[12]
玉宮家から借りて来た懐中電灯が、三神さんの手元から光線を走らせた。
地面に落ちた丸い光がツイーと持ち上がり、紅家の玄関を照らす。
と、スライド式の玄関戸が少しだけ開いているのが目に入った。
「ち」
と誰かが舌打ちし、紅家に到着した僕たち一団の中から坂東さんが外れる気配がした。暗くてよく分からないが、携帯電話を開く音が聞こえた。「はい。…はい。ええ、発動したかもしれません」
くぐもった声ではあったが、坂東さん確かに「発動」という言葉を口にした。
僕はギョッとして紅家の玄関を見やった。発動とは何を意味するのか。
…封印が解けたのか…?
辺見先輩が僕の背後にぴたりと張り付いて、耳元で言った。「誰かいるよ」
「下がりなさい」
先頭に立っていた三神さんが低く言い、僕たちを守るように腕を上げた。そして、
「んー…?」
戻ってきた坂東さんが目を凝らし、眼鏡をくいっと持ち上げて玄関を睨んだ。
少しだけ開いた玄関戸に、人間の指が三本掛かっていた。
見る間に蠢くその指が四本になり、最後に親指が見えた。
それは人間の左手であり、戸をスライドさせるべく添えられているのだ。
しかし戸は開かず、代わりに少しだけ開いた隙間からズイと人が飛び出して来た。
一同はギョッとするも、
「水中さん!」
そう反射的に叫んだ津宮さんの声に、水中さんの方が驚いたように固まり、立ち止まった。しかし水中さんはその場でフラフラとよろけ、右を見、左を見、どこを向いてよいか分からぬ様子で震えていた。彼女の目は、固く閉ざされていた。
三神さんが側に歩み寄って彼女の肩を掴んだ。
「三神だ、聞こえるかね、水中さんッ」
水中さんは黙ったまま頭を横に振る。
「どうした、目を開けなさい。開けるんだ、水中さん!」
尚も水中さんは首を振った。後ろで結っていた髪が解けてバサバサと広がった。
三神さんは彼女の目を片手で覆うと、
「大丈夫だ、ここには我々しかおらん。ゆっくりと目をあけてごらんなさい」
そう、静かに語り掛けた。
水中さんはようやく足踏みのような動きをやめ、顎をガクガクと震わせながら、三神さんの手の中で目を開いた。…開いたのだと思う。
しかし僕たちがそれを確認する前に、水中さんは気を付けの姿勢のままとてつもない絶叫を上げた。高音と低音が入り混じった、断末魔のような悲鳴だった。
三神さんがたたらを踏んで後退する。
めいちゃんが青ざめて両耳を塞いだ。
秋月さんは慌ててめいちゃんの体を後ろから抱きしめると、水中さんに背を向けた。
水中さんは僕たちの見ている目の前で、大きく首をのけぞらせて硬直し、やがて白目を剥いて口端に泡を浮かべた。誰もが声を失う中、立っていられなくなった水中さんの体を三神さんと坂東さんが抱きとめ、二人して家の中へと運び入れた。
玄関には灯りがなく、僕が手探りでスイッチを探して点灯する。
「あ」
家の奥を指さしながら辺見先輩が声を上げた。しかしそこに見えたのは、ダイニングキッチンへと続くガラス戸だけだった。
「何を見たッ?」
三神さんの問いに、先輩は真正面を見つめたままこう答えた。
…蜘蛛、と。
ガラス戸も、襖も障子も全てが閉ざされていた。
水中さんがそこを通って家の外まで出た筈だが、誰かが締めたのだろうか。しかし家の中に漂う空気は、人の気配すら感じさせぬ程に整然とした静けさに満ちていた。
玄関の上がり框に足をかけ、三神さんと坂東さんが耳を澄ませている。坂東さんは右耳を家の奥へ向け、眉間に皺を寄せて目を閉じた。
「聞こえるか」
という三神さんの問いに、坂東さんは頭を振った。
「めい?」
尚も聞く三神さんに、今度はめいちゃんが首を振った。
「聞こえない」
行こう。
三神さんは言い、背後に控えていた僕たちに目配せした。意識の無い水中さんを津宮さんに任せて、僕たちは息を殺して紅家に足を踏み入れた。
どの部屋も明かりがついておらず、その都度僕が電灯の紐を引っ張って付ける役目だった。ダイニングを通り過ぎて隣の和室に入り、閉ざされた襖の前で三神さんが奥の部屋へと声を掛けた。
「おことさん。おるかね。三神だ」
しかし返事はなく、襖一枚隔てただけの隣室からは、まるで人の気配が感じられない。
僕の身体を押し退けて、三神さんの隣に玉宮さんが立った。
「おこと姉さん。私だ、小夜だよ」
年長者への敬いを感じる口調ではあったものの、その顔は警戒を解いていないとても険しい表情だった。
突然、玄関の方でギャアッと悲鳴が上がった。
一同の後方に控えていた秋月さんが玄関へと駆け戻り、三神さんがその後を追った。
見ると津宮さんが血相を変えてガタガタを身を震わせながら、下駄箱に背を押し付けたまま尻もちをついていた。
「あッ!」
追いついた辺見先輩が口を押えて声を上げる。
津宮さんの目の前には水中さんが仰向けに倒れており、彼女の身体の上をサッと大きな影が横切った。影は僅かに開いていた玄関戸から外へと飛び出し姿を消したが、辺見先輩同様、僕にもそれが蜘蛛だと分かった。だがその蜘蛛は、尋常ではない大きさをしていた。
「なんなんだ今のは…」
思わずそう呻く僕の隣で、
「…めい?」
秋月さんが視線を巡らせた。
めいちゃんが、いない。
「めい!」
秋月さんはダイニングを駆け抜けて和室に戻った。だがそこにも、めいちゃんの姿はなかった。
三神さんが問答無用で襖を開いた。
雪崩れ込むように僕たちは隣の部屋に足を踏み入れたが、それでもめいちゃんは見当たらない。
めいッ。めいッ!
秋月さんの悲痛な叫びが響く中、三神さんと坂東さんが裏庭と和室を隔てる掃き出し窓の前に立った。二人は両端から障子に手をかけ、頷くと同時に左右へ開いた。室内からでは分からなかったが、防犯・あるいは野生動物を警戒してか、裏庭を照らす照明器具が軒下に設置されているようだった。
…いた。
めいちゃんは一人、外の裏庭に立っている。丁度軒下の照明が照らす辺りだ。井戸の上に鎮座するカナメ石に寄り添うように立ち、右耳を石に押し当てていた。彼女の顔は僕たちとは反対側を向いており、表情から様子を伺い知れない事が恐怖心を煽った。
いつのまに外へ出たのだろう。掃き出し窓には、鍵がかけられたままだというのに…。




