05 恋する乙女
昨夜は、一睡もできなかった。
と言うのはちょっと言い過ぎだったが、とても「よく眠れた」と言えないことは事実だ。
トルスにはいくら感謝してもし足りない。もうこうなったら、刃物騒ぎを起こしたちんぴらにだって感謝する。
あの人に、家まで送ってもらうなんて!
ナティカはラウセアとの短い逢い引き――もちろん、ただ歩いただけであるが――を思い返しては、うっとりとしていた。
「よう、ナティカ。……何、にやついてんだ?」
「にっ、にやついてなんかないわよ」
かけられた声に少女ははっとなり、次いで抗議をした。いまのは「夢見る乙女」の表情だったはずだからである。
「おはよ、ヴァンタン」
「おう、おはよう」
エルファラス商会の配達人は、今日も頭の後ろで茶色い尻尾を作っている。以前には「うっかり伸びたから仕方なく括っている」という風情だったのに、最近はヴァンタンの特徴のようになってきた。
何しろ、髪を切っても結べるくらいの長さを残しているのだから、当人にもその意志があるのだろう。
「カートは? まだか?」
「うん? そうね、見ないわね」
ナティカはきょろきょろと店内を見回して、それから答えた。
「昨日の話、聞きたいのになあ」
「だよなあ、俺もだ」
「うん?」
ナティカはまた言った。
「何で、ヴァンタンが?」
「何でって」
男は目をしばたたいた。
「昨日の会議の件。それだろ?」
「うん?……ああ、そうか、それがあったわね」
思い出すとナティカは、両手をぱんと合わせた。ヴァンタンは首をかしげる。
「ほかにも何かあるのか」
「それがねえ、昨夜」
ナティカは思い返しながら語った。
「カートの奴、お金持ちっぽいおじさまと歩いてたの」
「は?」
「別に、やばいとこ見つかったって感じでもなかったから、秘密の関係とかじゃないんだろうけど」
「おいおい」
ナティカがアヴ=ルキンと行き会ったとき、その隣にいたのは同僚のカートと黒い肌の少年だった。そのときの彼女は早く町憲兵を呼ばなければという思いでいっぱいだったし、カートとは大して親しくもないのだ。ルキンが彼女に声をかけなければ、もしかしたら彼女から「町憲兵を見なかったか」と尋ねたことも有り得たが、むしろそのまま走り去ってカートのことなど忘れたかもしれない。
あとになって、医者がちんぴらどもを追い払っていた間カートはどうしていたんだろうと訝ったが、たとえばルキンに「少し待っているように」とか言われたんじゃないかと考えた。
どうして同僚が見るからに金持ちのあの医者と歩いていたのか、それは判らない。もしかしたら親戚とかなのかもしれないが、少なくとも似ている感じはしなかった。それを言ったらトルスと彼の嫌うビウェル町憲兵だって、ちっとも似ていないが。
少女の推測は、黒い肌の少年とカートが友人で、少年がルキンと知り合いなのだろうという辺りだった。「秘密の関係」は、いま思いついた性質のよくない冗談だが、どういう繋がりなのか尋ねてみたいと思っていたのだ。
「ま、とにかく、まだきてない、と」
ヴァンタンの方では「おじさま」とカート青年の関係を特に突き詰めることなく、そうとだけ言った。
「ちょっと配達仲間に聞いてみたんだが、おかしなことに、ティオが会議に呼ばれたらしい」
「ティオ?」
少女は首をかしげた。
「……って、誰?」
「だよなあ」
ヴァンタンはまた言った。
「数日前に入ったばかりの新人だよ」
「へえ、知らなかった。……って、何でそんな新人が?」
「だよなあ」
ヴァンタンは繰り返す。
「カートの件と言い、もしやうちんとこの商会主は、二十歳くらいまでの若いのに店の将来を託すという画期的な計画を」
「どこが画期的なのよ」
容赦なくナティカは指摘した。
「そんなの、危なすぎるじゃない」
若いというのは情熱があると言い換えることもできるが、必ずしも全員には当てはまらない。いや、その「情熱」がどこへ行くかは判らないということだ。
真面目にやっていても、ただ金のためだけに働き、何かほかのことを目指しているかもしれない。店のために粉骨砕身して働こうと思っているとは限らない訳である。
殊、ヴァンタンのように家族でもあればともかく、独り身であればふらりと辞めてしまうことだって珍しくない。
店側としては、雇ったばかりの若者に対しては「いくらでも代わりが利く」という程度の仕事しか与えず、いきなり去られても問題が生じないようにしている。ある程度の年月を経て、信頼できると――最低でも、何も言わずにこなくなったりしないと判れば、もう少し重要な仕事を与える。一般的なことだ。
「だがなあ」
今度は同意の台詞ではなかった。
「カートは、まあ、二年くらいいるとしても、ティオに関しちゃさっぱり意味不明だ。インガスなんか、年寄りはもう要らん、と首切られるんじゃないかと心配してる」
配達人は体力勝負。インガスはまだ三十を越したくらいであるが、どうしたって十代に比べれば「年寄り」だ。
もっとも、体力があればいいと言うのでもない。街の地図を頭に叩き込み、得意先に失礼がないように対応し、場合によっては次の仕事を手に入れることもある、配達人というのは決してただの「運び屋」ではなく、商会の「顔」にもなる重要な役職だ。
その割には給金は大してよくないのだが、それはさておき、走り回れるかどうかだけではなく、知恵と経験が要る仕事である。熟練のインガスが解雇されるようなことがあったら、雇い人たちは商会主の頭がおかしくなったのではないかと思うだろう。
「まさかそれはないでしょ」
ナティカは手を振った。
「あ、もしかしてヴァンタンも心配してる?」
「ちょっとな」
男は親指と人差し指で、ごくわずかな量を示すようにした。
「いまの給金だけじゃ、正直、不安なんだ。そろそろ何か副業でもやらんことには、アニーナはもとより、子供の世話もしてやれない」
「そっかあ」
ヴァンタンの妻アニーナも働いているという話を聞いたことがあるが、お腹が大きくなってきたら、休まなくてはならないだろう。切り詰めれば夫婦ふたりくらいは食えるかもしれなかったが、出産にはお金がかかるし、赤子が産まれれば、ますますだ。
「頑張ってね、ヴァンタン。あ、でも無茶はしないでね」
「家族のためなら少しくらいの無茶をやるのが、いい夫でいい父親ってもんだよ」
「それでヴァンタンが体調崩したら、どうすんのよ」
「そりゃ本末転倒だ」
父親になる男は笑った。
「ありがとな、ナティカ」
ヴァンタンは少女の肩をぽんと叩いた。
「あっ、そうだ!」
ナティカは大声を出し、ヴァンタンはびっくりした顔をした。
「あたしこそ、ヴァンタンにお礼言わなきゃ」
「俺に?」
「そうそう。あのねっ」
彼女は目をきらきらと輝かせて、ラウセアに送ってもらった話をする。
「ヴァンタンが、彼に恋人はいないって教えてくれたから、何だかもう、夢見ながら歩いちゃった!」
「そりゃよかった」
男はにやりとした。
「次の逢い引きの約束は取り付けたか?」
「ちょ、ちょっとそこまでは……」
ナティカは慌てて首を振った。
「何だ何だ。それだとラウセアは『仕事』としか思ってないぞ」
ラウセアの友人は見事な指摘をした。
「それじゃ今度、あいつの巡回経路を教えてやる。見かけて挨拶をするくらいなら、不自然じゃなくなった訳だからな」
「……ちょっと変質者的じゃない?」
ナティカは顔をしかめた。トルスも「付近を張ったらどうだ」なんて言ってきたが、そういうことをやると「恋する乙女」から「やばい女」に一歩近づくような気がする。
「何もあとを尾けろとか言ってないよ。あいつがたまたま通るところをナティカもたまたま通る。それだけだ」
ヴァンタンは片目などつむった。どうかなあ、とナティカは苦笑した。
「隣に怖いおじさんがいるが、挨拶くらいなら文句は言わない」
「あ、知ってる。昨日も会った。ビウェルさんでしょ」
「そう、それ」
「何だか羨ましい」
「は?」
「ビウェルさん、ラウセアさんと仲よさそうだったもん」
「……そういう感想は、初めて聞いた」
思わずと言った体で、ヴァンタンは呟いた。
「だが、何でまた町憲兵隊の詰め所に?」
「トルスがさ、ちょっとちんぴらに絡まれて」
正確なところは少し違うがだいたいこんなものだろうと、少女は詳細を省いた。
「刃物まで出されちゃって。焦ったわよ」
「何? 大丈夫だったか?」
「うんうん、平気。あたしはもちろん、トルスもかすり傷ひとつ、なし」
「そりゃよかったが……うん、トルスが一緒でよかったな」
送るように言っておいてよかった、とヴァンタンは自画自賛した。
「トルスがいなければ、絡まれなかったと思うけど」
ナティカはついそう言ったが、ヴァンタンは首を振って、トルスと同じようなことを言った。絡まれなかったかもしれないが、ほかのことをされたかも、と。
「そうだ。お前さんが上がるくらいの時間帯に、ラウセアをこっちに回らせてやろうか。あんなことがあって怖いからまた送ってほしいとか言えば」
「や、やめてよ、そんなの。恥ずかしいじゃないっ」
ナティカは両手を頬に当てた。
「積極的なのか消極的なのか判らんな」
ヴァンタンは笑った。
「まあ、そう言うならそこまではやらないさ。……しかし」
男は店内を見回した。
「遅いな、カート」
「そうね、そろそろ遅刻よ」
「俺もいつまでも待ってられん。出なけりゃな」
配達人は伸びをした。
「ティオにも聞いてみるが、そっちも会議の内容を聞き出せたら、あとで教えてくれ」
「判った、そうする」
ナティカは手を振って、ヴァンタンを見送った。




