鑑定結果は、合ってます
通告は、ゲートを出て三十秒後だった。
◇
その四十分前、新宿第二ダンジョン第三層。
層替わりの鐘が鳴って、四人は走っていた。
水瀬玲奈は、いつもどおりいちばん後ろだ。
壁の隙間から、湿った縄みたいな影が伸びる。
「――佐倉さんっ!」
叫ぶことしかできなかった。
振り向いた佐倉隼人が舌打ちをして、玲奈の襟をつかんで引き倒す。頭のあった位置を、影が横切った。
「後ろは見なくていいって、何回言った!?」
玲奈は、その一秒を覚えている。
佐倉が右手でこちらを引いた分、左手の剣の初動が遅れたこと。そのせいで左足に体重を乗せ直したこと。
その左足を、彼が今日の午後ずっとかばっていたこと。
◇
帰還ゲートの向こう側は、汗と消毒液と、焦げた魔石の匂いがする。
装備申告の列に並ぶ前に、それは言われた。
「悪い。次から、来なくていい」
佐倉は振り返らずに言った。
静かな言い方だった。怒鳴られたほうがまだよかった。
「あのままだと、そのうち誰か死ぬ。お前を庇う分の余力、うちにはもうねえよ」
反論しようとして、できなかった。
正しかったからだ。
水瀬玲奈、二十一歳。
能力ランク、E。
覚醒能力《灯標》。半径十メートル以内に、小さな発光目印を最大三つ置ける。
攻撃はできない。
防御もできない。
索敵にも使えない。
ホームセンターの発光スティックのほうが、明るくて長持ちする。
「先週から三人で話してた」
玲奈は、三田村と中村を見た。
三田村は目を合わせなかった。中村は、口の中で「……ごめんね」とだけ言った。
謝られたほうが、ずっときつかった。
「あのさ、水瀬」
佐倉は申告書を受け取りながら、こちらを見もしない。
「才能ないのに粘られると、こっちが困んの。今日みたいに」
喉の奥が熱くなる。
そこも正しい。
「E級にはE級の生き方があんだろ。三年もやったんだ、そろそろ気づけよ」
行きかけて、思い出したように振り返った。
「あ、それと」
口調が、ふっとやわらかくなった。
「灯り、便利だったよ。ありがとな」
三年間で《灯標》を褒められたのは、それが初めてだった。
◇
探索者協会本部ビルの三階に、再鑑定申請窓口がある。
玲奈は翌朝、開庁と同時にそこへ行った。
窓口の女性は、申請書を受け取ってから十秒で首を振った。
「再鑑定は、前回から五年空けないと受けられません。水瀬さん、二年前に一度受けられていますね」
「……はい」
「規定上、次は三年後になります」
丁寧だった。誰も玲奈をぞんざいには扱わない。
この国では毎年二万人以上が能力に覚醒する。全員を公平に、迅速に処理するために、協会は完成された制度を持っている。
その制度が、玲奈をきちんと処理しただけだ。
「あ、あの」
「はい」
「私の能力、まだ誰も気づいてない使い方が、たぶん、あって」
言いながら、耳が熱くなった。
自分でも何を言っているのか分からない。
「でしたら、再配置支援室で相談を受け付けています」
「さいはいち、しえん」
「地下二階です。エレベーターは奥に」
言い方で分かった。
それは、まだ何かできますよ、という案内ではない。
諦めてもらうための場所を、丁寧に教える言い方だ。
エレベーターの中で、玲奈は自分の手のひらを見た。
三年で増えたのは、マメと、包帯の巻き方の上手さだけ。
探索者証を返せば、装備のリース代は止まる。
同時に、収入も止まる。来月の家賃は、たぶん間に合わない。
◇
地下二階の廊下は、蛍光灯が一本切れていた。
突き当たりの部屋の前に段ボールが三箱。ドアの表示はテプラで貼り直した跡がある。
――再配置支援室
ノックをした。返事より先に、内側からドアが開いた。
「水瀬玲奈さんですね。相馬です」
「え、あ、はい」
名乗る前に呼ばれた。
申請書が回っているのだろう、と思うことにした。
三十手前くらいの男だった。協会の職員証を首から下げている。肩幅も腕も、戦闘職の体つきではない。
机の上に紙の束が積んである。
思っていたより、ずっと多い。
「あの、私、再鑑定を」
「受けられません。規定です」
即答だった。息を吸う間もない。
「でも、《灯標》は、まだ使い方が」
相馬直人は手元の紙をめくった。顔も上げずに言う。
「《灯標》はE級です。鑑定結果は、合ってます」
息が、止まった。
「置けるのは三つ。半径十メートル。持続は最大四十分」
「……はい」
「工夫すれば使い道は増えます。ただ、届くのはE級の上限までです」
玲奈は膝の上で手を握った。
分かっていた。三年間、毎晩それを確かめてから寝ていた。
それでも他人の口から順番に並べられると、こんなに冷たいのだと初めて知った。
「……そう、ですか」
立ち上がろうとした。
「去年の、七月十二日」
直人が言った。
「新宿第二の第三層、中央通路。佐倉さんが左足をかばい始めた時刻、覚えてますか」
口が、勝手に動いた。
「……十四時四十分、くらいです」
答えてから、自分で驚いた。
考えていない。思い出してすらいない。
直人が紙を一枚こちらへ滑らせた。
玲奈の字だった。三年前から書いている、同行日報。
「三年分、五百十二枚あります」
「……読んだんですか」
「全部」
「いつ」
「昨夜です。戦力外の理由をつけた構成変更届が出ると、再配置対象としてこっちに記録が回るので」
「……業務で?」
「業務です」
少し考えてから、直人は付け足した。
「業務の範囲かどうかは、聞かれたことがないので分かりませんが」
変な人だ、と思った。
思ったそばから、机の紙の量が怖くなった。
「あなたの日報、報告事項が三行で、余白が十七行あるんですよ」
玲奈は、その紙を見た。
書式どおりの報告は三行だけ。到達階層、消費物資、負傷なし。
その下の空白に、細かい字がびっしり詰まっている。
「……ただのメモです」
「佐倉さんは疲れると左肩が下がる。三田村さんは回復魔法の前に必ず一度息を吸う。中村さんの短剣の握りは、湿度が高い日に浅くなる」
直人は読み上げるというより、確認するような口調だった。
「協会の記録には、どこにも残っていません。三年間、これを書いたのはあなた一人です」
うつむいた。声が震えるのが自分でも分かる。
「……そんなの、戦えないから見てただけです」
「知ってます」
あっさりしていた。
「だから見てたんですよね」
顔を上げた。
慰めてもいない。感心してもいない。書いてあったことを、書いてあったとおりに言っている。
なんと返せばいいのか分からなくて、玲奈は関係のないことを言った。
「……相馬さんも、昨日寝てないですよね」
直人の手が止まった。
「え」
「あっ、いえ、すみません! 癖で!」
言ってしまってから慌てた。
「その、袖のボタンが一個ずれてて、マグカップが三つ出しっぱなしで、字がだんだん右に上がってて、それ疲れてる人の――あ、あの、ほんとにすみません、余計なことです」
直人はしばらく自分の袖口を見ていた。
「二時間です」
「え」
「昨日の睡眠。二時間」
玲奈は、机の上の紙の束を見た。
五百十二枚。二時間。
この人は昨日の夜、会ったこともない相手の日報を、朝までかけて読んでいたことになる。
なんでもないことのように言って、直人は束の一番下に手を伸ばした。
「水瀬さん」
初めて、まっすぐこちらを見た。
「あなた、冒険者を辞めませんか」
一拍遅れて、玲奈は言った。
「……探索者、です」
協会は覚醒者をそう呼ぶ。国家資格に準じた職業名だ。
冒険者なんて言い方をする人は、もうどこにもいない。
直人が、古い書類を一枚、机に置いた。
探索者登録申請書。六年前の日付。
志望動機欄に、丸い字が一行だけ書いてある。
――冒険者になりたいから。
十五歳の字だった。
覚醒したのがその年で、潜れるのは十八歳から。玲奈は登録だけして、三年待った。
「……なんで、こんなの」
「あなたが書いたんです」
それだけ言って、直人は続けた。
「敵を倒す仕事には向いてません。それははっきり言います」
玲奈は、鼻の奥が痛くなるのをこらえた。
こらえながら、思っていたのと違う言葉が出た。
「……なんですか、それ。慰めてます?」
「いえ」
直人は書類を揃えながら言った。
「人手が、足りてないだけです」
玲奈は、思わず笑いそうになった。
笑いそうになった自分に、いちばん驚いた。
「人を帰す仕事に、あなたより向いてる人を、俺は見たことがない」
◇
しばらく、蛍光灯の音だけがしていた。
「……その仕事って、なんですか」
直人は、机の端に伏せてあった一枚を裏返した。
印字されていたのは、聞いたこともない部署の名前だった。
――ダンジョン救難管制部(欠員三名)
「救難管制は、戦う仕事じゃありません」
直人は書類の縁を指でそろえながら言った。
「中にいる人を見て、誰をどこから、どの順番で帰すか決める仕事です」
玲奈は、その一行を見ていた。
三年間、自分がやっていたことに、名前がついていた。
「今年だけで三件」
直人が言った。
「十一人、まだ戻ってきてません」




