれて、ゆっくりと膨らんでいる。ベッドの端に座る美鶴に、私は問いかけた。
「美鶴、あの時の告白を覚えているか。君のうなじにあった、あの龍の痣は」
美鶴は自らのうなじを細い指先でなぞり、冷たい、しかしどこか茶目っ気のある視線で私を睨みつけた。
「何言ってるの、相変わらずいやらしいわね。私のことが好きなの? きもいわ。さっさと帰って、竹刀でも振ってなさいよ」
突き放すような言葉に、私は肩を落とした。やはり、歴史の完全な修正と共に、あの命を懸けて駆け抜けた愛の記憶も、彼女の中から消えてしまったのか。また一から、地道にやり直しだな。
そう私が自嘲気味に呟き、立ち去ろうとした、その時だった。
美鶴が不意に、私の耳元に柔らかい唇を寄せた。熱い吐息と共に、甘く、そして確かな重みを持って彼女が囁く。
「嘘よ。私もソウが好きだって、一九九九年のあの雷鳴の中で言ったじゃない。……うなじより、もっと見たいところがあるんでしょう。あなたはいつも、そこばかり見ていたものね」
彼女はいたずらっぽく、そして最高に魅力的な笑顔を浮かべた。そのうなじに、かつてのような赤龍の痣はない。あるのは、夕日に透ける柔らかな産毛と、少女らしい滑らかな白い肌だけだ。彼女は私の指先を自らのブラウスの裾へと優しく導いた。
「保健室の鍵は、もう閉めたわ。私たちの『指し直し』は、ここから始めるのよ。今度は、時間なんて関係ない、二人だけの真剣勝負ね」
彼女の手が俺のシャツのボタンに触れる。その指先は、あの一九九九年の戦場のような焦燥を伴った熱さではなく、夕暮れの風のように心地よい、未来への体温を持っていた。
窓から入り込んだ風が、夏の終わりの草の香りを運んでくる。俺は彼女の細い腰を引き寄せ、二度と失われることのない、透明な「今」を強く抱きしめた。
長い、長い中盤戦が終わった。
運命という名の盤面の上で、俺たちはついに「詰み(チェックメイト)」を超え、その先にある穏やかな終局へと辿り着いたのだ。
黄金色の夕光の中で、美鶴の瞳が、これからの未来を予見するように優しく輝いていた。
(了)




