10 配達人の仕事
ビウェルが素直に依頼などしてくれない以上、現状でヴァンタンにできることは、とにかく配達数を増やすことだけだった。
だが同時に、噂話を聞くことは忘れない。ヴァンタンは意図的にウォンガース病院や中心街区付近の荷物を選び、ルキンの話を集めた。
そうすれば、これまで聞こえなかった薄暗い話もちょくちょく聞こえてくる。病院の方ではあまり聞かれなかったが、自宅付近は大漁だ。
曰く、深夜に人目を避けるように出入りがある。曰く、不審な荷馬車が着く。曰く、夜な夜な女のすすり泣きが――辺りになると、怪談の様相を呈して信憑性が薄れるが、そう思われるだけの何かがあると考えることはできる。
もっとも、根拠のない噂と言えばそれまで。「自分が見た」という人間はおらず、「聞いたところによると」という話ばかりだからだ。
しかし〈水辺の夢は水音が見せる〉もの。そんな噂が立つ理由が、どこかにあるはずだ。
手持ちの荷物を全部配ってしまって、商会へ戻ろうかと考えたヴァンタンは、人だかりができているのを目にした。
裏口であったところで、件のルキン邸であることはすぐに判る。周囲は何度も通ったのだ。
「何だ何だ、何ごとだ?」
彼はその場に駆け寄ると、野次馬のふりをして――と言うより、野次馬以外の何ものでもないだろう――手近な人間に尋ねた。
「ここの先生、ついに後ろに手が回ったか?」
ものすごく性質の悪い冗談、というやつである。或いは、期待の現れとでも言うべきか。
「先生じゃないよ」
相手は苦笑して応じた。
「おかしな男が暴れたらしいんだ。町憲兵が取り押さえたところさ」
「へえ」
見れば確かに、えんじ色の制服が男に縄をかけている。町憲兵は知った顔ではあるが、幸か不幸か、ビウェル・トルーディではない。
「捕り物か。もうちょっと早くくればよかったな」
「だいぶ、騒いだようだよ」
「何でまた、ここで?」
「妻をここの先生に殺されたんだってさ」
「殺された?」
物騒な一語にヴァンタンが顔をしかめれば、野次馬はしたり顔で首を振った。
「人間、死ぬときは死ぬもんだろ。妻が死んだなんてのは気の毒だが、かかった医者を人殺し扱いなんざ、先生こそが気の毒だよ」
「成程ね」
たいていの医者についてはもっともな同情だと思うが、ここの先生はどうかね――とは、ヴァンタンは特に口にしなかった。
「ほら、どいたどいた。見せもんじゃないぞ!」
男を捕縛した町憲兵が柵に近づいて手を振れば、観衆は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。しかしヴァンタンは、その場にとどまる。
「や、サイリスの旦那」
見知った顔に、青年は声をかけた。サイリスと呼ばれた町憲兵は片眉を上げる。
「何だ、ヴァンタンか。お前はどこにでも顔出すな」
「たまたま通りかかっただけだよ」
「いつも、そう言うじゃないか」
サイリスは笑った。
「今回はお前さんの好きな無実の人間じゃないぞ。現行犯なんだからな」
「何でもかんでも、俺が旦那たちに逆らってると思わないでくれよ」
「判ってる。お前の話で助かることもあるんだし」
なかにはこうして、話を聞いてくれる町憲兵もいるのである。全員が全員、ビウェルと同じ反応ではない。
「なあ、旦那」
「うん?」
「あとでちょっと、相談に乗ってくれないか」
ビウェルが駄目なら、サイリスに話を聞いてもらうのがいいかもしれない。ヴァンタンはそんなことを考えた。
「お前が、俺に?」
「ああ」
「判った。しばらくはこれに」
と、サイリスは捕縛した男を指した。暴れていたという男は、取り押さえられたせいかしょんぼりとしている。
「かかりっきりだから、夕刻にでもこいよ」
「そうだな、そうする……ああ、いや」
そこでヴァンタンは手を振った。
「やっぱ、いいや」
「何だ、おかしな奴だな」
サイリスは笑った。ヴァンタンは肩をすくめる。
(やっぱし、ここは)
(トルーディ旦那に頼み込むことにしよう)
ほかの町憲兵に話を持ちかけたなんて知られたら、何を言われるか判ったものではない。
ヴァンタンは適当なことを言って手を振り、サイリスともうひとりの町憲兵――こちらは、ヴァンタンの知らない顔だった――がその場を去るのを見送る。
それから彼は、何気なく、ルキン邸を振り返った。
三階建ての屋敷の裏は、昼間だというのに妙に寒々しく見えて、ヴァンタンは唇を歪めた。
「ああ、あなた、エルファラス商会の人ね?」
不意に声をかけられて、配達人は視線を地上に戻した。
「そうですけど。何か?」
勝手に騙られないように、商会の配達人は腕章を着けるのが決まりだ。商会の配達機構を利用するような立派なお宅の使用人はそれをよく知っていているから、無関係な人間がエルファラスの者ですなどと言って入り込むことはできない、という訳である。偽造でもされればどうしようもないが、そこまでやる暇人もあまりいない。
「窓の掛け布を夏物に換えたいの。近い内に行くから、見本を用意しておいて」
夏物、と言うからには冬用と掛け替えているのだろう。窓に掛ける布を買うというだけでも大尽だと思うのに、いちいち季節で換えるとは、大した話だと思った。
「判りました」
ただ思ったことは言わず、彼は笑みを浮かべてそう応じた。彼の仕事ではないが、売り子に伝えるくらいならできる。毎度有難うございます、とまでつけ加えておけば、商会の印象はばっちりだ。
「余計なことですが」
ふと思って、ヴァンタンは呟いた。
「去年のものは?」
「ご主人様が同じ色合いは飽きたと仰るから」
「ははあ」
それだけで全室総取っ替えとはずいぶん金のあることだ、とか、それはいったいどっから出てくる金なのやら、とかは思ったが、ここは黙っているべきである。店が潤ってくれるのならば商会主の気分次第で賞与だって有り得るし、だいたい、わざわざ反感を買う必要はない。
「何でしたら」
その代わり、思いついたことを口にする。
「見本品をお持ちしましょうか?」
「え?」
「お得意様だ。それくらい、させてもらいますよ」
これも配達人の仕事ではない。依頼をされたならもちろんやるが、自分から言うことではない。しかもいまのは、金は取らないという言い方である。こういった親切の積み重ねで信頼と親愛を得、仕事を取る――というやり方もあるが、いまはそんなことを考えている訳でもない。
「そう? それなら助かるわ。何か配達があるときにでも、頼むわね」
「毎度」
足がかりひとつ、と考えながらヴァンタンはにっこりと笑ってみせた。




