第百三十六話 レイフォード伯爵家の通常の兵士たち
レイフォード伯爵家の兵士たちの日常は、実に地味である。
彼らは門の警備に立ち、客人が来れば応対し、時には領内を巡回して盗賊や不審者を警戒する。騎士というよりも、屋敷の平穏を守る衛兵といった存在であった。
だが最近、その日常は大きく変わりつつある。
なにせ――当主の愛娘、アリア・リュミエール・レイフォード嬢を巡って、伯爵家は騒乱の巣窟と化していたからだ。
特に問題なのは、ノア様とレオン様――つまりお嬢様の兄ィズである。
「おい、今日もお嬢様の“護衛”だとよ」
「護衛っていうか監視だろ。あのお二人が先走って突っ込んで、俺たちがあとから必死で尻拭いするんだからよ」
「はぁ……俺は兵士になったはずなのに、最近は子守りの延長みたいな仕事ばっかだ」
兵士詰め所では、日々そんな愚痴が飛び交っていた。
もちろん、彼らは忠誠心を持って仕えている。アリア嬢のことも、心から大切に思っている。だが――ノア様とレオン様の“過剰な愛情”に振り回されるのは、兵士たちにとっては体力的にも精神的にも大打撃だった。
例えば数日前のことだ。
学園へ登校するお嬢様の馬車に、いつの間にか兄ィズが飛び乗っていた。
「アリア! 兄は共に行こう!」
「そうだ、護衛は我らの務めだ!」
そう声を張り上げては、御者の頭上でなぜか取っ組み合いを始める。
当然ながら馬は驚いて暴走し、兵士たちが総出で止めに走った。
「あのとき腰をやったんだよな……」
「俺なんか、転んで鎧が歪んだんだぞ。修理代が給料から天引きだ……」
愚痴は尽きない。
さらに兵士たちの苛立ちを増幅させるのは――メイドたちの存在だった。
「なぁ……最近思わないか?」
「なんだよ」
「メイド連中、いつも優雅にお茶だの花だの……羨ましいよな」
「おいおい、声がでけぇ。けどまぁ……わかる。俺らが汗まみれで走り回ってんのに、やつらは館の中で“まあ今日もお嬢様がお美しい”なんて談笑してんだろ」
「だよな。戦闘だって俺たちが前に立つのに、あいつらは影からちょこっとサポートするだけ。気楽なもんだ」
確かに、屋敷の庭で微笑みながら佇むメイドたちの姿は、彼らには優雅にしか見えなかった。
中には「暗部」と呼ばれる特殊任務を担う兵士もいたが、彼らもよくお茶を楽しんでいるように見える。
「暗部の連中だってよ、最近は“観察”とか“内偵”とか……腰にくる仕事はぜんぜんしねぇ。お前らやっとけってよ。楽してるのはどっちだってんだ」
「ほんとにな。俺たちが地べたで泥だらけになってんのに、上の連中は椅子に座って涼しい顔してるんだから」
ため息混じりに兵士たちは酒を煽る。
夜番を終えた後の、ささやかな楽しみである。
――だが、彼らは知らない。
その愚痴を、誰がどこで聞いているのかを。
レイフォード邸の奥。
人目につかぬ一室で、数人の影が密かに集まっていた。
「……また兵士どもが愚痴っておりましたね」
「“メイドは楽そうでいいな”ですって。笑わせるわ」
彼女らはメイドの姿をしている。
だが、その素顔はただの給仕ではない。レイナ夫人直属の“裏のメイド部隊”。
屋敷の秩序を守るため、必要なら暗殺も諜報もこなす精鋭中の精鋭である。
だが、その存在は当主アレクシス伯爵すら知らない。兵士はもちろん、暗部すらも気づいてはいない。
「まったく、あの者たち。自分たちがどれほど守られているかも知らずに」
「ええ。私たちが陰で潰してきた不審者や刺客の数を教えてあげたいわ」
「でも、教えちゃだめよ。秘密は秘密のままが美しいの」
彼女らは涼やかに微笑んだ。
その笑顔は兵士たちから見れば“優雅なお茶の時間”にしか見えない。だが実際には、裏で幾重もの策を張り巡らせ、敵を制してきた歴戦の顔である。
さらに別の一人がくすりと笑った。
「“暗部は楽している”……だそうです」
「ふふ、暗部の者たちも気の毒に。実際には我々が裏で支えていることすら知らずに」
「けれど、まあ……兵士どもも働いてはいるわね。せいぜい泥にまみれて頑張ってもらいましょう。――ただし」
彼女はにっこりと笑顔を深めた。
「愚痴をこぼす暇があるなら、もっと鍛錬を積んでほしいわ。お嬢様を守る任務を“子守り”などと呼ぶのは言語道断」
その場の空気が、一瞬で凍りつく。
彼女らが笑っていても、その言葉には鋭い刃が潜んでいた。
「つまり――」
「つまり?」
「兵士たちこそ楽をしているのよ」
「まったくね!」
裏メイド部隊は、声を揃えて小さく笑った。
それは兵士たちが夢にも思わぬ“陰の会議”であった。
こうしてまた今日も、伯爵邸の表と裏で、それぞれの苦労と愚痴が交錯していく。
だが両者とも気づいていない。――結局、アリア嬢が一番の“騒ぎの渦”であり、彼女の一言で明日もすべてがひっくり返されるのだということを。




