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幸運の果実  作者: 一枝 唯
第3話・最終話 始末 第2章

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01 不審な侵入者

 ルキン邸から、夜な夜な女のすすり泣きが聞こえる――という噂話をファドック少年は知らないが、知っていれば納得をしたことだろう。

 女ではなかったが、見つけた最初の囚われ人の泣き声は、まだ聞こえていたからだ。実際のところ、声が頻繁に外に洩れているとは思えないが、〈水辺の夢は水音が見せる〉という辺りである。

 男は、母親とはぐれた迷子のように泣き続けている。立派な成人男性のくせに情けない、とは言うまい。それだけの恐怖を体験しているのだと、見るべきだろう。

 助ける、という台詞に嘘はない。少なくともそのつもりでいる。

 だが、どう攻めたらよいものか。

 犬は静かに、ついてきていた。

 この不気味なまでに賢いユークオールが、黙って虜を連れて行かせるか? 先ほどの男は異様なまでに犬を怖れていた。ユークオールが少しうなれば、それだけで牢屋の奥へ戻ってしまいそうだ。

 だいたい、歩けないようにされている。たとえばファドックがユークオールを相手取る内に――客観的に考えて、そう長い間は保たないだろう――素早く逃げるのは難しいはずだ。

(やはり、町憲兵隊を呼ぶしかないか)

 ひとりではどうしようもない。

 しかし彼らが素直に町憲兵を呼ばせるはずもない。地上階ではサリアージがファドックを待ちかまえていると考えるのが自然だ。

(誰であろうと斬り捨てないと言ったけれど)

(その舌の根も乾かない内に、前言を翻す必要があるかもな)

 罰を受けることを承知でサリアージを殺す――とまでは行かなくとも、怪我を負わせて何もできないようにしておかないと、ルキンに知られずに町憲兵隊へは行けない。

(もっとも)

(ユークオールが知らせれば同じ)

 犬は「報告」ができなくても、異常を主人に知らせるくらいはできそうだ。

(地下に閉じ込めておけば問題ないが)

(――だが、虜たちに万一のことがあっても)

 最も確実なのは、まずここで犬を殺してしまうこと。だが単純に、困難だ。それは既に知らされている。

 二度はやられない、などと意気込むことに意味はない。明らかに力の差があれば、二度だろうが三度だろうが弱い方が負けるのだ。

(誰もいない牢に閉じ込めて鍵を掛けてしまうという手もあるが)

(何にせよ、やるなら)

(不意をつくしかないな)

 ただ、犬は常に彼を見ている。その視線がとげでできているかのように、常にちくちくと刺されている感じがする。それは剣の師匠が、今日は優しく教えるよりも徹底的に叩きのめしてやろうと思っているときのようだ。少年の腕前では、そこに隙を見て取ることができない。

 じっと犬の視線にさらされながら、ファドックは最も奥の扉をのぞいた。

 少し、ぎくりとする。

 ここの囚人は、先ほどの男のような虚ろな目つきではない。何ごとだろうかとばかりに顔を上げて彼を待っている。

「いま、開けます」

 ファドックは鍵を探し、それを開けるとなかに入った。

「何だ」

 と、相手は言った。

「どんな奴が助けてくれるのかと期待すれば。ガキかよ」

「生憎と、そうです」

 少年は憤りもせずに答えた。じろじろとファドックを見る相手は、しかし大して彼と変わらない。少し年上という程度で、トルスと同じくらいだろう。

 だがファドックは特に「そっちだってガキじゃないか」などとは言わずに事実だけ認めた。それは相手の笑いを誘う。

「悪い悪い。立派な戦士だとか町憲兵だとかならここから出してくれるかと勝手に想像してただけ。助けてくれるんなら文句はないさ」

「足は、どうですか」

 この若者はさきの虜よりも若く見えるが、ずっと落ち着いている。ファドックは余計な繰り返しはせず、短く尋ねた。

「駄目だね」

 その答えはつまり、この男も同じように腱を切られていることを示した。

「ちくしょう。せっかく、配達人に雇われたのによ。ちょいと副業なんて考えんじゃなかった」

 若者は顔をしかめて嘆息した。

「あ、俺、ティオっての」

「ファドック・ソレスと言います」

 差し出された手を取って、ファドックは苦笑した。

「何? 何かおかしいのか?」

「自己紹介をし合うには、あまり相応しい状況ではないなと思ったんですよ」

「違いねえや」

 ティオも笑った。

「なあ、ファドック。俺は」

「待って」

 ティオが何を語ろうとしたのでも、ファドックは素早くそれをとめた。

「音がした。誰かくる」

「見られたらやばいか」

「いえ、それほど問題ではないと思いますが」

 主自ら送り出してくれたのだ。使用人がやってきたところで咎められはしない。

 サリアージだろうか? そうであれば、と少年は考えた。

 ユークオールとサリアージを牢に閉じ込めてしまい、町憲兵隊を呼びに行くということが可能になるかもしれない。

 このままティオの独房に隠れていようかと思ったが、扉の前でユークオールが座っているのだから意味がないと気づいた。

 彼はティオに待つよう手振りで合図して――若者は「見捨てるのか」とは騒がなかった――廊下へ出た。そこでファドックは、全く予想外の姿に目をしばたたくことになる。

「よ」

「……トルス」

 ファドックは〈青燕〉亭の息子を目にして眉をひそめた。

「いったい、ここで何を」

「その台詞はそっくり返すぜ」

 トルスは廊下の端から、逆の端にいるファドックをぴしっと指差した。

「面白そうなことやってんじゃねえか。俺も混ぜろよ」

「僕の感覚から行くと、あまり面白がることはできないね」

 ファドックはひとまずそう返してから、改めて友人に問いかけようとし――目前の犬がぐっと姿勢を低くしたことに気づいた。

「逃げろ、トルス!」

 ファドックは剣を抜きざま、友人に警告を発した。

 間に合うか――!

「は、何?」

 トルスの方ではきょとんとした。黒い大きな犬が床を蹴って、信じられない速度で十ラクトもない廊下を駆けてくるのに気づいた瞬間、うぎゃあと悲鳴を上げて奥の通路へと走りだす。

 同時にファドックはユークオールをそのまま追いかけることはせず、反対側へ走った。犬に追いつくのは難しいと見て、もう一本先の通路で迎え撃つ方を選んだのである。

 全速力で角を折れてきたトルスに向かってファドックも全力で床を蹴り、済んでのところで友人と入れ替わる。ユークオールが襲いかかってくる勢いをそのまま利用して、細剣で刺し貫く――はずが、彼はまたも、奇妙な感覚を味わった。

 ルキンの部屋で、有り得ないと思いながらも空振ったとしか考えられなかったときのように。

 確かに刃が突き刺さるのを見たと思った。だが手にその感触は残らない。当のユークオールは、駆けてきたことなどなかったように、少年の前で立ち止まっていた。

「いまのは――」

「な、な、何だよいきなり! 俺が何をした!?」

「侵入をしてきたんじゃないのか」

 犬に対峙しながら、思わずファドックは背後にそう返した。

「不審な侵入者だ。番犬に襲われても文句は言えないだろう」

「まあ、そりゃそうだけどよ」

 ぶつぶつとトルスは応じた。

「で、お前は何でここにいて、侵入者と見なされてないっぽいのに、わざわざルキン家の番犬に剣を向けてるんだ?」

「君より僕の方が向いているだろうからだ」

「答えになってねえぞ」

「むしろ、ここにいる理由をはじめ、僕の方がいろいろ尋ねたいね」

「おう、何でも訊け」

「あとにする。いまはちょっと忙しいから」

 そうやり取りをする間も、ファドックはユークオールから目を離さなかった。

「トルス」

 彼は友人を呼んだ。

「犬はお前を襲う気でいるみたいだ。その辺の扉の向こうに逃げ込んでおけ」

 後ろを見もしないで少年は左手にあったものを放った。トルスはほとんど反射的に投げられたものを受け取ると、胡乱そうにそれを眺めた。

「何だよ、これ」

「鍵、というものを知らないのか」

「知っとるわ!」

「向こうの通路は探ったが、こっちはまだだ。ついでに、何があるのか見ておいてくれ」

「ついでかい」

「もともとは主眼だけれど。いまは」

 忙しいから、と少年はまた言った。


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