第百三十七話 裏メイドが片付ける夜の影(その1)
レイフォード伯爵邸は、昼の顔と夜の顔を持っている。
昼間は荘厳な門構えの前に兵士たちが整列し、訪問者に礼儀正しく応対する。屋敷の中ではメイドが微笑みながら紅茶を運び、書類の山に埋もれる当主を補佐していた。
――だが夜になれば、そこには別の気配が広がる。
影の中を駆ける音は、兵士たちの耳には届かない。
屋敷を護るもう一つの存在、レイナ夫人直属の「裏メイド部隊」が密やかに動き出していた。
その夜。
門を守る兵士たちは、のんびりとした警備を続けていた。
「……今日も静かだな」
「まぁ、こう静かすぎると逆に不安になるけどな」
「いやいや、何も起きないのが一番だろ。俺たちも楽できるし」
兵士たちは月明かりの下で欠伸をかみ殺し、足踏みで冷えを誤魔化す。
だがその瞬間――屋敷の高い塀を、猫よりも静かに飛び越える影があった。
全身を黒ずくめにした三人組。短剣と小瓶を腰に下げ、動きは訓練された刺客のそれだった。
「よし、音は立てるな」
「標的は娘だ。攫えれば大金が入る」
「任務を果たせば……俺たちの村も救われる」
声はかすかにささやかれ、すぐに夜に溶けた。
――もちろん、その存在を兵士たちは知る由もない。
その代わりに、別の“目”が侵入者を捉えていた。
「……来ましたね」
「三人。武装あり。動きからして素人ではありません」
屋敷の屋根の上。月明かりに浮かぶ黒いシルエット。
メイド服を纏いながらも、その手には刃物でもほうきでもなく、光を反射しない黒塗りのナイフ。
彼女たちは「表のメイド」ではない。
レイナ夫人が選び抜いた、ごく一握りの精鋭――裏メイド部隊であった。
「兵士たちは気づいていませんね」
「ええ、あの方々は今、当直室で“寒いなぁ”と嘆いている頃でしょう」
「ふふ、知らない方が幸せです」
メイドたちは互いに目配せをし、音もなく屋敷の闇に溶けた。
刺客たちは裏庭を抜け、目標であるアリア嬢の部屋を探していた。
廊下の角を曲がったその瞬間――一人の影が、すでにそこに立っていた。
「っ!?」
「誰だ!?」
ランタンの灯りに浮かび上がったのは、一見ただのメイド。
だがその瞳は冷ややかで、手には銀のトレイを携えていた。
「ようこそ、レイフォード邸へ」
「……っ、邪魔をするな!」
短剣が振り下ろされる――が。
金属音が廊下に響く。刺客の刃は、銀のトレイに受け止められていた。
「お客様には……こちらでお引き取り願います」
次の瞬間、トレイの裏から飛び出した仕込み刃が閃いた。
刺客は呻き声を上げて床に倒れる。
一方その頃、残り二人は庭を横切ろうとしていた。
「……仲間の声が消えたぞ」
「気にするな、急げ!」
焦る二人の足元に――影がすっと差し込む。
気づけば背後に、別のメイドが立っていた。
「夜の散歩ですか?」
「なっ――」
返事をする暇もなく、彼らの視界は回転する。
足を払われ、背中から土に叩きつけられた。
喉元には冷たい刃が突き付けられている。
「ここはお嬢様の庭。よそ者が踏み荒らして良い場所ではありません」
声は優しい。だがその手は、一切の容赦を許さない力を帯びていた。
すべての侵入者が制圧された後、メイドたちはひっそりと集まった。
「三人とも確保しました」
「傷は浅い。生きていれば取り調べに回せますね」
「ええ。兵士たちが“手柄”にできる程度に仕上げておきましょう」
互いに小さく笑い合う。
兵士たちが「静かな夜だった」と胸をなで下ろす裏で、彼女たちは命を賭けた戦いを済ませているのだ。
「……それにしても」
「ん?」
「先ほど廊下で戦った刺客、短剣の使いはなかなかでしたよ。ああいう相手には、兵士たちは耐えられないでしょうね」
「兵士たちは兵士たち。私たちは私たち。役割が違うのです」
「まったく……“メイドは楽そう”なんて、よく言えたものです」
口調は柔らかい。だがその笑みの裏には、皮肉が鋭く光っていた。
夜が明ける頃、侵入者はいつの間にか兵士詰め所の牢に放り込まれていた。
もちろん、兵士たちは「捕縛したのは自分たち」と勘違いしている。
「いやー、昨日は何も起きなくて助かったな!」
「ほんとだ。平和ってありがたい」
兵士たちは呑気に笑い、朝食のパンをかじる。
一方その視線の届かない屋敷の奥では――裏メイド部隊が静かにティーカップを傾けていた。
「……今夜も無事に済みました」
「ええ。お嬢様の眠りを乱さずに済んだのですから」
「まったく、兵士たちは今日も“平和だった”と笑っているのでしょうね」
「ふふ……いいじゃありませんか。その“平和”を作っているのは誰なのか、気づかないままで」
メイドたちは、影の中でひっそりと笑い合った。
こうしてレイフォード伯爵邸は、今日も穏やかな朝を迎える。
だがその裏に、どれほどの闇が切り払われてきたのか――知る者は、ほんの一握りしかいないのだった。




