隣国へ辿る道
隣国への道中は、一国の姫である花嫁の馬車にしては、いささか質素すぎると言っても足りないほどであった。
それもそのはずで、セピア・ヴェルディグリ・ブライトレットがリヴァー国に行く日程は一般には伏せられている。出立など、人目に付かない深夜近くとなったほどだ。様々な思惑の末そう決まったが、花嫁を乗せた馬車は華やかな装飾には程遠く、動きやすさをひたすら重視した造りの物だった。
しかし、その馬車に乗り込んだ当の本人は、その事について全く気にしていないことを同乗者は知っていた。
馬車の主であるセピアは、ブライトレットの城で密かに馬車に乗ったその時の姿勢をほぼ崩さず、窓の外を見ているようだった。セピアから斜め前の席に向かい合う形で座っているのは、唯一の同行者である侍女のアーリだけ。セピアは多くの例外的な決定に不満を言うわけでもなく、淡々と王の指示に従う。事実、不満になど思っていないのだから。
窓に映る夜景がどんどん後ろへと流れ、途中浅く微睡み、空が白み始めた頃、御者が国境近いことを告げた。
人通りがない夜中だったとは言え、驚異的な速さの進行だ。馬車には何らかの術が仕掛けてあることは容易に想像できた。アーリには術のことは解らないが、博識なセピアなら何か知っているかもしれない。出立の準備中も、しげしげと馬車の一部を眺めていたのをアーリは思い出した。あの時は、やはりこの馬車が気に入らないのだろうかと思っていただけだったのだが。
馬車の中、口数のさして多くない者同士が二人きりになれば、必然と沈黙が広がる。そして二人揃って沈黙を気にするような人間ではなく、用がなければ会話は生まれないのだった。
これまでに一度、アーリはセピアに、この出立に不満はないのか問いかけたことがある。答えは簡潔だった。「術を使ってるのね。速さは出るし、頑丈な馬車……居心地も悪くない。文句はないわ」と。
セピアは神妙そうな顔付きでそう答え、誰にも祝われない隠れるような出立も、たった一人の侍女にも文句を言わない。全くの規格外の姫だったが、さすがに服装は今までアーリが見た中で一番良い物を着ている。リヴァー国にブライトレット国の威信を示すためだとか、そんな理由だろうと推測できた。服装一つで舐められるわけにはいかない。国の代表たるセピアは、気の毒なことに国をかけて着飾らされる羽目になっていた。
セピアの静かながら断固とした反対により、派手なものや華美なものは却下されたが、装飾は抑えたが、細かい箇所にも意匠を凝らしたドレスは、控えめでありながら華やかだった。同じく派手でない小振りの装飾品は最低限のもので、逆にセピアの凛とした顔立ちを引き立てている。
それにアーリは、髪が綺麗に結い上げられているセピアを初めて見たのだった。
正直、窮屈な行程だと思った。
普段ならば無造作に一つにくくるか、風に靡くままの長い髪。それが、複雑に装飾品を絡めつつ結い上げられ、これでは背もたれにも満足に寄り掛かれない。セピアは三面鏡で見せられた己の後頭部の様子を思い出し、楽な姿勢を取ることを諦めた。
狭いとは言わないが、広くない密室に親しいわけでもない人間と二人きり。しかも、新しく付けられた侍女である彼女は、親しいどころか初対面に近い。どことなく居心地の悪さを感じるようなものだが、セピアは頓着せず馬車生活を送っているのだった。
その、ほぼ初対面である二人には会話がほとんどと言って良いほど無く、見る者が見れば、二人の仲の悪さを疑ったかもしれないほどだ。それは険悪な仲よりは仲が良い方が良いに決まっているが、まともな会話がない。会話もないのに険悪にはなりようがない。
同年代の同性達に比べ、無口な方に分類されるであろうセピアは、会話のない空間を率先して作る方ではあったが、必要な事柄に言葉を惜しんでいないつもりだ。しかし、自分の知りたい情報をアーリから聞き出す努力をしてみようかとも思えど、無駄だろうと見当を付け、既に諦めている。アーリはこちらに必要な情報しか話さないだろうし、必要なことは王の口から聞いている。自分に必要な情報は全て提示された、これ以上は与られない。ブライトレット国王とはそういう人だ。
自分の役割が彼にとって、どのようなことをもたらすのかセピアは知らない。そして教えられることはない。多分、これからもずっと。
平坦だった道が山道に変わり目まぐるしく移り変わる景色、その多くを緑が埋めるようになった頃、淡々と窓の外を眺めていたセピアは生国を離れていくことを実感していた。
セピアはセピアなりに父王に尽くそうとしている。母は小さな頃に既に他界し、弟とはまともに顔を合わせたこともない。会ってみたいと思ったこともあったが、向こうは会いたくないのかもしれない。城内を自由に歩ける彼は、閉じこめられた自分に一度も会いに来たことはなく、それは会う意志など無いという表れのようだ。それを思えば、そこまで積極的に会う意思のない自分から「会いたい」などとは、とても思えなかった。ついに一度もきちんと顔を会わさないまま国を出ることになったが、彼は他国へ遊学に出ている。仕方のないことなのかもしれない。いつか遠目に見た未だ少年の域を抜けない弟の、ぴんと背筋を伸ばした後ろ姿は父に似ていた。
ブライトレット国王の親の顔をセピアは見たことがない。それがセピアだけにそうなのか、弟にも同じなのかは解らないが、ともかくセピアにとって彼は父としては全く親しめない人ではあったが、仕えるべき王なのだった。
子供の頃に会ったのは数回。当時は何の感情も湧かず、ただ〝父〟という人だとは理解した。
今でさえ、生涯の別れかもしれないのに〝父〟に対して情緒を伴った気持ちは抱かない。ただ、自分に課せられた『仕事』をするだけ。それが〝父〟に自分が出来る数少ない事なのなら、自分を惜しまない。一般的な親子としてはおかしいのだろうが、他にどうして良いのか分からないのだ。
風のない水面のようにセピアの心は静かで動かない。
泣きながらすがり、我が侭を言ったあの日から、セピアの心は静まり返って感情に波を立てることはない。
どこまでも優しかったあの人に『心が死ぬほど辛いなら、どうかいっそ凍らせて』と頼んだあの日から。
「国境を越えたようです」
ぽつりとアーリが言葉をこぼした。
ブライトレット国とリヴァー国は、ディルバ島の中心に横たわるトウダミア山脈で二つに区切られている。越えられないほど高い山ではないが、魔物が多く住むと言われ、確実に安全な山道を選ぶとそれは今通っているギーズ山道に限られてくる。
意識してみれば、馬車は下りに差し掛かっている。国境は大体ギーズ山道の頂点辺りとされているから、ここは最早リヴァー国内だった。
「ついに来た……か」
扇を握る手に心なしか力が籠もる。ふとそれに気付き、不安なのだろうかと自問する。この動かない心に基づく感性など、てんで当てにならないとセピアは自答する。最近、そうして自分が分からなくなることが多々あることを思い出し、セピアはそっと目を伏せた。
(おかしい原因は分かってる。でも、まだ保たせないと……これが終わるまでは、まだ)
力が入り、軋んだ扇を、アーリが微かに眉を寄せて見ていることにセピアは気付かなかった。
どれ程の時間が経っただろうか。
セピアもアーリも、目を閉じて一言も発しないまま馬車は進んでいる。二人は共に眠ったように動かないが、ただ身体を休めているだけだった。道中、何が起こるかわからないのだ。安心はできない。
幾分ゆったりとした気分でいたセピアだが、緩やかに何かの気配を察知した。
(これ、は……まさか、ルグル?)
馬車は徐々にその気配に近づいている。セピアは気配を探ろうと全身を集中させた。
まさか、そんなはずはない。こんな所にこの気配が在るはずはない。驚きと困惑と疑問が胸中でない交ぜになって溢れ出した。しかし、セピアはこれによく似た気配を知っていた。
「セピア様?」
セピアの様子が変化に気付いたアーリは、訝しげにセピアの顔を覗き込んだが、その行為はおそらく何の収穫もないだろうことはセピアにも分かった。セピアの顔は恐ろしく変化に乏しいと自他共に認めている。
「……止めて」
「は?」
「馬車を止めて、早く」
そう言うと、アーリが御者に掛け合うのも待たず、セピアは馬車の扉を開け放った。瞬時に風が馬車内へ舞い込み、ドレスの裾を煽ったが、誰も気にしなかった。それどころではなかったのだ。
「セピア様!」
アーリの強い制止の声をセピアは背中で聞いた。アーリが手を伸ばすよりも早く、あろうことか、セピアは疾走する馬車から飛び出した。
転がるような着地ではなく、とん、と軽やかに草むらに降り立ったセピアは準備よく裸足だった。今さっきまで履いていた華奢な靴ではこうはいかなかっただろう。しかしながら、靴の分を差し引いてもセピアの動きは尋常ではなかった。
「すぐ戻るから、そこにいて」
慌てて止まった馬車から身を乗り出しているアーリに声を掛け、セピアは身を翻して駆けだした。
はっきり言って、ドレスの上に外套を重ねているこの格好はとても動きにくい。惜しげなく布地を使った裾が足に絡みつくが、ドレスに走りやすさを求めた人間は未だかつていないだろう。文句は言えない。
(どうして、こんな所に──?)
視線を左右に探るように動かしながら、セピアは感覚が告げる方向に迷いなく向かう。
馬車に乗っている間、妙な気配を感じていた。それは進めば進むほど強くなり、セピアは、その気配を探るべく馬車を飛び降りたのだ。アーリは気付いていないようだったが、それはそうだろう。気配に敏感な人間でも注意しなければ気付かない程度の感覚だ。セピアは気配に敏感どころではない体質を持ち、それもある種の才能だった。
今感じる気配は、自分の知っているものに少し似ている。肌に触れる空気は、あてられる程に濃く魔力を帯びていた。
セピアはある程度近づいたと確信すると、目を閉じて胸一杯に空気を吸い込んだ。
美しい森、澄んだ空気、そして混じるのはあの妙な気配。
「魔力の、流れが……いや、【魔力の場】?」
魔力の場とは魔術師が術を使う際に用意するものだ。術とは自分の魔力と引き替えに別の世界から何かを召喚することであり、虚空から何かが出現することはあり得ない。その何かは使う術によって 変化する。例えば火の術を使うとする。自分の魔力を差し出し、代わりに火を得ることが出来るという等価交換が基本になる。しかし、その前に必ず踏まなければならない手順がある。
それは魔力の場を作ること。
川で釣ってきた魚を、いきなり海水に入れたらどうなるだろうか。
つまり別世界の物質を、いきなりこちらの世界の空気に触れさせるのを防ぐことを目的としている。
術は魔力の中でしか生きない。魚を生かすためには、魚に合った水を用意しなければならない。だから魔術師は魔力の場を作る。 魔力とは別世界の物質を縛り付けておく鎖でもあるのだ。鎖が切れれば縛り付けられていたモノは霧散して逃げるだろう。
では、何故ここに魔力の場が存在しているのだろうか。
不審そうに眉をひそめ、セピアはくん、と匂いをかいだ。随分と濃密な力の匂い。吸い込んだ空気に含まれた魔力は体中を巡り、 頭がくらくらするほどの力を持っていることが分かる。何故か不思議な高揚感に満たされていく。まるで酒に酔ったような。
だんだんと濃くなる空気に目的地が近いことを悟る。明らかに空気の流れが違う。
(魔術師が居るかもしれない)
目立つ銀髪を隠すために外套のフードを被ると、静かな足取りで進み、油断無く辺りを窺いながら現場に向かった。
基本的に【魔力の場】は、魔術を行使する前準備に魔術師が作為的に発生させるものだ。魔術師が居るかもしれないと疑うのは当然のことだった。
セピア達は内密での入国だが、もし反ブライトレット国派のリヴァー国貴族がその情報を掴んでいたら?
表向きは両国の和平を結ぶ、という謳い文句の婚姻も穿った見方をすればただの陰謀だ。ただでさえ両国の上層部は険悪だ。疑惑の固まりのセピアを迎え入れて嬉しいはずもなく、妨害するだろう。
だとすれば最早決まってしまったことだというのに、往生際が悪い。婚姻が決まる前に妨害すれば良いことではないか、と思ったがセピアは考えを反転させる。
〝あの〟ブライトレット王と〝変わり者〟と名高いリヴァー王が決めたことだ。恐らくさっさと決めて要領良く事を運んだのだろう。妨害は容易くなく、決定が覆るものでもない。一応は娘であり、当事者のセピアでさえ、内々にだが確実に婚姻が決まるまで知らされなかったのだ。
軽く頭を振って、セピアはその考えを脳内から追い払う。今は、現状把握が先決だ。