肆
ふたたび蝋燭の火が揺れた。
今度はひときわ大きく揺らめき炎は消えてしまう。月明かりの本堂で、笈助の声が朗々と響く。
「武臣よ、おぬしは死んだのだ。一月も前に高熱に浮かされてな」
空良が行燈の小皿に油を注ぎ火を点ける。笈助は酷く悲しげな表情をしていた。あ然としていた武臣は冷笑して、
「戯れ言を申すな」
「戯れ言ならば良い、とおれも願っているが生憎そうではない。おぬしも気づいているはずだ。見たであろう」
「なんだ。私が何を見たというのだ」
「小梅が抱いていた墓石に、己の名が彫られていたのを」
ばかな――。
嘲ろうとするが声が震えて意味をなさない。死んだ? 私が? まさか。ありえぬ。
「おれが見舞ったときは既に手遅れだった……。武臣がこの寺を訪ねて来たときは驚いたよ。空良はそういったものを見ることが出来るが、おれはさっぱりだからな。おぬしとはよほどの縁があるのだな」
「信じられぬ……とても信じられぬ」
取り乱したように唸る武臣を、慰めるよう笈助は諭す。
「小梅はそなたの死をひどく悼み、廃人のようになってしまった。墓石に縋りついていたのも、湿疹の痒みを慰めることもあっただろうが、おぬしを愛しく想う故から始まったことだろう。心と身体の均衡を崩し、ついには悲しい妖になってしまった」
かつての小梅の哀れな姿を思い出し、武臣は涙が零れそうになる。
同時に、狂う小梅をなぜ止めることが出来なかったのか。あまりにも無力であった己をようやく理解した。
「私が話しかけても応えなかったのは」
「皮肉なものだな、武臣」笈助はうなだれて、「今のお前の姿と言葉は、ここにいるおれと空良にしか見ることも聞くことも出来ぬようだ」
「なんということだ」
武臣はゆっくりと思考をめぐらす。
寺に辿りつくのにあれほど急な石段を上がったのに足腰が痛まないのは何故か、旧友を訪ねるというのに手土産ひとつ持っていけなかったのは何故か――そもそも何故、高名な陰陽師などを頼らず、こんな寂れた寺の医者を訪ねたのか。ひとつひとつ咀嚼するように思い返し、ようやく悟った。
自分はすでに此の世のモノでなかったのだ。
武臣は脱力し、天井を見上げる。驚くことにそこに天井はなかった。
無数の星が瞬いている、その、上が見えた。星空の、さらに“上”をはっきり見通すことができた。
「あなた様が亡くなって四十九日目です。武臣さま」
いつの間にか空良が傍らにいた。
柔らかい手で武臣の手を取り、慈愛に満ちた表情で微笑む。あぁ本当になんと美しい童子だろう。禍々しいほどに美しい。
「もう時間がありませぬ。刻を逃せば、わたくしのようになってしまいます」
「空良」
笈助が咎めるように呼びかけたが、空良は菩薩のような笑みを浮かべたままだ。
「わたくしの真の名は芳子と申します。遺していく夫への未練に耐えられず、逝くべきところに逝きかねた愚かな女の魂は、あろうことか息子の身体を乗っ取り、出られなくなってしまった。それが此の私の正体なのです」
「では、そなたが笈助の――」
「武臣よ」
笈助が障子を開け放つ。東の空が仄白くなっていた。もうじき夜が明ける。
「朝日は冥界への路を閉ざしてしまうという。奥方に別れを告げて、逝くべきところに逝け」
強い口調で命じられ、森村武臣は立ち上がる。不思議と悪い気はしなかった。
「世話になった」
山寺に住む‟夫婦”に一礼すると、石階段を風のごとく舞い上がって通り過ぎ、市中へと降りていった。
◆◆◆
「おれは仏道など信じぬ」
生霊がいなくなった朝ぼらけの本堂で、九摺李笈助はぽつりと云う。
「しかし香は良いと思う。天然高木の香りは悪臭を防ぐから、仏教で香は不浄を祓うというのも納得できる」
「ほんとうに。心が洗われるようです……」
空良は小さな頭を笈助の肩に乗せ凭れている。
山麓で誰かが狼煙を上げているらしい。夜明けの空に昇っていく煙を、空良が眩しそうに見つめている。
「いつか、わたくしの魂も浄化されてあの煙のように天に上がっていけるでしょうか」
「ならぬ」
笈助は強張った声で云う。間近の細い肩を強引に抱き寄せた。
「おまえはまだ逝ってはならぬ」
「でも、この身体は息子の、空良のものです。返さねばなりません」
「……おまえが逝ってしまったら、おれは」
「どうしたの今日のあなたは。小さな赤子のようですね」
切なげに懇願する夫の背をあやすように撫でて、『芳子』はくすりと笑う。
「きっと、ご友人を亡くされて寂しいのね」
霧がかった紫煙が空にたなびいている。
森村武臣の魂が天へと昇っていく様のようだ。山寺に住む食医と、その息子は身を寄せ合いながら、しばし会話もなくそれを眺め続けた。
(了)