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【短編】ある日常の風景

書籍版「道果て」最終巻発売を記念して。

本編完結後の日常の小話です。本編読了後にご覧ください。

 ユーナは、今しがた調合し終えた鎮痛剤を、秤で計測しながら均等に紙に包んでいった。

 全部で三十近く薬の在庫ができたから、暫くはこれでまかなえるだろう。

 ふう、と小さく息をついて、窓の外に目をやる。

 温かい陽射しが眩しい、のどかな昼下がりだ。


 王宮の一角でこうして医療室の手伝いを始めてから、はや一か月が過ぎようとしていた。

 「シェリアスティーナ」として過ごした間にすっかり馴染んだ王宮の空気。それは「ユーナ」に戻ってからも変わらない。初めはどこか緊張していた周囲の空気も、一か月たった今では随分穏やかなものになった。ナシャやカーリン、ミズレーなども、気負うことなくごく自然にユーナと接してくれる。それはとてもありがたいことだ。いや、ありがたいというのなら、今こうしてこの場に存在していることそれ自体が、この上ない奇跡であり喜びであるのだが。


「ユーナさん、何か手伝えることがあるかしら?」

 怪我人の手当てを終えたらしいミズレーが、ひょいと調合室に顔を覗かせた。

「いえ、大丈夫です。私の方こそ、お手伝いできること、ありませんか?」

「ありがとう。でも、今ちょうど手当の兵士も帰ったところですし。それじゃあ、少し休憩しましょうか」

 ミズレーがニコリと笑ってそう提案した時だ。まるでタイミングを見計らっていたかのように、次なる来客が現れた。ジークレストである。

「よお、二人とも。差し入れ持ってきてやったぞ」

 茶菓子の詰め合わせらしき箱を抱えたジークレストを見て、ミズレーが目を輝かせる。

「あらまあ、ジークレスト様! どうぞどうぞ、お入り下さいな!」

「……なんだか、手ぶらで遊びに来た時と、迎え入れる態度が全然違う気がするんだが」

「いやですわね、気のせいですとも」

 おほほ、と笑いながらミズレーは給湯室へ消えていった。ユーナも苦笑しながら席を立つ。


「ユーナ、お前はまぁた薬草いじくってんのか」

「ええ、まあ。仕事ですし」

 頷いたユーナに、ジークレストは胡乱げな視線を向ける。

「いやいや、薬剤師見習いの仕事はまた別にあるんだろ? それ以外の時間は自由に使えるんだから、少しは息抜きでもしたらどうだよ」

「十分させてもらってますよ。この医療室、すごく居心地がいいんです。ここで薬剤の調合をしている時が一番落ち着くくらいで」

「ったくお前は、どこまでも生真面目な奴だな」

 ずい、とジークレストはユーナの顔を覗きこんだ。ライオンのごとく迫力のある男に顔を寄せられては、思わず後ずさってしまうのも仕方がないというものだ。ユーナはその後に続くであろう彼の言葉に嫌な予感を覚えながら、愛想のいい笑みを顔に貼りつけた。

「薬草の匂いまとって部屋に閉じこもってるくらいなら、香水でもつけてアシュートのところに行ってこいよ! そっちの方が断然大事だろ」

「う……」

「そうそう、そうですよね、ジークレスト様! 私も口を酸っぱくしてお話しているんですけどねえ。ユーナさんてば、顔に似合わず案外頑固で」

 ミズレーが、いつにない素早さで茶の用意を済ませ、ユーナとジークレストの間に割って入ってきた。こういう話題は彼女の大好物だ。双方の真剣な眼差しに射ぬかれ、ユーナは何も言えなくなり、誤魔化しついでにミズレーが運んでくれた茶に口をつけた。

「婚約までしている男女が、これじゃあいけませんよ! お二人とも、以前よりも明らかに他人行儀になってしまっているじゃありませんか」

「だよなー。ユーナ、お前アシュートのこと嫌になったってわけじゃないだろ? やっぱりイーニアスの方がいいとかよ。しかしなあ、あいつはあいつで、どこぞの王子サマみたいな見た目のくせして、暑苦しい上に粘着質だぞ」

「そんなんじゃないですけどっ」

 イーニアスまで引き合いに出されてはたまらない。ユーナは慌ててジークレストを遮った。

「でも、王宮はお互いにとって、職場じゃないですか。職場であんまり私的な交流をするというのも、好ましくないというかなんというか……」

「なーに言ってんだ。お前ら二人とも王宮に住み込みなんだから、んなこと気にしてたら会える時間なんて全然ねえじゃねーか」

「そしてまさに今、その状態ですわね」

 ジークレストとミズレーのもっともな指摘に、ユーナはますます身を縮めた。


 そうなのだ。

 最近、ユーナとアシュートはほとんど会話らしい会話も交わしていない。


 ひとえに、ユーナが彼との王宮での距離感を掴みあぐねているせいだ。もしかしたら、アシュートの方ではユーナに避けられていると感じているかもしれない。その可能性をひしひしと感じながらも、彼とどう接するべきかが分からない。


 今のユーナは、シェリアスティーナとして過ごしていた時とは立場が違うのだ。

 ユーナは数多くいる使用人の一人に過ぎない。第一神聖騎士という尊い立場のアシュートとは、天と地ほども身分差がある。必然的に、普通に過ごしている限りは顔を合わせる機会などほとんど巡って来やしない。ならば自分から会いに行けばいい、とジークレストなどは言うが、そんなことをすれば周りの人間がどう思うことだろう。特に、今のアシュートは聖女との婚約を解消したばかりの身である。彼が悪いわけではないが、周囲の風当たりはどうしても強く、下手な行動を起こすことは許されない空気に満ちている。


「うーん、確かに昼間は、互いの仕事があるから仕方ないとしても。じゃ、夜会えばいいんじゃね? 夜這いとかどうだ」

「意味が分かりません」

「まあ、女の立場で夜這いする側ってのはキビシイもんがあるよな。仕方ない、俺からアシュートによく言い含めてお」

「アシュートに変なことを吹き込んだら、ジークさんの傷薬には今度から塩を塗り込んでおきますから」

 半ば本気の目で言い放つと、ジークレストは降参したというように肩をすくめた。


 アシュートの足を引っ張ることはしたくない。彼が背負う重圧や責任を、ユーナが肩代わりすることはできないのだ。ならば、どんな些細なものであろうと、問題を増やしたくはなかった。会いたいなどという身勝手な気持ちは封印するべきだ。


 ――分かっている。理解している。きちんと弁えている。

(……でも、確かに、会いたいなぁ)


「こんな時こそ、私がお役にたてる場面じゃありませんか!」

 ユーナが密かに溜め息をついたその瞬間だ。やる気に満ちあふれた明るい声が医療室に響き渡った。何事かと顔を上げたユーナの手を、ほっそりとした白い手のひらが勢いよく包み込む。いつの間に医療室へやって来たのか、その手の主は侍女のナシャであった。

「ナ、ナシャ? どうしたの?」

「ユーナさん、お話は伺いました。どうぞ私にお任せ下さい」

「おっ、なんだなんだ?」

 ジークレストとミズレーも興味深げにナシャを見守る。

「根本的な解決にはなりませんけど、ユーナさんとアシュート様がお会いできる時間を少し作る程度でよろしければ、お力になれると思うんです」

「えっ?」

「ユーナさん、私と一緒に、侍女体験をなさいませんか?」


・   ・   ・


 ナシャといえば、ユーナがシェリアスティーナの身代わりをしていた頃の聖女専属侍女だ。

 そのお役目から解放された今では、第一神聖騎士専属――つまり、アシュート付きの侍女として働いている。主な仕事は、彼の私室の掃除や衣類の管理、軽食の準備などだが、言ってしまえばユーナよりもナシャの方がよほどアシュートと顔を合わせる機会は多い。

 そこで、ユーナを彼女同様の第一神聖騎士専属侍女に仕立て上げ、こっそりアシュートのところへ連れて行こう――というのが、ナシャの案であった。


 過去に色々問題があった関係で、男性付きの侍女は必ず二人一組で仕事にあたることになっている。その制度を利用して、ナシャとペアの侍女に一度仕事を代わってもらえばいい。いや、もちろん、通常であれば、安易に見ず知らずの人間が侍女になり済ますことなど不可能である。が、今回ばかりは話は別だ。ユーナのためだと一言添えるだけで、手助けを申し出てくれる国の重鎮はいくらもいるに違いない。

 案の定、トントン拍子に話は進んだ。手の込んだ根回しをするまでもない、ライナス一人に相談を持ちかけただけで、面白がった彼により、全てはつつがなく整えられたのだ。


「あの、私やっぱり……」

「お似合いですよ、ユーナさん!」


 ナシャの侍女服を借りたユーナは、もうすっかり見慣れたはずのそれに袖を通し、頼りなくその場に佇んでいた。背恰好はナシャもユーナも良く似ているから、サイズ的には問題ない。だが、まるで布切れ一枚を身にまとっているようなこの心細さはなんなのだろう。とにかくも、自分には絶対に似合っていないに違いない。ユーナは居たたまれない気持ちでますます背を丸めた。


「うーん、いいね。その初々しさが」

 にやりと口の端を持ち上げたライナスが、ソファに深く身を沈めつつ、侍女姿のユーナをしげしげと眺めている。ここはライナスの執務室だから彼がいて当然なのだが、そもそも何故彼にこの格好を見せに来なければならなかったのか。「問題がないか事前に確認する」と彼は尤もらしい理由をつけてユーナを呼びだしたのだが、これは完全に、ただ面白がっているだけに違いない。


「私、この格好でアシュートのところに行くなんて、やっぱり無理だよ」

 ライナスの反応を見てすっかり我に返った。今自分は、とてつもなく恥ずかしい行動に出ている。

「どうしてだい? 本当によく似合っているよ。『ユーナ』に戻ってからはいつも地味な服装ばかりだったんだから、たまにはそういう刺激的な格好を見せてあげるのもいいことだよ」

「刺激的っ!? 侍女服が!?」

「襟を詰めた胸元に、ひざ丈のふんわりとしたスカート。それに加え、シックな紺色の装いはひどく禁欲的で、男性にとっては魅力的だと思うけどなあ」

「やっぱり絶対にやめます!!」

「ええっ、そんな。ユーナさんとおそろいの格好で仕事ができるんだって、今日を楽しみにしていましたのに……」

 しょんぼりと眉尻を下げたナシャに、ユーナは言葉を詰まらせる。

 ライナスがこの台詞を言えば間違いなく打算だろうが、ナシャは本心から楽しみにしてくれていたのが分かるから、突き放せない。それに、ナシャと一緒に仕事ができるというのはユーナにとっても嬉しいことだった。これまでずっと世話をかけてばかりで、ナシャと同じ立場に立って仕事をしたことは一度もなかったのだから。

「うっ。そ、そうだよね。せっかくだし……。そうだね、それに、普通に考えれば、こんなの滅多にない機会なんだしね」

 ユーナは、ナシャにというより、自分に言い聞かせるようにして呟いた。ここまで来てやめるというのも後味が悪い。――もう、こうなったら腹をくくるほかないではないか。


「本来ナシャとペアだったもう一人の侍女には一日有給を与えているから、なんなら今日は好きなだけその格好で働いてくれて構わないよ。ちなみにアシュート君には特になにも伝えてないから、驚かせてやりなさい。ただし、最近過労で弱っているようだから、あんまり驚かせて心臓発作を引き起こさないようにね」

 ライナスの冗談なのかそうでないのか判断のつかない忠告に、ユーナは頬をひくつかせた。


・   ・   ・


 ナシャに教わりながら、給湯室でアシュートに淹れるお茶の準備を進める。

 他にもたくさんの侍女たちが入れ替わり立ち替わり部屋に入ってくるが、皆きびきびと己の仕事をこなして出ていくので、ユーナの存在に気づいた者はいないようだ。だが、それもそうだろう、まさか第一神聖騎士の婚約者がこんなところで侍女の格好をして茶の準備をしているなどと思うはずがない。


「あ、ユーナさん、その棚にクロスが入っているので何枚か出して頂けますか?」

「うん、わかった」

 ナシャに言われるがまま、棚を開けて綺麗に畳まれたクロスを三枚ほど出し、カートに置く。続けて、茶器を温めていたお湯を捨ててカップを拭いてほしいと頼まれ、それも言われた通りにした。

 ユーナがシェリアスティーナでなくなった当初は、それでも主従の立場を守ろうとしたナシャだったが、最近はこんな風に気負うことなくユーナに頼みごとをしてくれるようになっている。それが実は、ユーナにとってはとても喜ばしいことだった。


「そうだナシャ、お茶受けに、これを一緒に出してもいい?」

 ユーナは持参した小箱を取り出し、そっと蓋を開けた。

「あら、これは……クッキーでしょうか?」

「うん。目の疲れに効くセナトの実を一緒に練り込んであるの。あ! ちゃんとライナスの毒見役の人にお願いして、先に食べてもらったよ。一応、味も大丈夫のはずで」

「まあ、ユーナさんの手作りクッキーを最初に食べたのが毒見役の人だなんて! それなら私に言って下されば喜んで頂いたのに。そもそも、アシュート様は、ユーナさんの作ったものなら毒入りだろうとなんだろうと一かけらも残さず召し上がりますよ」

「それはなんだか嫌だなあ……」

 苦笑しながら、ナシャにもクッキーを差し出す。ナシャは慌てて手を振って、毒見の話は冗談で、アシュートよりも先に食べるわけにはいかないと固辞していたが、最後はユーナが強引に口に押し込んでやった。自分でも一つをつまんで食べてみて、なかなかの出来であることを再確認する。しかし、いつも最高級の料理人が用意したものを食べているアシュートの口に合うかどうか。

(やめやめ、そういうことは考えない)

 つい自分を卑下しがちになってしまうが、ふるふると首を振って弱気な考えを頭から追い出した。


「それじゃあ、参りましょうか」

 軽い調子でナシャが言う。

 一方のユーナは、その一言で心臓が口から飛び出そうになった。が、ナシャは構わずカートを押して歩き出してしまった。ナシャにとっては、アシュートへの給仕は日常的な仕事の一つに過ぎないのだから、当たり前のことなのだが。


「あのね、ナシャ」

 ユーナは慌ててナシャの背中を追いかけた。

「もしアシュートが忙しそうだったら、煩わせたくないの。だからその時は、本当にお茶の準備だけして、すぐに執務室を出ようね」

「ええ。でも、アシュート様は、少しでも長くユーナさんがいらした方がお喜びになると思いますが……」

「そう思ってもらえると嬉しいけど。でも、やるべき仕事はきちんとやる人だと思うから。仕事の時間中であれば、なおさらだよ」

「ユーナさん」

 不意にナシャは足を止めて、くるりとユーナに向き直った。

「ユーナさんは、物分かりが良すぎます! そんな風にユーナさんばかりが耐える必要なんてないはずですよ!」

「えっ」

「ユーナさんは、誰かに『迷惑をかけちゃいけない』って考え過ぎなんです。そうじゃなくて、ええと……なんて言えばいいのか、分からないですけど」

 もどかしい、と言うようにナシャは拳を握りしめた。彼女がこんな風に言い募ることは珍しいので、ユーナはぽかんと口を開いて佇んでしまった。が、すぐにナシャなりの優しさと激励なのだと理解する。ユーナは笑って、ありがとう、と感謝の言葉を口にした。


 本当は、こんな形でアシュートの執務室へ押しかけることに、罪悪感にも似た気持ちを抱いていた。きっとアシュートは、喜ぶよりも困惑することだろう。目の前の仕事を放り出せるような性格ではないことだって良く知っている。それでも今こうしてアシュートの執務室へ向かっているのは、ユーナのわがままに他ならないのだ。

(でも、いいんだよね、きっと)

 たまにはわがままを言ってもいいんだ。こうしてわがままに付き合ってくれる、そして助けてくれる友人たちがいるのだから。

 ユーナは先程よりも少し胸を張って、執務室へ向かう廊下を歩いた。


・   ・   ・


 そしてとうとうやって来た、アシュートの執務室。

 こんな風に扉の前に立つのも、ユーナにとっては随分と久しぶりだ。

 気を引き締めた表情で佇むユーナの隣で、ナシャは何でもないように扉をノックした。

 ……が、返事はすぐに返って来ない。はて、と首をかしげてナシャに視線を送ったユーナは、彼女もまた不思議そうな表情をしているのを見て、これが珍しい事態なのだと悟った。


「アシュート様、失礼いたします。……あら」

 そっと扉を開いたナシャは、目をわずかに見開くと、そのままその場で固まった。

「眠ってらっしゃるようです」

「え」

 ナシャの言葉に、ユーナもつられて部屋の中を覗き込む。


 ――大きな窓から差し込む日差しを背に浴びて、アシュートが机に向かったまま俯いていた。左ひじをついて、その手に頭を軽く預けて。彼の手からはペンがこぼれ落ちている。

「よっぽどお疲れなんですね。初めて拝見しました、眠っていらっしゃるところ」

 ひそひそとナシャがユーナに話しかけた。

 ユーナは小さく頷いて、眠るアシュートの姿を見つめる。

 懐かしい執務室に、彼の姿がある。その光景に、ユーナは胸が締め付けられる思いがした。まだそんなに遠くない過去の出来事がいくつも思い起こされる。


「……ナシャ、戻ろう」

「え?」

「眠らせてあげよう。アシュートはきっと、自分からなかなか休憩取らないだろうし」

「……ええ。そう、ですね」

 ナシャは曖昧に頷いた。アシュートを休ませてあげたい気持ちはきっと彼女も同じだろう。だが、同時にユーナのことも気遣ってくれているのだ。せっかく久しぶりに、二人でゆっくり過ごせるかもしれない貴重な時間だったのだから、と。

「あ、でも、それじゃあ、これだけでも」

 いいことを思いついた、というように、ナシャはカートからユーナのクッキーを取り出した。ユーナが止める間もなく、クッキーの入った小皿を手に、ナシャは執務室の中へ滑り込む。器用なことに、一切足音を立てずに応接用のテーブルへ近づくと、小皿を置いてその上に白いクロスを覆いかぶせた。


「ナ、ナシャ」

 下手に騒いではアシュートを起こしてしまう。どう抵抗しようかと考えあぐねて戸惑うユーナとは裏腹に、晴れやかな表情をしたナシャがすぐに廊下まで戻って来た。

「もう、クッキーだけ置いていくなんて!」

 扉を閉じるなり、ユーナは恨めしげに抗議する。だが、ナシャはまるで気にした様子もなくにこにこと笑っているから、ユーナもそれ以上咎めることはできなかった。

「目が覚めたらよく分からないクッキーが置いてあるなんて、怪しいって捨てられちゃうんじゃないかな」

「まさか、そんな。きっと愛の力で、ユーナさんの手づくりクッキーだと気づかれますとも!」

「ナシャってば!」

「冗談はともかく、本当に大丈夫だと思いますよ。この時間にお茶をお持ちするのは毎日のことですから、侍女の用意したものだとすぐにお気づきになるはずです。万が一警戒されたとしても、私たち侍女に何も仰らずに捨てるようなことはなさらないでしょうし」

「そっかな。まあ、捨ててくれても別に構わないんだけど」

「きっと食べて下さいますよ、アシュート様は」

 そうだろうか。本当は、食べてくれるのが一番嬉しいが。

「とにかく、ナシャ、今日はありがとね。アシュートとは話せなかったけど、侍女になってナシャと一緒に仕事するのって、なんだか新鮮で楽しかったな。ナシャ、次の仕事があるんでしょ? 私も自分の部屋に戻って着替えるよ。あ、制服は洗って返すから」

「なにを言っているんですか」

「え?」

 きょとんとするユーナを尻目に、ナシャの眼光が突如鋭いものに変わった。

「まだまだ侍女の仕事は続きますよ。アシュート様とはお話できずじまいになってしまったんですから、なおさらです。次はアシュート様の私室の掃除に行きましょう」

「えー!」

 そんな予定は聞いていない。本人のいない間に私的な空間に勝手に立ち入るなど、さすがに良心が咎めるというものだ。しかしナシャに言わせれば、それが侍女の仕事なのだから気後れする必要など微塵もないらしい。確かに本職の侍女であるナシャにとっては立派な任務だと頷けるが、ユーナの場合は、単なる不審者かつ変質者になってしまうのではなかろうか。

「さすがに私は……」

「いつもは二人ペアでこなす仕事なんです。私一人では時間通りに終えられるかどうか」

「うぅ」

 そう言われると断りづらい。しかしそれにしても、近頃ナシャは本当にユーナに対する態度が変わってきたと、しみじみ思う。嬉しいという気持ちに偽りはないが、こういうときは少し困るものだ……それも、勝手な感想ではあるが。


「わ、分かったよ」

「良かった! では、疲れて部屋に戻られたアシュート様が安らげるよう、一緒に頑張って綺麗にしましょうね」

 こうしてユーナは、ナシャと共にアシュートの私室の掃除に向かうことになった。ちなみにその後、今度こそナシャと別れて自室へ引き揚げる途中、本物の侍女と間違えられて、通りすがりの使用人たちに用事を何件も頼まれ引き受けてしまったのは、また別の話である。


・   ・   ・


「はぁ~、疲れた」

 ようやく頼まれごとの雑務から解放されて、自室へ戻ってきたユーナである。

 侍女服を脱いで、身に馴染んだ普段着に早速着替える。まるで鎧を脱ぎ捨てたかのような解放感を味わいながら、ユーナはベッドへ身を投げ出した。

 たった半日の侍女ごっこでこの有様だ。日々王宮で働いている使用人たちを改めて尊敬する。

(私ももっと頑張らないとなぁ)

 鉛のように重い体を引きずるようにして、今しがた飛び込んだばかりのベッドから起き上がった。もはや日が傾いてきた頃合いだが、あともう一仕事――ユーナにとっての“本当”の一仕事が待っているのだ。

(薬草園に行かなくちゃ)

 今日一日は休みをもらっているものの、日課である薬草園の確認は欠かしたくはなかった。今日はそれだけやって、切り上げよう。

 籠とハサミを手に、再び部屋を出る。大きな窓から西日が差して長い廊下を赤く染め上げていた。すぐにすっかり日が落ちて、草花の確認をすることは難しくなりそうだ。ユーナは早足で廊下を通り抜けた。


 薬草園は、王宮の隅にひっそりと広がっている。もともと、薬の調合に必要な材料は外から調達しているために、王宮内でわざわざ薬草を栽培する必要性がない。だからこの薬草園は、お遊びで作られた程度のごく小さなものだ。

 ユーナもシェリアスティーナとして王宮で暮らした一年の間に、こんな場所があることを全く知らずにいた。存在を教えてもらった当初は、辺り一面ほとんど雑草の楽園と化していて、そこが“薬草園”であることが判別できなかったほどだ。そこからユーナが時間を見つけては手を加え、ようやくそれなりの体裁が整ってきたところである。


(昨日雨が降ったから、水は遣らなくても大丈夫かな)

 早速薬草園に到着したユーナは、一つ一つ、草花の状態を確認していく。こうして植物に触れているだけで、今日一日の疲れが吹き飛んでいくようだ。

(でも、楽しい一日だったな)

 一番の目的を達成することはできなかったけれど。

 アシュートと――過ごせていたなら。

 ああ、そうしたら、もっともっと、疲れなんて飛んでいったに違いないのに。アシュートの側にいられるのなら、慣れない侍女の仕事だってきっと毎日頑張れる。例え制服を着ているだけで窮屈に感じてしまうような仕事でも、全然平気だと思えるはずだ。


(だけど、私は私。ただアシュートにくっついているだけの人間にはなりたくないから)

 自分の成すべきことをしよう。

 改めてそう決意して、目の前の草花に真剣な目を向ける。

 それでも不意に胸を刺した寂しさに、何故だか泣きたい気持ちになった。

 その時だった。

 草を踏みしめる誰かの足音が、ゆっくりとユーナの背後に近付いてきた。


「今日は休暇のはずでしょう。まさかこんな所にいるなんて」


 包み込むような、穏やかな声。それなのに、ユーナは驚きのあまり飛び上がりそうになってしまった。息をつめて振り返る。そして今度こそ、本当に息が止まるかと思った。

「アシュート」

 まさか、こんな所にいるなんて。自分にこそその台詞を言わせてほしい。ユーナは混乱する頭でそんなことを考えて、不意に笑みが零れ落ちるのを止められなかった。

「……ふふっ」

「どうして笑うんです?」

 怪訝な表情を浮かべながら、アシュートがユーナの目の前まで歩み寄る。地面に膝をついていたユーナは、ゆっくりと立ち上がりながらアシュートに向き直った。

「いつも、来てほしい時には、嘘みたいなタイミングで本当に来てくれるなあって思って」

「そんなこと、ありませんよ」

 アシュートはどこか拗ねたように目を伏せた。

「ずっとあなたに会いに来なかった。随分長い間、あなたの優しさに頼りきりになっていました」

「それは私だって同じだよ。むしろ、私の方が自由の利く身なんだから、私から会いに行くべきだったね。ごめんなさい」

「謝らないでください。悪いのは、私だ」

「ううん、私の方が……」

 そこまで言いかけて、ユーナは再び噴き出した。久しぶりに二人きりで顔を合わせているというのに、何故か謝り合っている自分たちが、なんだか可笑しかった。いや、きっとどんな些細なことでさえも、喜びを感じずにはいられないのだろう。今は、目の前にアシュートがいる。

 そんなユーナの思いが伝わったのだろうか。ようやくアシュートも表情を緩め、苦笑を浮かべた。


・   ・   ・


 どちらからともなく、近くにあった作業用ベンチに並んで腰掛けた。

 焼けるような夕陽の赤が、だんだんと深い青に染まっていく。


「クッキー、ありがとうございました」

「えっ? あっ、う、うん」

 記憶の片隅に追いやっていた件を突如話題に出され、ユーナはついうろたえてしまった。

「どうして私からだって分かったの?」

「ナシャに話を聞きました。私の執務室まで来て下さったそうですね」

「あぁ、うん……。実は、そうなの」

 もうアシュートに報告済みなのか。ナシャは仕事が早すぎる。

「せっかくの機会だったというのに、まさか居眠りをしてしまっていたなんて。恥ずかしいところを見られてしまいました」

「疲れてるんだよ。今も、無理に時間を作って来てくれたんでしょう? 申し訳ないけど……でも、ありがとう。会いたかったから、嬉しい」

 好意と感謝の気持ちは素直に口に出しなさい、とは、ミズレーからの教えである。

 いつも、ことあるごとについ謝罪の言葉が口を突いて出てしまうユーナだから、近頃は普段から意識して気をつけている。だが、アシュートに面と向かって好意を示すというのは、どうにもこうにも恥ずかしくていけない。

「私も、今日あなたに逢えて良かった。元気が出ました」

「……うん」

 アシュートがそっと手を重ね合わせてくる。ユーナもその手を強く握り返した。大きな温かい手に包まれて、ユーナの心がほっと安堵の息をつく。


「ところでさあ、アシュート」

「はい」

「敬語」

「……」

「前にもお願いしたと思うんだけど、もう、敬語使うのはダメだよ」

 アシュートは沈黙したまま空を仰いだ。どうにか誤魔化そうとしているのは、ユーナにはお見通しである。

「分かった?」

「努力します」

「もうっ、さっそく敬語じゃない! 私はもう聖女じゃないんだから」

 アシュートが、未だにユーナのことをどこかで神聖視していることも知っている。でも、自分はもはやただの普通の町娘にすぎないのだ。シェリアスティーナであった時とは、心の有り様が違う。


 あの頃の自分は、死と隣り合わせにあって、確かに聖なる者としての精神状態にあったのだろう。しかし今のユーナは、自分自身の人生を、自分自身の足で歩んでいる途中だ。もはやシェリアとして振る舞うことはできない。気持ちが違う。心が違う。

 だから少し怖いのだ。

 アシュートが大切に思ってくれているのは、今でもきっと「シェリア」なのである。目の前にいるのが「シェリア」ではなく「ユーナ」だと彼が本当に認めた時、彼の心は離れて行ってしまうのではないか。

 怖い。怖いけれど、いつまでもシェリアの幻を背負い続けるわけにはいかない。

 ずっと夢を見続けていてほしいだなんて、とても思えないから。


(そういえば、敬語を使うごとにお仕置きをする、って、昔ライナスに言われたことがあったっけ)

 ユーナがシェリアスティーナになったばかりの頃、右も左もわからず他人行儀に振る舞っていたことを、ライナスにたしなめられたのだった。聖女が自分に敬語を使うなど、明らかにおかしいから改めるように、と。

 それすらも今となっては懐かしい。

 あの時は、そうだ、敬語を使うとキス一回なんていうとんでもないお仕置きだった。

 同じようにアシュートに提案してみる――なんて。

(――絶っっ対ムリ!!)

 思いきり引かれるのが目に見えている。

 それに、婚約者にそんな提案をしようとは、頭の中がお花畑もいいところだ。


「ユーナ?」

「あっ、ううん、何でもないの!」

 自分の思考回路が恥ずかしくなって、ユーナは慌てて手を振った。

「あの、敬語の話だけどね。急に変えるのは確かに難しいと思うけど、少しずつでいいから慣れていって欲しいんだ」

「……分かった。努力する」

「気にしすぎて無口になるのも駄目だからね」

「ああ」

 苦笑と共にアシュートが頷いてくれたので、ユーナもひとまずは安心する。

 あとは、彼の心が変わらず寄り添っていてくれるよう、ユーナ自身が努力するべきだ。これから先は、全くの白紙の状態。何者も、二人の関係を代わりに築いていくことはできない。


「また、すぐに会いに来る。これからは、もっとたくさん」

「アシュートの立場が悪くならない?」

 ふと、アシュートは笑みを深めた。

「同じことを考えていた。私と会うことで、あなたの立場が悪くなるんじゃないかと」

「そうだったの?」

「でも、今日こうしてここへ来て、考えが変わった。自分のやるべきことをきちんとしていれば、いつ会おうと誰に何を言われる筋合いもないのだと」

「そうだね、本当にそうだ」

 お前はあまりに生真面目すぎる、と言ったジークレストの言葉が思い出される。

 ユーナも、アシュートも。

 もっと自由に、思ったように、二人で過ごしていけばいいのだ。


「私も、たくさんアシュートに会いに行くよ」

 ユーナは繋いだ手に力を込めた。

 アシュートも、ユーナの手を強く握り返してくれたのだった。


・   ・   ・


「で、どうなった? 会う回数は増えたのか?」

 今日もまた、ミズレーの医療室にて、ジークレストは我が物顔で椅子を陣取っている。

 とは言うものの、今日は擦り傷の治療に来たのだから、一応は正当な来室ということになるのだろうか。だが実際のところは、ユーナたちのことが気になって仕方がないのだろう。

 ユーナはジークレストの手当てをしながら、わずかに苦笑する。

「はい、だいぶ。夕方くらいにアシュートが時間を作ってくれるようになったので」

「ふーん、夕方ね」

 ジークレストはいささか面白くなさそうな表情だ。

「アシュートの奴、煮え切らねえな。夜這いしろっつってやったのに」

「……冗談ですよね?」

「バカ言え、本気だ本気。凍り付きそうな目で睨まれたがな」

「……」

 ユーナは静かに立ち上がった。

「お、手当の途中にどこ行くんだよ?」

「少し待っていてください。塩を持ってきますから」

 その後、珍しいジークレストの悲鳴が医療室の外まで響き渡ったのは、また別の話。

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