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「しもつげむら」   作者: 新開水留
13/37

[13]

「めい!何をやってるんだ、こっちへ来い!」

 叫ぶ秋月さんの声が届いたのか、めいちゃんがくるりとこちらへ顔を向けた。

 だが見開いている彼女の目からは黒目が消え失せ、白い眼球だけがギョロギョロと蠢いていた。

 一同が息を呑み、三神さんが解錠して窓を開けようと手に掛けた、その時だった。

「うおっ」

 坂東さんが声を上げ、指をかけていた掃き出し窓から手を離した。

 三神さん、あれ!

 僕の指さす方向に、皆の視線が集中する。

 全身を毛に覆われた、あれはオオツチグモだろうか、優に子供の頭ほどもある巨大な黒蜘蛛である。蜘蛛は裏庭の端より突如現れ出で、ゆっくりとではあったが音もなくめいちゃんの足元へと近づいて行く。三神さんが解錠して掃き出し窓を開ければめいちゃんは反応するだろう。その彼女の反応に、巨大な蜘蛛がどんな行動に出るか分からない。

 僕の視界の隅で、秋月さんが踵を返すのが見えた。おそらく裏庭へ回る気だ。

「小夜さん。あの蜘蛛は、おことさんの?」

 振り返らずに聞く三神さんの問いに、玉宮さんは「そうだ」と答えた。

「だけどおこと姉さんはどこにいる。庭の隅っこにでも倒れてるのかい? 式神が単独で歩き回ることなんて普通は在りえないよ」

 式神…。

 僕の背後から聞こえたその言葉に、僕は初めてこの部屋に足を踏み入れた時のことを思い出した。

 その時、部屋の中には四つの人影が見え、僕らが襖を開けてこの部屋に入った瞬間、何者かが部屋を横切って消えた。あの時の影が、紅おことさんの放った式神だったのだ。

 そうこうする間に、裏庭へ回った秋月さんがめいちゃんに忍び寄る蜘蛛の背後を取った。秋月さんは顔の高さに上げた両手を鉤爪に変え、それだけ見ればまるで素手で掴みかかろうとしているかのようだった。

「合図をしたら窓を開けるんだ、いいね」

 玉宮さんが言いながら、僕と辺見先輩を押し退けて前へ出た。

 坂東さんが窓の側を離れ、三神さんがソロリと鍵を回した。

 ポンポン、グイ。

 玉宮さんが突き出したお腹を手で叩き、空いた方の手で首の下を押した。

「ゲエッ!」

 玉宮さんが喉を詰まらせたような声を上げ、三神さんが勢いよく窓を開いた。

 その瞬間玉宮さんの口からヌラヌラと光沢のある緑色の蛇が飛び出し、裏庭へ走った…!

 人間の腕ほども太さのあるその蛇は一直線に巨大蜘蛛へと向かい、バクリと食らい付くとそのまま奥の雑木林へと突っ込んだ。庭は、照明が照らし出す一部分を除いては完全に夜闇の中だ。二つの式神はまるで忽然と消えたように視界からいなくなった。

 訪れた好機に秋月さんがめいちゃんを抱き抱え、僕達のいる和室へ戻そうと持ち上げた。

 …が、持ち上がらなかった。

 秋月さんは腰を落として全力で持ち上げるも、まだ中学生であるめいちゃんの体は井戸に張り付いたように動かなかった。

「きゃははは」

 めいちゃんがくすぐったそうに笑い声を上げた瞬間、彼女の目に黒目がぐるんと戻って来た。

 めいちゃんは言った。

「三神さん。聞こえないよ。やっぱり何も、聞こえない」

「そ、そうか。めい、分かったから早くその場所を離れるんだ。抵抗するんじゃない」

 三神さんが手を差し伸べてそう言うも、聞こえないのか、めいちゃんは何度も同じ言葉を繰り返した。

「聞こえないなー。やっぱりこのカナメ石はもう、力を失っているのかなあ。うーん、やっぱり聞こえないなあ。おかしいなあ。聞こえなーい」

 秋月さんはしがみつくようにめいちゃんを抱きしめながら、後方へ引っ張る。だが抵抗している素振りもないのに、めいちゃんの身体はビクともしない。それどころか、めいちゃんは秋月さんの存在すら気が付いていないように思えた。

「聞こえないなー。なんにも聞こえないなー…」

 その時、秋月さんはこう言った。

 はっきりと、こう言った。

「やめろ、めい。お前だって分かってるだろ。こいつは石なんかじゃい。石じゃないんだ!」

 そうだ。

 辺見先輩も言っていた。

 村の風習として決まって十月に執り行われる筈の、裏神嘗という儀式。本来行うはずだった今年の十月より以前、カナメ石がその霊力を失うまでは、この石はもっと違うものとして人々に認識されていた筈だった。それは何かと問うた僕に、辺見先輩はこう答えた。

 ヒト、と。

 …まさか、この石は。


「カーミー…」


 めいちゃんの目が再び白く濁り、少女の口から老婆のような声が出た。

「カーミー…」

 老婆のような、ではない。それはまさに、紅おことさんが発する声に違いなかった。

「厄介な奴がぁ、戻ってきよんぞぉぉぉ…」

 紅さんの言葉を、紅さんの声を用いて、めいちゃんが発している…。

 思わず秋月さんが両腕の力を緩めたその時、僕の隣に立っていた辺見先輩が靴も履かずに裏庭へ降りた。そしてそのままめいちゃんの元へ駆け寄ると、大声を上げながらめいちゃんの左肩を掴んだ。


「どーーーーん!」


 弾かれたように、秋月さんがめいちゃんから離れた。

 めいちゃんは勢いよく天空を見上げ、ブハァッ、と何かを吐き出した。

 白い煙のようも見えたそれは瞬く前に夜空へと吸い込まれ、めいちゃんは秋月さんの腕の中に倒れ込んだ。秋月さんは唐突な出来事に茫然とし、めいちゃんを支えそこねてもろとも庭へと倒れ込んだ。




「即身仏だ」

 と、三神さんは答えた。

 僕がぶつけた、カナメ石の正体に関する疑問への回答だ。

 おおよその見当はついていた。しかし実際に目にするのも、その存在を実感する事も初めてだった。

 本来『即身仏』とは仏教における修行、瞑想の果てに絶命してその肉体が仏と成る事を意味するが、この村でのカナメ石は趣が違う。

 この村に言い伝えとして残る、魔物。その魔物を退治すべく村の要請を受けて訪れた霊能者は、くだんの魔物を退けると同時に紅家の裏庭にある井戸に封じこめ、その上に大きな石を乗せて結界を張った…。だがその石とは霊能者自身の肉体であり、彼が命をとして結界を張り続けたままついには昇天し、今日に至る。と、そういう伝承なのだという。

 前提として、人の肉体はいずれ必ず朽ちる。腐食し、やがて骨だけが残る。だから僕たちが目にしたような、黒く大きな塊として存在し続けることなど普通は有り得ないのだ。だが、その秘密が裏神嘗・歪神嘗と呼ばれる催事にあるのだ、と三神さんは教えてくれた。

 めいちゃんを抱えて家の中に戻った僕たちは、玄関で蹲ったままだった津宮さんと、意識を失っている水中さんを助け起こして全員で隣室へと移動した。そこは普段使用されていない、仏壇が備えてあるだけの和室だった。

 僕を含む男性四人で力を合わせ、水中さんとめいちゃんを並んで寝かせた。意識のない人間の体は予想を超えてはるかに重く、女性二人を運ぶだけでも汗がにじむ程だった。

 ところが、一息ついたのもつかの間、今度は玉宮さんが裏庭へ出ると言い出した。

「式神が帰って来ない。おこと姉さんも気にかかる。探してくる」

 むろん、三神さんは危険だと言って止めたが、玉宮さんが聞き入れるはずもなかった。彼女にはお守りの家としてのプライドと、当然紅おことさんを心配する気持ちも強くあったからだ。

「チョウジ。来い」

 玉宮さんは坂東さんを顎で誘い、「うへー」と嫌そうな顔をしながらも坂東さんは素直に従った。

 坂東さんは部屋を出る時、辺見先輩の側を通りすぎながら小さく拍手をしてみせた。先程の、めいちゃんを救った辺見先輩の『お祓い』に対してであろう。坂東さんはあれを、三神幻子の受け売りだとは知らないのだ。

 秋月さんが辺見先輩の前に立って、深々と頭を下げた。

「申し訳ない。うろたえちゃったよ、助かった。ありがとうね」

 苦笑しながら詫びる彼女に頭を振って見せ、

「とんでもないです。軽はずみな行動をとってしまって、私こそすみませんでした」

 と先輩は謝った。

 僕は三神さんの背後に歩み寄り、カナメ石の正体を聞いた。

「やはり、あの石は」

「うむ、即身仏だ。ここへ来たときに、本当はお前さんらに見せることをためらう気持ちもないではなかったが、新開君や辺見嬢であれば、あそこに寝ているめいに頼らずとも、近い事が出来ると踏んだのだ」

「つまり、あのカナメ石になんらかの霊力を感じたり、あるいはカナメという霊能者自身の幽体を見ることが出来たり、と?」

「見えたかね?」

「いえ。不思議な気配のする石だとは思います。だけど僕に霊能者の幽霊は見えませんでしたし、それは辺見先輩も同じだと思います」

「…ワシはもともとカナメ石が即身仏であることを知っていたがゆえに、余計な先入観を抱いてしまう。だが、お前さんたち二人からあれが『大きな石』に見えると言われて、内心ホッとした部分もあるのだ」

「ホッとしたって。でも、霊力が消えている。結界として機能していないっていうことなんですよね?」

「そういうわけではない。そういう事ではないのだ」

 僕はゆらめく三神さんの両目を見据えて、混乱を抱えたまま、彼の瞳の奥にある真実に思いを馳せた。だが僕の目に見える事象には霞がかかっていて、明瞭なシルエットがどうしても浮かび上がってはこないのだ。

 誰もが少しずつ何かを隠している。あるいは、誰もが少しずつ、噓をついている…そんな風に思えてならなかった。

 三神さんは言う。

「めいは、死人の声を聞く。霊体という儚く頼りない姿よりも確実に、この世に彷徨い出た魂の声を聞く事が出来る。いわゆる思念を受け取ることができるのだ。だからこそ連れてきた。聞こえないことを確認しに来たのだ」


 聞こえないことを、確認しにきた?


「だがその一方で、聞こえてはいけないものを、ワシらは耳にしたのだ」

 三神さんがそう言って唇を噛んだ瞬間、僕の背中をおぞましく駆け上がるものがあった。 

 その悪寒がどこから来るもなのかを考えた時、僕は隣室のさらに向こう側、裏庭の井戸を見つめていた。

「ということは、つまり…」

 三神さんは、こう言った。



「おことさんはもう、…この世にはおるまい」


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