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玉宮家で一人暮らしをしている女主人は、名を小夜さんといった。八十を超えた年齢にしてはかくしゃくとした印象を受けるが、眼光は紅家のおことさん動揺、怖いくらいに鋭い人だった。
この時玉宮家には、六十代と思しき男性が同席していた。午前中僕たちが来訪した時には畑に出て留守だったそうで、名を津宮さんといった。すでにお家にお邪魔していた三神さん、坂東さんについて玄関に立つと、その津宮さんが出て来て奥へと案内してくれたのだ。
リビングでは玉宮さんがロッキングチェアに深く腰掛けていたが、どこか落ち着かない様子で前後に揺れていた。一度家の奥に引っ込んで戻って来た津宮さんが、「世話焼き人という程でもないがね」と小声で弁明しつつ、僕たちにお茶を出してくれた。
「死んだ母親ほど年は離れておらんが、まあ、近場に住む親戚筋としては、助け合わんとな。不便な村だから」
照れるでもなく真顔でそう言う津宮さんは、とても実直で優しい人に思えた。
「悪いね」
と、玉宮さんが皆に言った。入室した瞬間から気付いてはいた事だが、リビングの中央に置かれた大きなローテーブルの上に、所せましと手料理が並んでいる。そのどれもが食べ掛けであり、一見僕達は食事中にお邪魔してしまったかのように見える。だが後に聞いた話だと、一日中この状態だそうだ。どうやら見た目通りの、食欲が旺盛な方であるらしかった。
一人椅子に腰かけている玉宮小夜さんを中心に、三神さん、坂東さん、秋月さん、めいちゃん、津宮さん、そして辺見先輩と僕、計八人が顔を会わせた。
「まず、めいを呼んだ理由をきかせてもらえるかな」
努めて冷静な口調ではあったが、秋月さんの顔にも声にも、怒りが浮かんでいた。
「まずは順序だてて話をせんか」
三神さんが提案するも、
「帰ってもいいんだよ」
と秋月さんは即答する。何より先に、大事な妹巻き込む理由を明言すべきだ。そんな意志がはっきりと感じ取れた。でなければこのまま帰るぞ…。
「私が呼んだのだ」
そう答えたのは玉宮さんだった。
「それは聞いた。理由はなんなんです?」
秋月さんの問いに対して、しかし玉宮さんは「ううん」と言い淀んだ。とそこへ、
「意地悪しちゃ駄目だよ。お姉ちゃん、理由なんて本当は分かってるでしょ?」
さらりと言ってのけたのは、話の中心人物である、めいちゃん本人だった。
秋月さんは図星を突かれたのか、熱のこもった吐息を鼻から逃がし、正座した腿の上で両拳をきつく握りしめた。
この場には事態を深く理解せん者もおる。整理しよう。
そう言って、三神さんが話を始めた。
事の起こりは、紅家から玉宮家へ入った一本の電話だという。電話を掛けたのは紅家の隣に住まう水中さんだったが、受けたのは玉宮さん本人だったそうだ。
カナメ様が、御隠れになられた。
電話の内容はそんな意味だったが、水中さんはとにかく狼狽え取り乱し、もの凄い剣幕だったそうだ。
「小夜さん、それはいつの話だったね?」
尋ねる三神さんに、玉宮さんは視線を宙に漂わせた後、
「今年の、九月だ」
そうはっきりと答えた。
御隠れになられたとは、一般的に目上の人が死んだ事を意味する。紅家にとってカナメ石がどれほど大切な存在であるかは、その敬いの気持ちからも推測できる。だが問題なのは、意味する言葉の本質の方だ。
「井戸の封印が解けた。そういう意味ですか?」
事の重大さをよく分かっていない僕の率直な質問に、波打つような唸り声が上がった。声なき声とでもいうのか、実際には誰も意味のある言葉を発さなかったのだが、ウーンとかンンーといった地鳴りのような呻き声がそこここで聞こえた。
三神さんは言う。
「紅家が血相を変えて玉宮家に電話をよこしたということは、当然当主であるおことさんにも何が起きたのか理解出来ていなかったと思われる。封印の問題もそうだが、もしも本当にカナメ石から霊力が消えてしまったのならば、村の風習や伝統という枠を大幅に逸脱した、最も重大な事件だ」
僕は頷いて、玉宮さんを見た。明らかに怒っている様子だったが、それがどうやら僕にではなく、紅家に対してであるらしかった。
「おことさんとは話をしたかね?」
三神さんの問いに、
「いや」と玉宮さんは首を横に振る。「もう何年も口を利いていない」
そうなのか…? それは、何故だろうか。
訝しむ僕と辺見先輩の空気を察したのか、
「仲が悪いわけじゃない」
と津宮さんが教えてくれた。
「奥の家に行ったのなら分かると思うが、おことさんはもうあまり活発に動き回れないんだ。水中さんが身の回りの世話を焼いているんだが、私がこの家に来てやっている以上の事を、彼女は献身的に行っているよ。小夜さんは御覧の通り元気だが、ほとんどの用事は彼女と、向こうの水中さんが連絡を取り合っている状態なんだ」
なるほど。僕が頭を下げて礼を述べると、三神さんがこう続けた。
「お互いの意志疎通がうまく取れていなかったとしたら、まあ当然ながらおことさんは思うだろうねえ。村の御守りである玉宮は一体何をしていたのか、と」
御守りの家としての、責任を問われたわけだ。玉宮さんの不機嫌さは、その辺りから来るのだろう。
取り繕うように、再び津宮さんが間に入った。
「小夜さんは一日中この椅子に座って、村の外を睨んでいるんだ。休んでるわけでも遊んでるわけでもない。彼女にしか出来ない、村を守るための大切な仕事だ。見てわかるとおり、この椅子は村の外、つまりはあんたらが住んでる街の方角を向いているんだ」
津宮さんは秋月さんとめいちゃんを見ながらそう言ったが、それはまるで彼女ら街の人間が村にとっての敵であるかのような言い方だった。めいちゃんは特になんの反応も示さなかったが、秋月さんは形の良い唇を噛んでそっぽを向いた。
「村の外から侵入してくるものを、小夜さんは決して見逃さない。が、その彼女の目をもってしても犯人を取り逃がしてしまった」
「犯人?」
三神さんが口にした表現に、秋月さんの鋭い視線が飛ぶ。彼女の眼差しを受けとめながら、三神さんは正直に答えた。
「小夜さんが受けたという、九月の電話でもそうだったらしいがね。先程も改めてこう言われたよ。『若い女がこの村へ来て、カナメ様の御力を奪い去った』と」
それを聞いた秋月さんの唇が音もなく開き、呆気に取られたような目で三神さんを見つめ返した。
「…はあ?」
と、勝気なところのある秋月さんらしいと言えば、らしい。しかし知的で温かみのある彼女の口から発せられたにしては、いささか乱暴にも聞こえた。だがその表情を見る限り、到底理解出来ない、そんな様子だった。僕と辺見先輩は静かに顔を伏せると、誰にも自分たちの顔を見られないように努めた。
するとそこへ坂東さんが、
「おいおいおいおい…」
と、呆れた口調でそう言う。僕にはそれが三神さんに対する、「あんたがそれを言うかねえ」というある種の同情をはらんでいるように聞こえた。
津宮さんの視線が玉宮さんを見やり、玉宮さんが真剣な眼差しで頷き返した。
「しかし正直に言えば、ワシはこの言葉の意味する所を計りかねておる」
その場にいた全員の目が、そう言った三神さんを見つめた。
「ともかくここで一度、これだけは断言しておこうか。お前さんらが疑うようなことは一切起きていない。ワシの娘は、犯人などでは決してない」