プロローグ 欠けた記憶の粒
死ぬ。
その瞬間のことを、誰しも正確に思い出せはしない。
それはこの女も同じことだ。
ただ、死に至る前に見ていたものは、ハッキリと記憶に焼きついていた。
何度となく立っていた駅のホーム。
電車が滑り込んでくる音。
ドアが開く時に決まって聞こえる誰かの咳払い。
足元を流れていく風。
世界は、いつも通りに動いていた。
いつも通り。
そのレールからほんの少しズレた瞬間、死は急激に近寄ってくる。
女は死を目前に思った。ああ、こんな終わり方も悪くないか、と。
そう思ったところで、女の視界が青白く弾けた。
次に襲ってきたのは、身体中の穴を圧迫する感覚。
泣き声が聞こえる。
自分のものではない。
女はそう思った。
だが、その泣き声は確かに女の喉を震わせて、外の世界へと響いていた。
息が苦しい。
力が入らない。
誰かに抱き上げられている。
言葉が分からない。
ここは、さっきまでいた場所ではない。
乾いた風。
砂の匂い。
知らない誰かの体温。
いや、知っている。女がそう感じ始めると同時に、いつもの景色が薄れていく。
それを自覚した女に淡い恐怖が覆い被さる。
知っているはずがない。
この身体も。
この匂いも。
この世界も。
何ひとつ知らないはずなのに。
誰かが女を抱き上げ、低く優しい声で言った。
「良かった。あなたは生きて」
聞いたことのないその言葉の意味が、はっきりと女の胸に残った。
呼吸するたび、女の意識は沈んでいった。
駅のホームも。
電車の音も。
誰かの咳払いも。
全部が遠ざかっていく。
そして女は、ひとつの人生を忘れた。
***
砂漠の国、アリーチェ・デザータ。
検石者の家系、ヴェントス家に引き取られた娘。
名は、ミディエ。
彼女自身は、もう覚えていない。
自分が生まれる前に、別の場所で生きていたことを。
ただ、ときどき夢を見る。
知らない空。
知らない光。
知らない言葉。
そして、目を覚ますたびに思う。
どうして私は、こんな夢を懐かしく思うのだろう。
その答えを、ミディエはまだ知らない。




