第53話
「西田くん」
「ん?」
虫除け用にと準備万端の彼女は、レモンの香りがするオイルを俺の腕に塗りながら言った。
「就活の準備で疲れてたりする?」
俺が緊張しているせいか、彼女はそれを疲労しているからと捉えたらしい。
「いや・・・準備はそれなりに進んでるよ。疲れてはないし、大丈夫。」
「そっか。頑張ってるのにタイミング悪い時に予定入れちゃったかなぁと思って。」
「そんな・・・気ぃ遣わなくて平気だよ。色々焦る気持ちがあるのは事実だけど。」
「ふふ、そうだね。でもまだそこまで焦る程の時期じゃないし、西田くんなら大丈夫だよ。」
「ふ・・・そ?別に俺普通なんだよ?特化型じゃないから、向いてること探さないとなぁって。」
「探せるし見つかるよ。」
当然のように言う彼女に、苦笑いを返した。
「なんで~?」
「ん~・・・女の勘?」
そう言ってまた可愛く微笑む彼女が愛おしくて、目の前にいてくれることが嬉しくて、ふわふわな髪の毛に触れた。
目に入る耳飾りが揺れて、貝殻を模したそれを見て、ふと彼女を頭からつま先まで見下ろす。
「どうしたの?」
「・・・いや・・・もしかして佐伯さんさ・・・今日の格好・・・人魚をイメージしてたりする?」
ヒラヒラと金魚の尾びれのように風に揺れるスカートが、よりイメージを強くしていた。
「ふふ・・・気付いた?実はそうなの。」
彼女は得意気に微笑んで、綺麗なスカートをつまんだ。
「そもそもこの服が、マーメイドワンピースっていう種類なの。」
「へぇ!そうなんだ・・・ファッションに疎すぎて気付くのだいぶ遅いね俺・・・」
「うふふ、別にいいんだよ。だって自分から『人魚みたいでしょ?』なんて言えないし・・・。」
「・・・なんで?」
「だって・・・人魚って人を惑わす程絶世の美女なんだよ。後・・・誘惑して男の人を食べちゃうって設定だし・・・。」
食べられたいですけど?
と、思わず脳内で返答したけど、口には出なかった大丈夫。
「美女なのは間違いないじゃん。髪の毛も巻いててふわふわしてるから、かなりそれっぽいよね。」
二人きりだからか、だいぶ口が回るようになった俺に、彼女は視線を泳がせた。
「・・・今日の西田くんなんかいつもと違うねぇ・・・。」
「え、俺のファッションダサい?」
「ふふ♪そんなこと思ってないから。」
「・・・・見たことないっていう理由で誘ったけど、花火大会付き合ってくれてありがとね。」
礼を述べると彼女はまた、今日何度か見せていた、切ないような寂しいような誤魔化す笑みを浮かべる。
「・・・佐伯さんの話を聞きたいよ。」
「・・・え?」
「今何考えてんのかなぁって・・・」
彼女はわずかに眉をしかめて、今度は申し訳なさそうに視線を落とした。
遠くの方で花火を待つ人たちのざわめきと、聞き取れないアナウンスの声がする。
「・・・・去年ね?・・・・薫くんとお祭りに行って、それから大きな花火も一緒に見たの。薫くんも初めて見たって・・・私ね・・・・」
佐伯さんは肩にかけた鞄の紐を、ぎゅっと握りしめて、人が溢れる遠くを見た。
そしてまるで絵本のおとぎ話を読み始めるように、静かに口を開いた。
「あんなに誰かを好きになったの、産まれて初めてだった。・・・薫くんのために生きていきたいって思ったの。彼が寂しいと思うことも、つらいと思うことも、私が全部消してあげたいと思ってた。彼が私を女の子扱いして、護ろうとしてくれる男の子である薫くんを・・・私は押し付けちゃってたの。彼は彼でしかないのに、私は薫くんに『私の好きな人』っていう役割を押し付けて、気を遣わせちゃって・・・。だから振られちゃったの。」
そこまで話すと佐伯さんはまた、申し訳なさそうに俺の手をそっと取った。
「ごめんね?私の懺悔を聞きたいわけじゃないよね。」
「・・・そんなことないよ。全部だよ。・・・俺はさ・・・佐伯さんと俺はちょっと似てるとこあるなぁっていうの、しっくりくるくらい分かった気がする。」
答えを待つように見つめ返す彼女の茶色い綺麗な目が、より光を放ったと思うと、待ちわびた空に大輪が咲いた。
弾け飛ぶ火薬の音が、耳を貫くように響いて、思わず二人して言葉もなく眺めた。
歓声が遠くで聞こえる。何発も打ちあがる花火は、夜空を覆う傘みたいに色が重なった。
握った片方の手に力を込めて、佐伯さんの横顔を見ると、ポロっと一粒涙がこぼれたところだった。
圧倒される美しさが、彼女の中にある記憶を蘇らせていた。
身長差のある彼女の耳元に腰を折って、聞こえるように口を持って行った。
「佐伯さん、叶わなかった相手を何度想ってもいいから、俺の話もついでに聞いてくれる?」
彼女はさっと涙を拭って、聞き返すように笑みを向けた。
体を離して、夏の夜独特の生ぬるい空気を、肺一杯に吸い込む。
「・・・好きだよ。楽しそうにしてる佐伯さんも、思い出して寂しそうにしてる佐伯さんも、全部。」
彼女は俺の口元の動きと言葉を照らし合わせているのか、困惑したように俺の服を掴んで引いた。
耳元に届くように背伸びする彼女の、「なんて言ったの?」という声が聞こえて、そのまま抱きしめるようにキスした。
驚いてビクっと体を震わせた彼女から、唇を離して彼女の肩に顔をうずめた。
「俺の彼女になって。」
抱きしめて見えない彼女の表情が、心音から伝わった。
そのうち弾けた音がパラパラと落ちていって、派手に照らす花火が収まってそっと腕を解く。
「佐伯さんがどれ程大事に薫くんを好きだったかわかったよ。俺だって、本当に好きだった相手を、過ごした時間を、簡単に忘れたり出来ない。でもそれでも一緒にいたいんだ。大事にしていたいって気持ちを、わかってくれる佐伯さんだから。」
みるみるうちに彼女の瞳が涙で満たされて、ボロボロこぼれ落ちていく。
「西田くん・・・大好き・・・・。ずっと言っていいのか迷ってた・・・・ずっと薫くんを忘れられない自分がいるから・・・。」
「・・・忘れられなくてもいいよ。・・・でもとりあえず・・・花火を前にキスした思い出は、上書きしといてもらっていい?」
恥ずかしくなりながら、取り出したハンカチを差し出した。
涙を拭いた彼女は、またキスを強請るように俺の腕を引いた。
今更気付いたけど、俺と佐伯さんじゃ20センチ以上も身長差がある。
小さく思える彼女は、別にそこまで小さいわけじゃないけど、何度もキスして重ねる度に、背伸びさせるのが少し申し訳なかった。
そのうち盛り上がってムラムラする前に体を離して、照れくさそうにニコニコする彼女を見ると、釣られてニヤついてしまう。
「あ~・・・花火がメインで来たけどさ・・・ずっとなんて告白しようかなって考えてたから、一瞬だったなぁ・・・。」
「ふふ、そっか・・・。」
「でもまぁ・・・綺麗だったし、体験は出来たからいいかな。人が多すぎて屋台がある所は降りるの勇気いるけど・・・どうする?」
佐伯さんは繋いだ手をまたぎゅっと絡めて引いた。
「そうだね、屋台はまたの機会にして・・・どっか他の所に晩御飯食べに行こ?」
「そうだね、行こっか。」
また二人で坂道を降りて、騒がしい空気を傍らに、今度は月明かりが溶け出した方へ歩いた。
「佐伯さん何食べたい?どうせうちまで送っていくし・・・佐伯さんの家方面でご飯屋さん探そっか。」
スマホを取り出して画面を開いていると、静寂の中彼女はポツリと言った。
「・・・西田くん」
「ん?」
「私の下の名前覚えてる?」
「・・・え、うん、もちろん。・・・りさちゃんでしょ?」
「うん・・・うふふ♡」
「・・・どういう漢字書くの?」
「カタカナだよ。」
「あ、そうなんだ。それは知らなかったかも。」
「・・・西田くんは、名前で呼ばれるの嫌いなんだよね?」
「あ~・・・まぁ・・・。翔から聞いた?」
「そうだね、たぶん。」
「・・・でも、好きな人に呼ばれるのは嬉しいよ。からかわれてなければ。」
「そっか。・・・私翔くんも周りのゼミの人も、西田くんの名前知らなくて聞いたことなかったんだけど、美羽と翔くんが付き合う前に、桐谷くんも含めて4人で出かけたことあって・・・その時に桐谷くんから初めて名前聞いたの。」
「あぁ・・・なるほど・・・。当の桐谷がどのタイミングで俺の名前知ったのかわかんないけどね・・・。」
「ふふ・・・。私は円香くんって呼んでもいい?」
「・・・う・・・いいよ?」
「ふふ、何でそんなに気まずそうなの?いい名前だよ?」
「いや・・・佐伯さんが呼ぶとすっごい上品な名前に聞こえるなぁって思って、むず痒くて・・・。」
またふんわり優しい笑顔を返す彼女と、大事に過ごしていきたいと思った。
思えば初めて人をちゃんと好きになったのは高校生の時だ。
けど相手の女の子は、俺をセフレとしてしか考えておらず、『イケメンは必ず浮気するから付き合いたくない』と言われ、あっさり振られた。
次に好きになったのは、大学1年の夏。当時一人暮らししていたうちの近所のカフェで、彼氏に振られたショックで泣いていた会社員の女性に声をかけた。
近所のコンビニでよく見かける人だと覚えていたので、心配して声をかけたけど、何となく波長が合ってデートするようになり、付き合うことになった。
それから同棲することになって、1年半付き合った。
仕事で毎晩遅くに帰るようになった彼女に、寂しい気持ちとモヤモヤする気持ちが募って、正直に我儘を言うことも出来ず、自分の気持ちだけが冷めていった。
結局自分勝手に別れを告げて、合鍵を返すことになったのが、今年の春の出来事。
「俺の恋愛遍歴なんてそんなもんだよ~。」
手ごろなレストランで食事を終えて、佐伯さんと手を繋いで夜道を歩いた。
「そうなんだ。じゃあ・・・お付き合いした人は、前の人だけなんだね。」
「そうだね。少ないなぁって思った?」
「ん~・・・どうなんだろ・・・。でもいい加減な付き合いしてた時期がないってことでしょ?多かったらどうとか少なかったらどうってこともないし・・・西田くん浮気するタイプにも見えないし。」
「ふふ・・・浮気はねぇ、いが~い!って言われちゃうけど・・・したことないんだよ。」
おどけて言うと、彼女はまた靨を見せて笑ってくれた。




