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第4話

 5分ぐらいの沈黙があったのち、スムージーを飲み終えた百井が口を開いた。次なる標的は槙野だった。


「槙野さんは、それでいいんですか?」

「はい?」

「だって、家族でもないのに、ミサちゃんは積極的に類以君の世話を見てあげてるわけじゃないですか」

「はい」

「でも、ここから引っ越しちゃったら、ミサちゃんがやってたことも全部、荻野さんに任せちゃうことになるんですよ? 奥さんに丸投げするつもりですか?」


挑発的な態度を取る百井に対し、槙野は冷静を装う。握られた拳の中では、汗がじんわりと滲んでいく。


「あの、俺は丸投げするなんてこと、ひと言も言っていませんし、茉菜にすべて任せるなんてことは断じてありません。そのことは、今この場で誓うことができます」

「え~、ここで誓われても困るんですけどぉ」

「それぐらい本気だってことです」

「ふーん。まぁいいや。でも、槙野さんは、仮に引っ越したとしても、2人目が産まれたとしても、高校で教師の仕事は続けるんですよね?」

「はい。家族を守らないといけませんから」


荻野と目配せしてから頷く槙野。荻野は頼れる槙野がいてくれてよかったと安心できていた。


「だったら、これまでと生活が何ら変わらないんだから、結局丸投げする状態になりますよ? いいんですか? それだと、類以君が可哀想だと思わないんですか?」

「確かに仕事をしていたら、茉菜に家事を任せちゃう部分も出てくるでしょうし、子供たちと向き合う時間は減るかもしれません。でも仕事をしなければ家族を養うことはできないんです。俺には妻と子供たちを守る義務があるんです」


 百井は興味なさげに、「へぇー」と適当な相づちを打って、空になったボトルを持ち、椅子から腰を上げる。自分の言動は何も間違っていないと言わんばかりの態度だった。


「それに、お2人が出て行っちゃったら、ほとんどの家事をミサちゃんに任せちゃうことになるじゃないですか、料理とか掃除とか。残される側が不憫だと思いません?」

「不憫って・・・」思わずそう呟いた金子。百井から自分はどう見られているのかと、変な不安が頭をよぎる。


「だってミサちゃんも仕事してるんですよ? しかも、わざわざシェアハウスから時間かけて通勤してるんですよ? まあ私もそうですけどぉ、ミサちゃんのプライベート、奪っちゃっていいんですか?」

「そう言う百井さんは、家事をするつもりはないんですか?」

「私ですか? するつもりないですよ。だって包丁で怪我したら仕事に影響が出ちゃうし、洗剤で手が荒れるほどの敏感肌なので、そういうのって、できるだけ避けちゃいじゃないですか」


 百井の理由にはどこか雑さを感じた。しかし、実際に家事をする頻度が少ない槙野は、荻野と金子に申し訳なくなり、頭を下げて言葉を紡がないようにした。見かねた荻野が、代わりに口を開き始める。


「敏感肌なら、手袋をすれば食器洗いとかできるんですよ。実は私も冬場になると手が荒れるので、洗剤を使う系の家事をするときには手袋をはめてます。だから、百井さんにもできないことはないと思うんですけど・・・」


荻野が優しい感じで伝えると、百井は軽く舌打ちをした。しかし、その音は鳩の鳴き声によって掻き消されていった。


「手袋してまでしたくないです。それぐらいなら、誰かにやって欲しいって思っちゃいます。それが、私にとったら荻野さんとミサちゃんなの。出て行かれたら荻野さんの手料理が食べられなくなっちゃうし、それに類以君の成長と、その2人目の子供の成長も見られないじゃないですかぁ。そんなの寂しい」


 うわべだけで言う百井に、だんだんと呆れてくる3人。しかし、息子のことを守りたいという一心で、荻野は果敢に攻めていく。百井を落とす勢いで。


「子供の成長が見られないことが寂しい。そう言っていただいてありがとうございます。私の料理が食べられないことを寂しがっていただいてありがとうございます」

「別に感謝されることを言ってるわけじゃないですけど」

「ただ百井さん。寂しがるのは簡単なことです。そう言っておいて、引っ越すのを辞めさせようとしてるんですよね? こちらが引っ越さなかったら、百井さんは家事をする必要がないんですもんね」

「そういうんじゃなくて、本当に寂しんですよ? 荻野さんの手料理はどれも美味しいし、掃除も丁寧だし」

「百井さんって、本当に家事をしたくないんですね」


 荻野の言葉が突き刺さったのか、百井は大きく息を吐く。そして目を細めて睨む。


「私がお2人のことを引き留めても無駄だってことですね」

「やっぱり、引き留めようとしてるんですね」

「そうですよ」

「どうしてですか?」

「だから、さっきから何回も言ってるじゃないですか。寂しいからだって」

「それだけじゃないですよね? やりたくない家事を、半ば強制的にやらないといけなくなるのが嫌なだけですよね?」

「そうですよ。それに、3人がいないと生活が面白くないじゃないですか。賑やかだったのが、ミサちゃんと2人になると物静かになっちゃって、豊かさが失われるというか・・・、ね、ミサちゃん?」


百井に同情を求められた金子は黙って俯く。荻野たちが出て行くことが寂しいのは間違いない。しかし、ここで百井と手をつなげば悪の組織に加担するような気がして――


「私は、荻野さんたちが引っ越すことに対して賛成したんです」

「え、どうして? ミサちゃんは槙野さんとかのことが嫌いだったの?」

「そんなわけないじゃないですか」

「じゃあ何で」

「槙野家の4人に幸せになって欲しいから、だから賛成したんです。私は百井さんとは違うんです。百井さんみたいに、自分勝手な理由で出て行ってほしくないとか、そんなことは言いません。ただ単に幸せを祈っているだけなんです」


「呆れた」百井は金子にそう呟いて、ボトルをシンクに置いたまま、大きな足音を響かせながら階段を上って行った。その瞬間に、リビングは急激に静寂の世界に包まれる。鳩が住む時計の針も、家電から聞こえてくるモーター音も、何もかもが止まっているみたいだった。


「あっ、もうこんな時間だ。寝ないといけない時間過ぎちゃってる」スマートフォンの画面を見て、勢いよく腰を上げる金子。類以は眠たいのか目を擦る。


「明日早いんだったよね。ごめんね、金子ちゃん」

「いいんですよ。まぁ、私が役に立ったとは思えないですけど」

「そんなことないよ。金子ちゃんが居てくれて助かった。俺と茉菜だけだったら、多分もっと激しい言い争いになってたと思うから」


槙野はハハハと苦笑いを浮かべる。そんな夫のことを、優しい眼差しで見つめる妻の姿がそこにあった。


「あの、百井さんの意見を聞いても、お2人の意思は変わらないですよね?」

「うん。出て行くよ。金子ちゃんには本当に申し訳ないけど、1日でも早く出て行こうと思う。あんな人とはこれ以上一緒に暮らせないから」

「そうですよね。類以君の身に何かあってもいけませんしね」

「うん。危害が与えられる前に避難しないと」

「ですね。私のことは気にしないでください。家族4人で幸せな家庭を築き上げてくださいね」

「ありがとう、金子ちゃん」


 3人は朗らかに笑う。類以も分からないなりに笑い声をあげる。でも、目は垂れていて、とても眠たそうだった。


「類以もそろそろ寝ようね」

「はぁい」

「いい子だね。フフッ」

「えほん、よんで」

「うん、いいよ。じゃあ、寝室に行こう」


荻野が類以のことを抱き上げ、寝室へとつながる階段を上っていく。あとを付いてくる金子は、「類以君、おやすみ」と優しいトーンで言って手を振る。類以も「おやす」と言って手を振り返した。


この光景を見れるのも、残り少ない。荻野はしっかりと目に焼き付けておいた。


「おやすみ、金子ちゃん」

「おやすみなさい」


 百井が来てから今日まで、正直、これと言ってあまり面白いことがあったわけでもないし、楽しかった思い出もすぐに浮かばない。だからこそ気付けた。類以が来てから飯田が引っ越していくまでの1年が、何気なく過ごしていた毎日が、幸せだったのだと。ともに自分たちの間で伸びていた紐は、いつの間にか結ばれて、固い絆になっていたことを改めて思い知った。

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