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第五話 黒煙の中で

「見えました! 一時の方角、三隻です!」

 マストの上からの第一報は一人の伝令を介して即座にルカーノのもとに伝えられた。ルカーノは彼に向かって即座に命令を下す。

「各船に通達。一時の方角、海賊船三隻。全砲門用意。総員戦闘配置」

 即座に復誦を済ませた伝令は再度メインマストの下に駆け戻り、指示をマストの上の信号旗手に届ける。それは紅白二色の手旗で表される、あらかじめ決めておいた信号に変換されて各船まで伝えられる。ルカーノは腰から単眼鏡を手に取って水平線のかなたを見やる。確かに一時の方角に三隻の船。一列に縦隊を組んでいる。その先頭は三本マストの大型船で、後ろ二隻は二本マストの中型船だった。対してルカーノたちは相手より一隻多く三本マストの船を擁している。

 舵輪をしっかと掴むユースフの背を風が押していた。夏に吹くこの風は多くの船をルルから新大陸へと運んでゆく。そしてまた、砲弾をも更に遠くへと飛ばしてくれるだろう。数で一隻勝り、かつ順風に恵まれたルカーノたちに不利な点は一つもなかった。

「いい風じゃありませんか、提督。これなら間違いなく先手を打てます」

「ああ、あの船頭のおかげだな」

「何ですって?」

「いや、何でもない。気にするな」

 その頃、ルイスとアルフォンソの二人は船底の船倉に居た。黒い砂のようなもので満たされた小さいバケツを二人とも持っている。彼らに与えられた役目は、砲撃に欠かすことのできない黒色火薬の運搬だった。

 初めて見る干し豚肉に大はしゃぎしたのも束の間、彼らは今、周囲から押し潰されそうな感覚に耐えつつ船底後部の火薬庫に待機している。昨晩ユースフから話を聞いたルイスは一も二もなく戦いたいと言い放った。予想外にも程がある事態にユースフだけでなく周囲に居た船乗りたちからも考え直すよう言われたが、ルイスは結局その意志を貫き通してしまった。

 アマルゴの町に居た頃ルイスは誰からも邪魔者扱いされていた。収穫期さえもまともに家業を手伝いたがらないルイスに両親はすっかり愛想を尽かしていたし、二つ違いの兄も彼のことを平気で出来損ないと称してはばからなかった。農家に生まれたのに土と触れることを嫌う奴は、空を飛ぼうとしない鳥と同じだと兄が言っていたことをルイスは鮮明に覚えている。

 彼は農作業を嫌っていたわけではなかった。ただ、痩せきった土地に幾ら鍬を入れようと仕方がないだろうと思わずにはいられなかったのだ。どうせこんな無駄なことをしようがしまいが明日のパンに困る現実はいつまでも変わらない。そのことは両親自身が一番よく証明しているではないか。そんな感情は両親が兄ばかりをかわいがるようになってから一層膨らんでいった。

 もちろん友達はたくさん居たが、皆いつしかルイスとは距離を置くようになった。押しの強いその性格が災いしたこともある。しかし、何よりも彼が『出来損ない』であったことが一番の理由だった。狭いアマルゴの町は異質な存在にどこまでも不寛容で、神の愛を体現するべき牧師からさえも彼は疎んじられた。彼がアルフォンソに出会ったのはそんな時だった。

 アルフォンソの耳にルイスの悪評が届いていなかったわけではない。だがその秀麗な顔立ちのために主人に気に入られていたアルフォンソは、同じ奴隷仲間からはこの上なく嫌われていた。その彼が噂なぞを理由にルイスを拒む必要はどこにもなかっただろう。ルイスの方も、アルフォンソを所詮は奴隷と軽く見ていなかったと言えば嘘になる。だがすぐにアルフォンソの内に眠る知性の鋭さに驚いたルイスは、いつしか彼を掛け替えのない存在と、つまりは無二の親友と思うようになっていた。

 だが得難い親友を得てもなお、ルイスの心はあることを渇望し続けていた。遂に家から追い出されたルイスがアルフォンソにルルの港へ行こうと言ったのは、その望みを叶えようと思ったからのことだ。彼はただ、自分は『出来損ない』ではないと証明したかったのだ。狭いアマルゴの町を離れてルルの港へ、そして新大陸へ行けば、必ずどこかにこのルイス・アロンソを認めてくれる場所があるに違いないと彼は信じていた。

 だから昨晩、眠ろうとした寸前に舞い込んだユースフの話はルイスにとってまさに僥倖(ぎょうこう)だった。一緒に戦うことができれば、きっと皆自分のことを認めてくれる。ルイスはそう考えた。だから火薬の運搬役を命じられたときには不満を口にしたが、しかし今、戦いが近付いて来るにつれて彼は明らかに恐怖を感じつつあった。そしてそれはどうやっても抑えられるものではなかった。

「ねえ、ルー、怖いよ。どうしよう。やっぱり……」

「やっぱり、何だよ」

「隠れてちゃ駄目かな」

 アルフォンソの方も、本心ではユースフに勧められた通り空き箱の中にでも入って隠れていたかった。だが、彼が自分はどうしたいのだろうかとあれこれ考えているうちにルイスが彼に一緒に戦おうと言い出した。そしてあとは例のごとく、その勢いに乗せられてつい首肯してしまったのだ。やっぱりやめようかと何度も彼は思っていたのだが、ついに言い出せないまま今を迎えていた。

「何言ってんだよ。アルも戦うって言っただろ」

「そりゃ言ったけど……ルーは怖くないの?」

「怖いよ。アルと一緒だ。でも」

 ルイスは震える体をなんとか動かしてアルフォンソの前に立ち、彼のことを真正面から見つめた。

「大丈夫だよ、アル。もっと自分を信じろ。ほら、言ってみようぜ、大丈夫、って」

「……だい、じょうぶ」

「もっと大きく」

「だいじょうぶ」

「もう一回」

「大丈夫」

「ああ、そうそう。それでもう平気だろ。な?」

 それはあまりに稚拙に過ぎる、ほほえましいばかりの励まし方だったが、彼らにとってはそんなもので十分だった。勇気を奮い起こした二人は、戦いの開始を告げる砲声を待つ。

 一方、ヌールの甲板は驚愕と混乱に満ち溢れつつあった。耳を疑って訊き返したルカーノに伝令は再び声を張り上げる。

「九時の方角、更に三隻です! 全て海賊船の模様、こちらに向かってきています!」

 ルカーノは事態を理解するべくすぐさま左舷に駆け寄り単眼鏡を目に当てる。二本マストが三隻、メインマストの上にひるがえる旗はすべて黒地に白で髑髏を描いた海賊旗だった。大型船が居ないのは幸いだったが、しかし数において四対六、しかも挟撃される体勢となると非常に苦しくなってしまう。

「提督、指示を!」

 だが、既に戦いは始まっている。どちらが最初に致命的な一発を放てるかはひとえにこの遭遇時の行動にかかっているのだ。ユースフに促されるまでもなくルカーノは果たすべき義務を彼の部下へと与えてゆく。

「前方の三隻から叩く! 転舵用意、面舵一杯! 銃眼はまだ開けるなよ! 合図を待て!」

 この追い風を利用しない手はない。そう判断したルカーノは船が残す軌跡を頭に描く。

 前の三隻と左の三隻が同じ海賊団かは分からない。だが何の示し合わせもなしにこんな狭い範囲に海賊団が二つ現れることもまた考えにくい。共闘してくるはずだとルカーノは判断。四対六の数的不利は何としても避けなくてはならない。まずは前方の三隻に一撃を与え、かつ同時に左の三隻からは距離を取る。

「面舵一杯! お(めえ)ら、気合い入れてけよ!」

 素早くユースフが舵を取る。掌帆長はロープを引き絞って帆の向きを変え、常に最高の風を捕まえる。後続の船も縦隊を維持したまま順調に針路を変える。甲板に並んだ男たちはそれぞれ得意の得物を手に取った。手斧、カトラス、投げ槍、棍棒。そして上部甲板の上に布陣した五人はマスケット銃をその肩に担いでいる。彼らの手には銃だけでなく、射撃の際に銃身を支える支え木も握られていた。

 間もなく前方の敵もこちらの動きに反応して、取り舵を取って追って来る。このまま進めば併走するような形になるだろう。

「速度を緩めろ! 混乱しているふりをするんだ! そうすれば向こうから接近してくる!」

 この時代、大砲の有効射程距離は驚くほど短い。船上の人間が互いの顔を認識できる程までに近付かなければ敵船を破砕することなどできなかったのだ。ルカーノはこちらが狼狽している演技をすることで敵船の方から彼らの方へ近付くよう仕向けた。銃眼を閉じている以上、まさかこの船に準備の済んだ二十四門の大砲が搭載され、しかもそのうちの半分が既に彼ら海賊に向かって照準を合わせていることには気付きようがない。

 その思惑は的中した。巧みな操帆術によって不自然でなく、しかし確実に速度を落とした四隻の商船を見て、海賊どもは完全に油断した。攻撃されるかもなどと警戒することは全くない。船上の武器を持つ男たちも逃げ惑うかのように右往左往していたので、遂に彼らがその偽装に気付くことはなかった。ルカーノの思い描いた通りに双方の船は海に白波を立て、やがて両者の距離は十分に接近する。ルカーノは振り向き、今は後方に居る、もう三隻の海賊船とはまだ安全な距離を保っていることを確認。ルカーノの逃げ方を見て彼らは、これはもう出番はないだろうと思って手を抜いていたのだ。

「行くぞ! 左舷、砲撃用意! 銃眼を開け!」

 その時、海賊たちは自らの目を疑った。眼前を行く商船の舷側に一斉に十二の穴が開き、そこから黒鉄(くろがね)の龍が姿を現した。今まで無秩序に走り回っていた船上の男たちも、いつの間にか舷側に寄って海賊船を睥睨している。謀られた。海賊たちが事態を全て理解した時にはしかし、もう手遅れだった。

「撃て!」

 ルカーノの号令は階下の砲術士たちへと伝令を介して即座に伝えられる。眠りから覚めた十二の龍が、咆哮を海原に轟かせた。

 強力無比な片舷一斉砲撃。風に乗った砲弾は情け容赦なく海賊船を穿(うが)ち砕いた。銑鉄製の丸弾は船の舷側に、甲板に、マストに命中し、それらの部位は一瞬にして無惨にも砕け散った。人の肉体などは言うにや及ぶ、甲板の上で直撃を喰らった哀れな男は両足と左手の肘から先を残してこの世から消滅した。

 ヌールが戦端を開いたのを見て後続の三隻も次々に砲撃を開始した。もちろん全てが命中するわけではない。だが一斉砲撃を敢行したことに加え、海賊たちが無警戒に近付きすぎていたことはその被害を確実に大きなものにした。彼らは砲撃の準備さえしていなかった。海賊たちは撃ち返すことも能わず狼狽するばかり。後方の三隻はルカーノたちが武装商船団であることに気がついたが、その距離をこれから詰めるにはまだ時間がかかるだろう。

 雷鳴にも似た重低音が響いた瞬間、ルイスは思わず悲鳴を上げた。その轟音は予想していたものよりも遥かに大きいものだった。アルフォンソも同様でその場にしゃがみ込んでしまう。バケツから火薬をこぼさないようにするだけで精一杯。硝煙の臭いが伝わってくる。甲板の方からは鬨の声が聞こえてきた。二人は今自分たちが居るところが、つい先日まで楽しげに皆と笑いあっていた空間と同じとは思えなかった。

 それでも彼らが奮い起した勇気は消え去らなかった。灰にまみれた炭を砕くとその内側が燃え上がるように、恐怖に襲われた彼らの心はかえって力を増した。ルイスは一声雄叫びを上げると、アルフォンソに呼びかける。

「行くぞ、アル!」

「うん、行こう!」

 彼らは走り出す。火薬庫を出て、交易品用の倉庫へ。釘で厳重に封じられた木箱と木箱の隙間は、穀物や石の入った麻袋で埋められている。こうすると船が安定するんだとユースフが教えてくれたことをルイスは思い出す。そこを通り抜ければ階段だ。更に進めば水置き場が待っているが、向かうべきはそちらではない。二人は火薬をこぼさないよう慎重に、しかしできるだけ急いで階段を上った。その先は船倉の中段。すなわち二十四門の大砲が居並ぶ場所。そこでは反動で退()がった大砲の位置を修正し、弾を再装填する作業が大急ぎで進められていた。

 片舷一斉砲撃の欠点は、黒色火薬の煙のせいでしばらくは辺り一面煙幕を張ったようになり、まったく相手の状況が掴めなくなることにある。かつてルカーノは逃げる際にこれを利用したこともあったが、今はただもどかしいばかり。だがその感情を決して顔に表すことはなく、彼は煙が晴れるのを待ち続けた。

 そして、その時は来た。思わず彼は拳を握る。眼前の海賊船三隻は、合わせて四十四門の砲から放たれた砲弾を浴びて相当な打撃をこうむったのが一目で分かったからだ。とりわけヌールと併走していた先頭の一隻は二番船のシラージュからも手ひどく狙われたようで、マストが一本根元からへし折れていた。もはやまともに戦うことはできないだろう。

「取り舵取れ! 斬り込み用意!」

 ルカーノは速戦即決を企図した。後方から来る三隻に接近される前に、こちらの三隻に勝利を決めてしまおうと考えたのだ。この時代における海戦の勝利とは要するに敵船の拿捕を意味した。敵船に乗り移り、抵抗する者を皆斬り伏せて船を奪い取るのだ。

 待ちに待ったその言葉に船上の男たちは一斉に声を挙げた。橋代わりとなる板が何枚も持ち出される。三メートルばかりのそれを縁と縁の間に掛けて、そこを通って乗り移るのが一般的な乗り移り方だった。時にはマストによじ登ってロープを掴み、まるで振り子のような形で飛び移る器用で恐れ知らずの者も居た。

 彼我の距離が二十メートルに縮まった時、二段目の砲撃が始まった。特別な指示の無い限り、最初の一斉砲撃の後は各砲術士に砲撃のタイミングは任せられている。熟練の砲術士は準備ができてもすぐには撃たず、ぎりぎりまで引き寄せて致命打を叩きこもうと試みる。

 十メートルまで近付けば、互いの間に様々なものが飛び交うようになった。船縁に集まった男たちが双方ともにピストルで撃ち合いを始める。板を持っていた者が狙われ、決して厚くない板を貫通した鉛玉に彼の胸は撃ち抜かれた。その隣に居た男は、倒れた男の腰から拳銃を引き抜くとそれで撃ち返す。短い投げ槍が帆を貫く。即座にその傷は応急処置が施され、甲板に落ちた槍はまた相手に向けて投げ返される。片膝をつき、先端が二股に分かれた支え木に銃身を乗せたマスケット銃士は風を感じ取りつつ、確実に一人ひとりを撃ち殺してゆく。

「提督、下がって下さい! そこは狙われます! 危険です、提督!」

 上部甲板のど真ん中からその様子を見下ろしていたルカーノにユースフは叫んだ。相手に腕のいい銃士が居れば、明らかに提督らしい格好をしているルカーノは狙撃されてもおかしくない。それでもルカーノは、そこに立ち続ける。彼は自ら剣を取らない。銃も撃たない。提督として全体を把握しなければならないからである。その代わり、このあまりにも目立つ格好で、不動の存在として皆の前に立ち続けることが部下たちのこの上ない心の支えになることを彼は知っていたのだ。

 そのルカーノの足下が大きく揺れた。倒れこみそうになるのを彼はすんでのところで堪える。

「撃ってきたか」

 この距離まで近付いてしまえばもう(めくら)が撃っても命中する。ようやく準備を終えた敵船が次々にその砲門を開いていた。ルカーノは後ろを見やる。同様に後続の味方も砲撃を受けていた。更にその後ろには帆を全開にして追いすがる海賊船。もし左右から挟まれることになってしまえばひとたまりもない。

 遂に彼我の距離は三メートルを切った。矢弾と黒煙の間を縫って板が渡される。それをひっくり返そうとした者は次の瞬間にはマスケット銃士に頭を撃たれて海に落ちて行った。吶喊(とっかん)した男たちはその僅かな幅の橋を踏み渡り、敵陣へと踊り込む。

 ルイスとアルフォンソは今目の前で何が起こったのか理解できなかった。彼らに向かって早く火薬を持って来いと言っていた男が、今はもうどこにも居ない。ただ彼が居たはずの所の壁には大きな穴が空いていて、煙越しの海がひどく青く思えた。ルカーノの足下を揺らした砲弾は一人の砲術士を即死せしめていたのだ。

 尻もちをついた彼らはそのまま呆然とし、立ち上がることもできなかった。もしかして、死んだのだろうか。その可能性に思い至りはしたが、しかしそれを現実として認識するのはこの短時間では難しい話だった。こんなにあっさり人は消え去ってしまえるものだと、彼らは思っていなかったのだから。

「おい馬鹿! そこをどけ! 邪魔だ邪魔!」

 そんな声が聞こえたと思うと、二人はほとんど同時に投げ飛ばされていた。直後、またもや響く砲声。ルイスたちは先程まで自分たちが居た場所が今は後退した砲身に占められていることに気がついた。投げられていなければ、今頃この鉄塊の下に押し潰されていただろう。

「そんなとこ座ってんじゃねえ! 早く火薬を持ってこい! 死にたくなけりゃあな!」

 二人の周囲は何事もなかったかのように戦い続けていた。誰もあの人の死を悲しまないのかとアルフォンソは思ったが、それは誤りだった。悲しんでいる暇などは、戦っている時にはないのだ。悲しむ前に戦わなければ、悲しむことさえもできなくなってしまうのだ。

 敵中に乗り込んだ男たちは頑強な抵抗に遭って苦戦していた。ルカーノの速戦案はあろうことか裏目に出てしまった。海賊たちは今をしのげば必ず味方が助けに来てくれると思い、全力で戦ったのだ。数合の後に砕け折れたカトラスが槍のように投げられ、それをかわした男は手に持つ棍棒で相手の頭を叩き割る。自慢の斧で帆を支えるロープを切ろうとした者は一瞬早くその手を切り落とされた。舵を取るユースフは風と波をその体に感じ、決して二つの船を繋ぐ弱々しい板を海に落としてしまわぬよう必死になっていた。

「提督、風が!」

 突如、その彼が絶叫した。聞き返すまでもなくすぐにルカーノもその意味を理解した。最悪の事態だった。

「馬鹿な! 南風だと?」

 風が変わったのだ。今まで彼らの右から吹きつけていた風は、今真後ろから吹いている。それはつまり、新たな敵がルカーノたちに追いつくのが容易になったということ。

「サイドより連絡! 敵船、後方より近付いてきます!」

「各船に通達! 右舷全砲門用意! 絶対に乗り移らせるな! 何が何でも止めるんだ!」

 止める? どうやって? ルカーノは確固たる展望を描くことはできなかったが、それでもそう言わずにはいられなかった。彼の横で一人のマスケット銃士が倒れ込んだ。その右肩は撃ち抜かれていた。狙撃されたのだ。

他のどの船でも状況は似たようなもので、次々に海賊船に乗り移って激しい戦いが繰り広げられていたがまだ制圧するには至っていない。この状況で新手が現れたならどうなるか。手薄になっているルカーノたちの船は、さしたる労苦もなく制圧されてしまうだろう。

「何やってんだよアル! 早く来いって!」

バケツに火薬を詰め込み再び駆け出そうとしたルイスは、火薬庫の扉の前で壁に背を当てて座り込んだアルフォンソに声を荒げた。

「どうしたんだよ、アル! 立てって!」

 彼らは火薬庫と船倉中段を既に十往復はしていた。彼らが通るたびに、あるいは訪れるたびにその場所は様相を変えて行った。整然と木箱と麻袋が並んでいた倉庫は今や足の踏み場もない状態。水置き場からは明らかに大量の水がこぼれていた。中段に繋がる階段は血でぬかるんでしまい、もう走って上がることはできない。そして大砲のあるあの空間は、もはやこの世のものとは思えない状態になっていた。さっきまであったものがない。さっきまで居た人が居ない。砲撃の轟音は決して()むことはなく、僅かに途切れたその合間には人々の絶叫や、ピストルの銃声、鉄と鉄がぶつかる音が紛れ込む。

「ルー、ごめん。すぐに行く、行くから、先に行って」

「何言ってんだよ。頑張れって、ほら」

 ルイスはそう言ってアルフォンソの手を掴み、彼を立たせようとした。しかしその時、彼は違和感を覚える。異様にアルフォンソの手が暖かったのだ。そしてまた気味の悪い感触さえもした。悪い予感がした彼は自分の手を見た。悪い予感というものはどうして当たってしまうのだろうか。それとも既に現実であるから、それを予感として認識したのだろうか。ルイスの掌はアルフォンソの血で真っ赤に染まっていた。

「おいアル! 何だよ、何なんだよこれ!」

「さっきルーが階段降りた後、腿に何か当たったと思ったんだ。流れ弾だったみたい。すぐ治ると思ったけど、全然止まらなくって。ごめん、怒んないで」

 アルフォンソはそう力なく言った。ルイスはかがんで傷口を見る。確かに血が溢れてきている。ルイスは頭の中が真っ白になった。彼はどうすればいいのか分からなかった。

「先に行って、ルー。僕は大丈夫。後から絶対行くから」

「血が止まらないんだろ? 何か、何か……そうだ! すぐに戻る、ちょっと待ってろ!」

 ルイスはバケツを床に置くと倉庫の方に向かって走り出した。思った通り、そこには破れて中身が出た麻袋が幾つもあった。そのひとつを引っ掴んだルイスは更に走る。また大きく船が揺れ、耐えきれずにルイスは床の上に転がった。したたかに身体を打ちつけたが、痛みに耐えて彼はすぐに立ち上がる。彼は走りつつ麻袋を切れ目から裂き、包帯のようにする。それを水置き場にこぼれていた水に浸したルイスは踵を返してアルフォンソのもとへと向かった。

「アル! 見せてみろ。今、治してやるからな」

 彼はその即席の包帯でアルフォンソの右腿の付け根を縛りつけた。アルフォンソは短く悲鳴を挙げる。

「いいよ、ルー。先に行って。僕のことは──」

「うるさい! 黙ってろ!」

 ルイスは何とか処置を終えた。処置というにはそれは大雑把すぎたかもしれない。だが、彼に今できることはそれだけだったのだ。

「いいか。アル。ここからもう動くな」

「どうしてさ、ルー」

「いいから動くな! そんなとこ怪我してんだぞ、今歩いたらどうなるか分かるだろ!」

 ルイスの叫び声は、大砲の轟音にも負けずに響いた。アルフォンソはもはや何も言えず、ただうつむいた。

「お前の分も俺がやる。だから、ここに居ろ」

 そう言うとルイスは両手に火薬を詰め込んだバケツを持った。そしてアルフォンソに背を向け、駆け出そうとしたその時だった。

 船の右側から大きな衝撃が響いた。たたらを踏んでルイスは耐えたが、バケツからは火薬がこぼれてしまう。砲声の合間に聞こえる喚声も突然明らかに大きくなる。何か異変が起きたに違いない。それでも行かなくては。ルイスはそう覚悟を決め、足を前に出す。アルフォンソは涙を流してただその背を見つめるばかりだった。

「撃て! いいから撃て! 押し返すんだ!」

 ルカーノが恐れていた通りになってしまった。追い風を受けて新手の三隻がルカーノたちに追いついた。先頭を行く一隻はシラージュに砲撃を加えた後、ヌールの横まで一気に来る。ルカーノたちは速度を上げて逃げることはできなかった。どの船も敵船との間に渡した板を落とすわけにいかなかったからだ。もしそれをしてしまったなら、敵中で戦う勇敢な海の戦士たちは見殺しにされたと思うに違いなかった。

「提督、危ない!」

 瞬間、ユースフは左手で舵輪を保持したまま、右手で左腰の銃を取って素早く引き金を引いた。ルカーノに斬りかかろうとしていた海賊の首が撃ち抜かれる。その男は血を吐き、穴の空いた喉を押さえてのたうちまわった。

 ルカーノの周りに居たマスケット銃士も今やもう銃を撃っていなかった。再装填に時間をかけるより、もはやその重たい銃身を振り回して相手を突き返す方が眼前の危機には適切な対処法だった。彼らは上部甲板に上がろうとする海賊をあるいは甲板に、あるいは海に叩き落していたが、旗色はルカーノにとって悪いままである。

 血が出るほどにルカーノは唇を噛んだ。自分のせいだ。勝利を焦ってしまったからだ。あのときはこうするべきだったのだ。そんな言葉が、彼の脳裏に浮かんでは消えてゆく。その間にも彼の眼前ではひとりに一つしかない命が奪い合われてゆく。

 しかし、決してルカーノは凡将ではなかった。今必要なものが何かということは、彼はその十七年間の経験で理解していた。それは決して自己憐憫の反省でもなく、部下に許しを乞う謝罪でもない。

「諦めるな!」

 ルカーノはそう絶叫すると、上部甲板と甲板の境にある手すりの上に跳び上がった。遮蔽物などは何もない。黒煙の立ち込める中、彼は敵をも味方をも、全てを眼下におさめて言い放った。

「私はまだ生きている! よく聞くがいい、海賊ども! この船の主はこの私だ! 私が生きている限り貴様らに勝ちはない! そして思い出せ、我が戦士たちよ! 私が居る限り、我々の前に敵はない! 絶対に諦めるな!」

 それは賭けだった。賭けに負ければ自分の命は失われる。次の瞬間、鉛弾が彼の首を貫いているかもしれなかった。血塗られたカトラスが彼の足首を斬り捨てるかもしれなかった。だがルカーノはそこに立ち続けた。帽子に結わえられたカモメの羽根がまっすぐに天を指す。その手足は震えていない。その目は輝きを失っていない。ヌールの船上に居る者たちの視線は全て、古代の帝王がごとき威厳を放つルカーノに集まっていた。

 ヌールの船上はまるで時が止まったかのようであった。それを破ったのはルカーノの左方から聞こえてきた歓声。皆の視線が、ルカーノからそちらの方へと移ってゆく。そこにあったものは、引きずり降ろされる海賊旗。

 ルカーノは賭けに勝ったのだ。旗が降ろされたということはすなわち、ヌールの左を行く海賊船が制圧されたということを意味した。途端に海賊たちは浮足立つ。ルカーノは流れを奪い返したのだ。

「見たか海賊ども! もはや貴様らに残された道は敗北のみだ! さあ、押し返せ!」

 その号令一下、息を吹き返した海の男たちは海賊たちに襲いかかった。ルカーノの賭けによって、敵船の海賊旗を降ろすという事象は本来のそれ以上の威力を持った。ルカーノを(おそ)れた海賊たちはほとんど戦意を喪失し、走って自らの船に逃げ戻ろうとしていた。ルカーノが後ろを見やれば、左方の一番後ろを行く海賊船からちょうど旗が降ろされるところで、真ん中を進む海賊船は既にその旗を失っていた。完全にルカーノは流れを掴んだ。もはやそれを奪うことは海賊には能わなかった。ルカーノは勝利を確信した。

「え?」

 だが、彼の眼は異変を捉えた。皆逃げ惑う海賊を追い駆ける。降伏した者からは武器を取り上げる。誰もが激しく動き回る甲板の上で、一人、座り込む者が居た。

 だがそれは座り込んでいるのではなかった。その者の前に立つ大柄な海賊に力任せに突き飛ばされた結果なのだった。周りは誰も気付かない。煙にまみれ、絡み合ったぼさぼさの黒髪、血で染みだらけとなった綿のシャツ、縦横にシワが跋扈するズボンは赤くなり、穴のあいた靴は突き飛ばされた時に脱げて、彼の横に転がっていた。ルイス・アロンソの首元に、カトラスの鋭い刃先が迫っていた。

「ユースフ!」

 ルカーノは振り向き叫んだ。

「銃を渡せ!」

「何ですって?」

「お前の銃を渡せ! 早くしろ!」

 説明している暇はなかった。ユースフは事態を理解してはいなかったが、ルカーノの鬼気迫る様子を見て取ると、彼に向けて即座に右腰の銃を投げて渡す。ルカーノは振り向きざま引き金に指を掛け、撃鉄を上げ、狙いを定めた。

 今、一体何が起きたのかルイスには分からなかった。彼は船倉中段まで火薬を運んだ時、足下にあった誰かのカトラスを見つけた。その時はもう敵がそこまで侵入していたのだ。彼はその時、今ここで火薬庫まで戻ってはだめだと思ったことは覚えている。ここから先に行かれたらアルが殺される。みんな戦っているんだ。俺だって戦うんだ。そしてバケツをその場に置くと、ルイスはそのカトラスを手に取り、階段を駆け上がって甲板へと飛び出した。だが彼が覚えているのはそこまでだった。

 気がつけば、彼は無様にも甲板に尻をつけて後じさりしていた。その喉元には冷たい刃が当てられている。目の前の男は陰惨な笑みを浮かべてルイスを追い詰める。海賊の手に力が込められ、ルイスの喉から血が流れる。彼が声にならない声で助けてくれと叫んだ、その時。

 ルイスの喉を斬り裂こうとしていたカトラスが甲板の上に転がった。海賊はその胸を押さえている。ルカーノさんたちの敬礼に似ているな、となぜかルイスはそんなことを思った。その押さえられた左胸からは血が流れていた。海賊は何事かを呻く。そして、まるで腐った木が倒れるかのようにその場に倒れ込んだ。何が起きたのか、まったくルイスには分からなかった。そのまま動かなくなった海賊を見ていると、ふと右手を掴まれる。

「ルイス、大丈夫か? しっかりしろ」

 ルカーノがそこに居た。ひざまずいて目線を合わせる彼の手にはピストルが握られている。

「ルカーノ……さん?」

「良かった。大丈夫か」

「あの、ルカーノさん、それ」

「どうした?」

「それ、銃。もしかして……助けてくれたの?」

 ルイスは自分がどうしてこんな目にあったのかを考える前にそう尋ねた。しかし、ルカーノは静かに首を横に振る。

「じゃあ、誰が?」

そう重ねて問うと、ルカーノはルイスの後方に目を向ける。ルイスは首を回して、彼の目が示す先を見た。

「アル」

そこに居たのはアルフォンソだった。右腿から下を黒ずんだ血で染め、壁に体重を預け、真っ青な顔で立つ彼の足下には一挺のピストルが落ちている。その銃口からはまだ、黒い煙が上がっていた。

「アル、アル!」

 ルイスは弾かれたように立ち上がり、アルフォンソのもとへと駆け寄った。限界を迎えて崩れ落ちそうになるその体をルイスは抱き止める。

「ルー……よかった、本当に」

「馬鹿野郎! 何でここに居るんだよ! あそこで待ってろって言ったじゃんか! 馬鹿野郎、馬鹿野郎!」

 ルイスは彼の耳元で叫んだ。様々な言葉が彼の頭の中で錯綜する。痛かっただろ、苦しかったろ、どうしてここまで、ありがとう、しっかりしてくれ、死ぬんじゃない、無理しすぎだ、ありがとう、ありがとう。

「あそこで待ってようと思ってたんだけど、ルーが全然戻ってこないから、怖くなって、それで」

「だからって……馬鹿野郎! アルの馬鹿野郎!」

「ごめんね、ルー。ほんとに……ごめんね」

 そう言い終えると、アルフォンソはがくりとその頭を垂れてしまう。ルイスはその体を揺するが反応がない。

「おい、おい、アル? 聞こえるだろ、返事しろよ、なあ、アル!」

 その時、ルカーノがルイスの肩に触れた。再び狂騒状態に陥ったルイスはルカーノに助けを求める。

「ルカーノさん! 助けて! アルが、アルが! 俺のせいでアルが死んじゃう! 助けて!」

 それに対し、ルカーノはふっと笑った。何事かと目を疑うルイスの頭を彼は撫でてやる。

「大丈夫だ。アルフォンソは眠っているだけだよ」

「え?」

「もう血は止まっている。傷が浅かったのと、止血をしっかりしたおかげだろうな。大丈夫、死にはしない」

 最後にぽんぽんと二度ルイスの頭を軽く叩いて、ルカーノはそう優しく言った。確かめようとルイスはアルフォンソの口元に耳を寄せる。アルフォンソは確かに息をしていた。右腿を見やれば、ルカーノの言う通り、もう血が流れているようには見えなかった。

「提督、報告します。もうあらかた終わりました。海賊の船は四隻拿捕しましたが、二隻には逃げられました。こちらの被害は今計算中ですが、四隻とも航行は可能だということです。戦利品もまだ集めてる途中です」

「十分な戦果だ。後で死んだ者の葬儀を行う。名前を全員分まとめておいてくれ。ところでユースフ、積荷の中に確か傷治しの膏薬があったよな?」

「ええ。開けましょうか?」

「頼む。怪我人も多く居るだろう。他の船とも連絡を取って治療に当たろう。使い切っても構わないさ」

「分かりました。あと提督、銃を返してもらえますか?」

「ああ。ありがとう。結局使わなかったよ」

「さっき何があったんですか? そもそもあなたが銃を使おうとするなんて」

「二人とも、本当によくやったよ」

「はい?」

「気にするな、さあ、行くぞ」

「ちょっと待って下さいよ。気にしますって」

 そう言ってルカーノはユースフを連れて船内へと入って行った。すれ違いざま、ルカーノはアルフォンソの肩に顔を(うず)めるルイスを見た。彼らに向かって口を開きかけたユースフをルカーノは手で制する。通路を塞いでいるのは邪魔かもしれないが、もうしばらくはあのままにしておいてあげよう。きっとルイスは、泣いている顔を見られるのが嫌なのだろうから。


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