[32]
この男の命が、奪われたのだな…。
鹿目の表情が明るく朗らかであるほど、その先を知っている僕らの胸は傷んだ。
そしてついに、その瞬間が訪れる。
鹿目はたたらを踏んで後ずさり、両手を前に突き出して首を振った。その顔は驚きと恐怖に引き攣っている。
玉宮さんは耐えきれない様子で目を閉じ、祈るように両手を合わせた。
鹿目はその場で四つん這いになり、咳込むように何度も体を震わせる。やがて右腕を折り、左腕を折り、膝が折れ、亀のように体を丸く縮こまらせていく。
ああ、大神鹿目が、カナメ石となる瞬間が訪れる…。
誰もがそう思った、その時だった。
不意に鹿目が顔を上げ、上体を起こし、右膝を立てたのだ。
「…来るぞ」
そう言ったのは、三神さんだ。
…来る?
「ああ…」
秋月さんが不安にあえぐような声を漏らす。
そうだった。
鹿目は死ぬ間際、村中の人間を呪い殺す程の霊力を放出して戦ったのだ。何百年も前の光景だと分かっていても、僕たちの間に戦慄が走る。
これは現実ではない。そう分かっていても、どうしようもなく怖かった。
「…嫌な予感がする」
辺見先輩が言った。
水中さんと津宮さんがぎょっとして僕らを見やる。
「…聞こえるよ。何かが振動しているような音だよ」
めいちゃんまでもがそう言う。
「まさか、おい、まさか」
坂東さんが真っ青な顔で三神さんと鹿目を交互に睨む。「今ここでもっかい呪いを振りまくなんてことないよな!?」
三神さんはゆっくりと頭を振る。
「ワシにもわからん。少なくとも、おことさん一人分の封印は解けているんだ。小夜さんとて万全じゃあない。何が起こっても不思議ではない」
「お、おま、そんなこと言ったって」
「水中さんたちは早い所、一旦この家を出なさい。ここにいても良いことはない」
三神さんの急な提案に、名を呼ばれた二人の視線が玉宮さんを捉えた。
「わ、私は行かない」
頭を振る津宮さんの目の前で突如鹿目が立ち上がり、揃って一同が後ずさる。
「行きなさい」
そう言った玉宮さんの声はいまだ涙に震えており、先んじて部屋を飛び出した水中さんを追うように、やがて津宮さんも顔を伏せたまま部屋を出た。
三神さんが言う。
「バンビ。こちらの二人と共にお前も行け。水中さんのことは壱岐くんに任せる。ともかくこの二人を安全な場所へ。村の外へ」
そう言った三神さんの言葉に、「行きませんよ」、「行くわけないじゃないですか」、僕と辺見先輩は口を揃えた。むろん、怖くないわけがない。だが怖さよりも、後悔するほうが嫌なのだ。それはもう、一度この村を去った段階で感じていたことだ。たとえ三神さんを残して上手く自分達だけ難を逃れたとしても、きっと無駄なのだ。友人を置いて逃げた現実に、夢の中まで追いかけられるだろう。
「お前さんたちも、なかなかどうして…」
心底愉快そうに肩を揺すって笑い、三神さんは真剣な目で鹿目を見据えた。
「ま、あの様子じゃあ放っておいても逃亡はしないだろ。逃げた所で罪が重くなるだけだし、どうせすぐに捕まる」
そう言った坂東さんの言葉は、翻せば「自分もここに残る」、そういう意味にとれた。
三神さんは鼻から溜息を逃がして頷くと、そうさな、と囁くような声で呟いた。
「ではひとつ、抗ってみるとするか」
三神さんは独り言のようにそう言うと、鹿目の背後に仁王立ちで陣取った。
「おことさん。この子を頼める?」
秋月さんはそう言って、めいちゃんを玉宮さんの背後へと移動させた。めいちゃんは抵抗する素振りを見せたが、秋月さんの浮かべた表情には逆らえなかった。
玉宮さんとて、秋月さんが単なる村の住人なら鼻で笑っていなしただろう。だが強い眼差しの秋月さんを見つめ返した玉宮さんの目にもまた、確信に似た感情が浮かんでいた。
「託せるとしたら、お前意外いないな」
諦めに似た口調でそう言った玉宮さんに頷き返し、秋月さんが鹿目の正面に立った。
僕と辺見先輩は鹿目の右側に並んで立ち、その反対側、鹿目の左側には坂東さんが目を見開いて立っている。事の重大さが理解できるだけに、冷静ではいられないのだろう。決して彼が臆病者なのではない。きっと僕と辺見先輩が、無鉄砲なだけなのだ。
鹿目を中心にして、四方を僕たちでとり囲む配置となった。
皮肉なことに、お守りの家を代々継いで来た玉宮さんは、今は僕らの外側に立っている。
ゆっくりとではあったが、見る間に鹿目の表情が歪んでいくのが分かった。
予期せぬ姉妹の裏切りと暴走に、彼の心が食い破られようとしているのだ。
「前もって言っておくッ」
と三神さんが声を張り上げ、緊張が漲る。
「鹿目の力は辺見嬢や西荻ののそれとは、根本的に性質が違う。波動のようなものは取んで来ない。だが、心せよ。この御大の力は『腐食』であったと聞く。つまりは、対象物をすべからく腐らせるのだ!」
坂東さんが首をぐるりと回し、
「どういう原理だよ」
と呻いた。
「お前が言うな。異能の力など、複雑極まる因果の果てに存在する幽玄の気まぐれだろうがよ。そら、お前の額の眼だってそうじゃないか」
坂東さんは幽眼の辺りを手で押さえて口を尖らせた。
「新開の!危なくなったら迷わず逃げよ、お前さんは一人じゃないことを忘れるなよ」
「分かりました」
三神さんの忠告に僕は頷き、邪魔にならないよう辺見先輩と共に一歩後退した。
「ここにいる人間の力を総動員して鹿目の力をこの場で抑え込む。再びカナメ石に戻すのだ。他に方法はない」
三神さんの言葉に次いで、玉宮さんが声を上げた。
「私が一弾目を真上から打つ。あとはお前たちがその上から、なんなりと抑え込んでくれ」
玉宮さんの申し出に、三神さんたちはそれぞれ黙って頷いた。
この場にいる人間で、例え一度でも鹿目の力を封じた事があるのは玉宮さんだけだ。三神さんの張った結界は、鹿目の移動を僅かな間押し返したに過ぎない。対象物を腐食させるという呪いの力を封じる方法など、僕には見当もつかなかった。
「さぁーてぇー」
聞いた事が無いほど低く凄みのある声を出し、三神さんが合掌する。
「先生、一応聞いておきたいんだけど」
と秋月さんが言う。
「先生の娘が絶妙なタイミングで駆け付ける、なんていう奇跡は起きない?」
その質問に、思わず僕も期待に目を輝かせて三神さんを見やった。
しかし三神さんは強張った顔で鹿目を睨み付けたまま、こう答えた。
「今、日本におらん」
坂東さんが強く舌打ちし、僕と辺見先輩は顔を見合わせた。
これはいよいよだ。
これはいよいよ、僕たちは死ぬかもしれないぞ…。




