06 いつまでもこのままで
思いがけないものを見たとき、人は瞬時、反応に迷うものだ。
〈青燕〉亭のひとり息子は、そのとき調理の手をぴたりととめて、まじまじとそれを見た。
「……焦げるよ」
「それ」に言われてはっとなり、慌てて鍋を振る。
「何だよ、突然。俺は言ったろ、三度目はご免だって」
「そうか。あれは不良たち云々じゃなくて、もう僕の顔を見たくないという意味だったのか」
ファドック・ソレスはそう応じて肩をすくめたが、特に恐縮したりだとか、申し訳なく思うような風情はなかった。
「それなら四度目は避けよう」
「馬鹿。冗談だよ」
トルスは上手に鍋の中身をひっくり返しながら返した。お見事、と少年は、前夜にトルスが男を昏倒させたときと同じ台詞を口にした。
「何の用だ? まさかうちの飯を食いにきた訳でもないだろうが」
「どうして『まさか』なんだ。飯時じゃないか」
「まあな」
今日も屋台は繁盛中。あまりお喋りの暇はない。
「ひと皿、頼む」
言われてトルスは、目を見開いた。
「まじか?」
「そんな嘘を言って何になる?」
「いやでも」
何かにはなるかも、とトルスはさっぱり判らないことを言った。
「剣をおもちゃにした罰で、朝飯は抜き。腹が減ってるんだよ、料理人」
ファドックは顔をしかめた。トルスは笑う。
「先生にばれたってか。ま、同情してやる。だがな、おごってはやらねえぞ」
ちゃんと払えよ、と言えば少年は、仕方ない、と返した。
突然の訪問は驚きだが、こちらが向こうの氏素性を知らないのと異なり、ファドックの方ではトルスを〈青燕〉の息子と知っているのである。有名店という訳でも――当然――なかったから、ちょっと訊いて判るということもないはずだが、根気か運か、少年はそのどちらかを使って彼の仕事場を探り当てたということだ。
しかし、腹が減っただけなら何も彼を訪れずともよい訳で、もちろんファドックにはトルスに「何か用」があるはずだ。
何だろうかと若者は内心で首をかしげたが、いまどきは忙しくてあまり余計なことを考えていられない。トルスは詮索を一旦脇において仕事を続けた。
少しすると、正直なところ、少年のことを忘れた。
本日、晴天。
こういう日は大忙しになるものだ。
トルスはロディスと怒鳴り合いながら、汗だくになって火を使い続けた。
ようやく一段落したところで訪問者のことを思い出し、きょろきょろと見回す。石畳の上に不規則に並べられている全屋台共有の卓を順々に眺めたが、トルスはファドックの姿を見つけられなかった。
(何だ)
彼は拍子抜けする。
(本当に、飯を食って帰っちまったってか?)
下町の飯はお坊ちゃんの口に合わなかったとか――などと少し思ったが、そんなこともないだろう。
よい家に世話になっているがそこの坊ちゃんではない、というのは何度も当人が主張していることだ。屋台の仕組みについても把握しているようだったし、その辺りは本当なのだろう。それにだいたい、勝手に足を運んでおきながら、不味かったので機嫌を悪くしたということだったら、馬鹿げている。
もとよりトルスは自分の腕に自信を持っているから、たとえファドックが本当はやっぱり「お坊ちゃん」なのだとしても、自分の飯は美味いと感じるはずだと思っていた。
もっとも、ファドックが彼の飯を買っていってから、けっこうな時間が経っている。話をしようと待っていたものの、いつまでもトルスが忙しそうなので諦めたとか、そういう感じなら有り得そうだ。
「どうした。誰か探してるのか」
あちこち見回している息子に目をとめて、ロディスは尋ねた。
「ん、まあ」
トルスは曖昧に答える。
「知った顔が、いたんだけどさ。帰ったみたいだ」
息子は事実そのままを言い、そうかと父親は答えた。
「なあ、息子よ」
「何だよ」
ロディスの声が妙に真面目に聞こえて、トルスは何事かと片眉を上げる。
「気にかかる相手がいるなら、ちゃんと伝えんと伝わらんぞ」
やってきた台詞はそれで、トルスは目を白黒させた。
「なっ、ばっ、違えよ、気味悪ぃこと言うな」
「何が気味悪いだ。照れ隠しにしても、娘さんに対して」
「野郎だよ。オ・ト・コ!」
「何だ」
ロディスはがっかりした顔をした。
「恋人候補じゃないのか。残念そうに言うから、てっきりそうかと。何だ、つまらん。ナティカにだって浮いた話があると言うのに、お前ときたら」
「ナティカの惚れっぽさは知ってるだろ」
げんなりとして、トルスは言った。
「まあな、よく泣いてたもんな。俺ぁ正直」
あごの辺りをかきながら、ロディスは続けた。
「あの子がお前の嫁になってくれたら安心できると思ってるんだが」
「阿呆っ、何でそういう話になる!」
若者は悲鳴のような声を上げた。
「だいたい、いきなり何なんだその展開は。いつも、俺の嫁さんはもとより、女友達のことだって気にかけないじゃないか」
「『口にしない』と『気にかけない』は違うんだ。俺はいつだって気にしてたが」
ロディスは首を振った。
「――俺の息子じゃ、かいしょなしかもなあ」
「おいっ」
トルスは顔をしかめた。
「貶めるんなら自分だけにしときやがれ。こっちまで巻き込むな」
いったい父親が何を思って突拍子もない話をはじめたのかと訝っていた息子だが、ようやく理解できたと思った。
お前には甲斐性がないと、そう言いたかっただけなのに違いない。
「言っとくがな、ナティカは現在、いい男と恋愛中だ」
この場合の「いい男」というのは、顔かたちではない。内面でもない。余程の失敗をしない限り食いっぱぐれのない安定職を持つ男、の意である。
加えて言うなら恋愛「中」ではなく、ナティカが一方的にうっとりしている段階に過ぎないが、ロディスへの説明はこれくらいでいいだろうと思った。
「おかしなこと、言いふらすんじゃねえぞ」
ナティカがトルスの嫁候補など、当の少女が聞いたところでただ笑い飛ばすだけだろう。だが商会の仕事仲間だとか、何かでうっかりラウセアの耳にでも入ってしまったら、平手のひとつも食らいそうだ。
「そうか。ナティカは無理か」
ロディスは肩を落とした。何なんだ、とトルスは思う。
(こんなこと)
(これまで、一度だって)
言わなかっただけだというのがロディスの主張であるようだが、それにしたって唐突だ。
(――親父も)
(年、取ったのかな)
ふっとそんな考えが浮かんだ。
トルスは、ロディスが三十代半ば過ぎの頃にできた子供だ。極端に遅いと言うほどでもないが、決して早くはない。
二十歳くらいで父親になり、子供もその辺りで結婚をすれば、孫の成人くらいまでもつき合えるだろう。だが、もしトルスがいますぐ妻を得て、早くに子供ができたとしても、そこから十五年は――少しきつい。
七十を超せばかなりの長寿、というのが一般的な感覚だった。
年を取れば取るほど病の精霊に取り憑かれやすくなり、ちょっとした風邪でも回復に時間がかかる。
いつ病を得て起き上がれなくなるかは、判らないものだ。ぱたっと逝ってしまうことだってある。
五十半ばで現役の下町料理人というのは、かなりの健康体である証だ。若い頃からそうしてきて、体力ができていると言うのはあるだろう。普通であれば、節々が痛くて長いこと立っていられないとか、何か病持ちだとか、そういうことが多い。
トルスはそういったことを頭では理解していたが、やはり彼はまだ若く、言葉の上でしか考えていないところがあった。
しかしこのとき、若者の心にふっと影が差したのだ。
いつまでも父親と舌戦をしながら、〈青燕〉をやっていくことはできない。
トルスの方で大きな病を得るとか事故に遭うとかがなければ、確実に、ロディスが先に世を去る。
当たり前と言えば当たり前だ。考えるまでもないこと。
だがこのとき、若者は寂寥感を覚えた。
心のどこかでは、いつまでもこのままでやっていられると、そう思っていたような気がする。
それが間違いであることに、急に気づいてしまった。
(……ええい)
トルスはぶんぶんと首を振った。
(阿呆らしい。何も、今日明日という話じゃないんだし)
(だいたいよ)
(もしも「父と息子の語り合い」をしたいんなら、たとえば閉店後とか)
(もうちょっとしんみりできるときにやれってんだ)
昼間の喧噪のなかでは、感傷も保たない。いや、こんな思いなど、長持ちさせたくはないが。
「おい、いつまでぼんやりしてる。こっちは俺がやるから、とっとと空いてる卓でも片づけてこい」
「――てめえが変なこと、口走るからだろうが」
若者は普段の調子で口汚く罵り、青空食堂の片づけに向かうべく石畳を蹴った。




