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第7話

 作業を終えてリビングに戻ると、百井はハサミを使って、扱いにくそうに野菜を切っているところだった。つい先日からハサミを使うようになっていたが、包丁を使っている姿は一度も見たことがない。家事ができるのならば、包丁ぐらい扱えるはずなのだが。


「百井さん、包丁は使わないんですか?」

「使わないですよ」

「どうしてですか?」

「どうしてって・・・、昔、包丁で怪我をしたことがあって。それ以来、包丁の存在自体が怖いんですよ~。だって、食材を切るだけじゃなくて、人を殺める道具にもなっちゃうんですからね~。恐ろしいですよ、包丁って」


胡散臭い感じも含めつつ、ニヤニヤと不気味に笑いながら言う百井。荻野は「そうですか」と適当に返事をする。このまま家事の話をし続けても、やらないと言われ続けるだけだろうし、それでは埒が明かないと思い、「旦那さんは、どんな職業をされていたんですか?」と、話題の方向性を変える。


「蕎麦屋チェーンの社長です」

「えっ、社長さん、ですか。すごいですね」

「全然、彼は人間性としては死んだも同然ですから。それに、何があったか詳しくは知らないんですけど、ある時から行方をくらませてるみたいで。私も彼の居場所については何も。まぁ、離婚届けを書いてそのまま逃げるように出て来ちゃいましたから。知らなくて当然なんですけど」


蕎麦屋チェーンの社長。行方不明。そのワードを聞いた途端、荻野はとあるニュースを思い出した。それは、確か2年ぐらい前に話題になっていたはずだ。あれ? 2年前って――


「あの、百井さんはお子さんをいつ出産されたんですか?」

「え~、それ訊いちゃいます?」

「駄目ですか?」

「フフッ、駄目ってことはないですよ。産んだのは、2年前の6月です」

「もしかして、旦那さんと離婚されたのは、そのお子さんが産まれてからですか?」

「そうですよ。仕事が忙しくて子供を育てられないからって言う理由で、向こうから離婚話を持ってきました。酷いでしょ、産ませるだけ産ませておいて、忙しさを理由に子育てから逃げるって。そうは言っても、結局は私が面倒みるんだから、彼には関係ないって思ったんですけどね、何か違ったみたいです」


 百井は本気で子育てをするつもりでいたのだろう。子供のことになると饒舌になる癖がある。ただし、子供が好きだとはあまり思えなかった。類以にきつく当たる瞬間を何度も見てきたから。たぶんきっと、他人の子供はどうでもよくて、自分の子供だけを愛しているのだろうと思えた。


「離婚してすぐに、小さなアパートで1人暮らしをしました。仕事は今よりもなかったから、暇で暇で。でもお金が無いと生きていけないから、家政婦のアルバイトで毎日家事に明け暮れていました」


色んなことが脳の中で交差していく。矛盾点ばかりが生まれ、頭がパンクしそうだ。


「じゃあ、どうしてシェアハウスでは家事をやらないんですか?」

「うーん、何て言うかぁ、急に面倒に思えてきちゃって。誰かがやってくれるから、別に私がやる必要はないよな~って。そういう理由ですよ」

「あ、なるほど」

「なので、私は家事をやろうと思えばできるんですよ。やればできる子なんで。フフフ」


何の笑いか分からなかったが、荻野はとりあえず「何も知らなくてごめんなさい」と、その場の雰囲気で頭を下げた。すると百井は「ホントですよ、まるで私が家事全般できないみたいな感じで決めつけて。結構不愉快でした」とガチなトーンで返す。


 ミキサーの中で、緑黄色野菜らが個体を潰しながら混ざっていく。それを無心で眺める百井。視線は冷たくて、何を考えているのか想像もできなかった。


「なので荻野さん、シェアハウスから引っ越してもらって構いませんよ。もう一度家事を頑張ろうって思いますし、ミサちゃんと共にここで暮らしていきますから」

「無理して言っていませんよね?」

「多少は無理してますよ。でも、荻野さんの言う通りだなって。確かに、どんな役のオファーがきても演じられるようになっていたいですし。だから、頑張ります」

「そうですか」

「じゃあ、今の話をもって、正式に引っ越しをさせていただく、その許可をいただけたということで。遠回りしてしまって申し訳ありませんでした」

「遠回りしましたね~。くたびれましたよ~。でも、荻野さんとバトルができて楽しかったなぁ。久しぶりに赤の他人と言い争いができたから。フフ」


赤の他人という言葉に反応しそうになったが、聞いていないフリをして、笑って誤魔化した。


 できあがったスムージーは、あまり飲みたいとは思えない色をしていた。鳩が扉から出てきて、時刻を告げる。


類以が帰宅してくるまでの間に、やっておかなければならないことが山のように残っている。胸を叩いて自分のことを鼓舞し、荻野は動き始める。百井は、のんびりと、自分の時間軸で過ごし始めた。


2時間後、類以が満面の笑みを浮かべながら、日和の隣にべったりとくっつきながら帰宅した。少し着崩されたシャツとズボン。土汚れが付いた小さなスニーカー。日和と律との散歩を楽しんだことは、言葉を聞かなくとも分かるほどだった。


「日和ちゃん、ありがとね」

「ううん。すごく楽しかったよ。あ、ベビーカーここ置いてもいい?」

「いいよ。あ、荷物預かるね」

「うん」


日和は類以が乗っていたベビーカーを玄関先に置く。行くときよりも慣れた手つきで。


「おかえり、類以」そう言って荻野は類以の頭を優しく撫でて、そしてぎゅっと抱きしめる。


「類以の様子どうだった? 迷惑かけなかった?」

「迷惑だなんて、全然だよ。逆に、いつもより積極的だった気がする」

「どういうこと?」

「私が何をしても泣き止まなかった律の機嫌取りをしてくれたの。ほんと助かった」

「そうだったんだ」

「そうなの。うん、だからあとで褒めてあげて。お母さんから褒められると子供も嬉しいと思うから」

「分かった。しっかり褒めるよ」


 律はベビーカーの中で手足をバタバタとさせ、やんちゃに暴れている。可愛らしいタッチの熊が描かれたTシャツは皺だらけになっていた。


「律君も楽しんでくれたかな」

「うん。普段聞かないような声色出しながら終始笑ってた。多分、相当楽しかったんだと思う」

「そっか、なら良かった」

「今度は、茉菜ちゃんも一緒に出かけようね」

「そうだね」


類以の頭をもう一度優しく撫で、そして律に視線を合わせて微笑む。


「今日はホントありがとね。おかげで面と向かって話し合えた」

「良かった。いつでも頼ってね。困ったときはお互い様だから」

「ありがとう。じゃあ、また今度」

「うん、またね」


 太陽が燦燦と降り注ぐアスファルトの上を歩きながら、2人は帰っていく。その背中を見ながら、類以は「ばいばーい」と声を張りながら、短い腕を全力で振る。この2時間ちょっとの間で、類以は急激に成長したような気がした。一歩ずつ、大人になっていくその姿を、ここではないところで守り続けよう。そう心から感じた。

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