第2話 フォッシリアと飛翔する男
「こんな時に飛べぬとは。機憶石の力もいい加減なものだ」
ジェイド湖の浅瀬で、剣を携えた男が苛立ったように石を弾いていた。
何度か高く跳躍する。だが、身体は思うように浮かない。
やがて石から微かな振動が伝わった。
「よし、やっとか」
男が水面を蹴る。
「ヴォラ!」
緑色の風が渦を巻き、男の身体を空へ押し上げた。
男が飛び去った先には、フォッシリアによって文明を支えられている砂漠の国、アリーチェ・デザータが広がっている。
この世界の地図の中心には、夜空の中心で輝く「バライデス」が描かれている。その星があるはずの場所には何もなく、そこには世界最大の大海、ディゾラ海が広がっている。
地図の右下を占めるアリーチェ大陸は、天にも届くチェア山脈によって左右に分断されている。右が砂漠の国アリーチェ・デザータ、左が森の国アリーチェ・シルヴァだ。二つの国は、かつて一つだったという。そして、その国を滅ぼしたと伝わる存在こそ「破滅の罪人」だった。
男の下に広がるジェイド湖は、砂漠の国アリーチェ・デザータにとって命そのものだった。飲み水を与え、湖畔の植物を育て、さらに湖の水はフォッシリアの採掘にも利用されている。
砂の下にある硬い岩盤。そのさらに下に眠るフォッシリアを掘り出すため、水を利用した掘削法が数百年前に発明されていた。
フォッシリア。
フォッシリアとは、一万年以上前に存在した「ノス・クオッド」の英知を封じた石だ。力を発揮するには使用者との繋がりが必要で、その相性が何によって決まるのかは、今も解明されていない。
人々はその仕組みすら分からないままフォッシリアに依存している。中には危険な力を持つものもあるが、それを調べるための「バライデスのフォッシリア」が発見されるまでは、事故も少なくなかった。
男が使う「ヴォラ」のフォッシリアは、産出量も繋がれる人数も多く、この世界では最も普及している力の一つだ。だが、どれほど強力なフォッシリアも、繋がれぬ者にとってはただの石に過ぎない。
そして男が向かっているのは、バライデスのフォッシリアを保管する「組合」だった。フォッシリアに関する全てを決定する、アリーチェ・デザータ最大の組織である。
そして、男がジェイド湖を横断して向かっているのが、バライデスのフォッシリアが保管されている「組合」という組織だ。
組合は、フォッシリアに関する全てを決定し、運営し、制限する唯一の機関で、「検石主」以下二十人の「検石者」によって構成されている。
このフォッシリアに依存する世界で組合は非常に大きな力を持つが、検石者になるには、それぞれの役目となるフォッシリアに繋がらなくてはならない。フォッシリアが検石者、あるいは検石主になり得る資質を持つ人間を選ぶのだ。
好戦的である者や、公正、公平な目を持たぬ者は検石者にはなれない。
男の目に組合の入り口である洞窟が見えてきた。組合は外部からの影響を避けるため、その位置を公にはしていない。
「あれから二年。ようやく追いつけるか」
森に降り立った男はそう呟くと、腰の剣の重さを確認し、大きく息を吸い、臍に力を込めて歩を進めた。
ちょうどその頃、組合へと続く洞窟を歩く女の姿があった。洞窟といっても自然の洞窟ではない。フォッシリア採掘のため、人の手で岩山に掘られた坑道だ。それでも岩肌は苔むしていて、相当の年月が経過しているのが伺える。
足下は長年人々が歩いて削れた岩が砂となり堆積し、踏み固められ、整備された道の様になっている。そのため最小限の明かりでも躓くようなこともなく歩きやすい。
洞窟を歩いていた女は、自分以外の足音が微かに聞こえることに気付いた。
「サンティね。まだ昨日の仕返しを狙っているのかしら?」
やや速足気味に洞窟の中を歩く女が、歩調を変えずに発した。女が歩いた道には、彼女のものとは別の小さな足跡が新たに残されている。
「ああもう、なんだよ。チェッ、やられたらやり返す。当然のことじゃないか」
その小さな足跡の主の姿はどこにも見えないが、足跡の上の何もない空間から落胆の声がすると、小さな足跡は速度を上げての女の横に並んだ。
「フォッシリアの力なしに、他の人から見えなくなるって力も、便利そうであまり使い道はないよね。空を飛べるわけでも、力が強くなるわけでもない。泥棒したって『足跡はあるのに見えなかった』ってことが、姿を消せる者の仕業って証拠になるしさ。私へのイタズラ程度のこともできないんじゃ、ね」
女は身体を半分捻りながら大きく前に跳躍して、着地すると同時にしゃがみ込んだ。女の歩調に必死で合わせていた小さな足跡の主は、突然目の前でこちら向きに止まった彼女にぶつかった。その衝撃からか、隠していた姿が現れた。
その小さな生物は、自分の鼻を女の鼻にぶつけ、その痛さよりも恥ずかしさに顔を覆った。
「いってぇー! ミディエ、急に止まんなよな!」
そう悪態を吐くと、小さな生物サンティは、居直ったのかミディエの肩の上に座った。
顔を覆うにしては心許ないサイズの手のひらで、前方に少し突き出した鼻をさすっている。
サンティの小さな身体と丸くふわりとした三本の尾の先は、細く長い純白の毛で覆われていて、チェア山脈を覆う雲をひと握り千切ったかのようでもある。
「まだ帰る気にはならないの? サンティにアリーチェ・デザータは暑過ぎるでしょ?」
ミディエが左肩に乗ったサンティの頭を掴もうと手を伸ばしながらそう言うと、サンティはミディエの背中を素早く回って右肩に移った。
「組合付近はちょうどいいんだよ。それに、どうせ帰ったって」
「退屈? でも、ずっとフィクスムの光を浴びずにいたら身体に悪いよ」
「それも聞き飽きたね。オレはここが好きなの。それに」
「それに?」
「言葉を教えてくれたミディエが好きなの!」
いつも憎まれ口ばかり叩くサンティの意外な言葉に、ミディエは躓くはずのない何でもないところで躓いた。危うく転びそうになり、肩からずり落ちたサンティが、何とか爪を立ててミディエの胸元にしがみついた。
「危ねぇな、もう! そんなに驚くとは思わなかったよ」
その驚きで丸く見開かれた目でサンティを見ていたミディエが、怒って顔を丸く膨れさせたサンティに「なるほどねえ」と呟いた。
「サンティ、今のイタズラは中々だったんじゃない?」
そう言って頭を掻いたミディエに、サンティは満足げに笑って胸元から飛び降りた。
サンティがミディエから飛び降りたのは、イタズラに満足したからというだけではない。組合の入り口に着いたのだ。
組合への立ち入りは厳しく制限されている。決められた者しか足を踏み入れることはできない。さらに、立ち入りが許可された者でも、入り口の審判の門で、持ち込みが許可されたフォッシリア以外を、番人に預けなくてはならない。
その規則を破ることは不可能だ。厳罰に処せられるからではない。やろうとしてもできないのだ。
その審判の門の前には、岩の身体を持つ大男が立っていた。
「おはよう、ピート」
ミディエは、両手の指輪を全て外し、腰に縛り付けていた袋の中に入れ、その大男へ袋を手渡した。
「ミディエ、今日も寝坊したのか?」
ミディエから渡された袋の中身を覗いていたピートが、僅かに発光しているフォッシリアを見て嘆息した。
「フォッシリアの力に頼りすぎると、バルバリの民のように滅びてしまうぞ」
「分かってる。母さんからもいつも言われてたし」
ピートは大きな顔をミディエの目の前まで近づけた。顔の大きさがミディエの三倍はある。その大きな顔の中でも特に大きな口を横にニィっと開いて、ピートは「分かっているのならばそれでいい」と笑った。そして、もう一度袋の中にあるものをひとつひとつ確認した。
「大丈夫、全部持ったまま入っていい」
そう言って袋をミディエに返したピートが、「あ、それはダメだ」と、自分の耳をゴツゴツした指先で三回突いた。
「ゴメンゴメン。いつも外すの忘れちゃうね」
ミディエは悪びれもなくそう言って、左耳に飾られている青い石を外した。他のフォッシリアとは存在感が違うそれは、一見して特別なものだと誰しもが分かる輝きを放っていた。そのフォッシリアをミディエは特別大切に扱うでもなく、ピートの広げられた手のひらへ無造作に乗せた。そしてピートは、そのフォッシリアを口の中へと放り込んだ。
「じゃ、行ってきます」
「ああ。みんなはもう中で待っているぞ」
「うん、分かってる。今日も終わったらサンティと木の実探しの競争やろうね!」
そう言ってピートに笑顔で手を振って、ミディエは仕事場である組合へと入っていった。




