12 運命の絡まり(完)
〈名の知れぬ時間の神〉の力は強い。
どんなに苦く、痛い思い出も、時間は薄めていく。
新たに生まれ続ける日々を前に、いつまでも立ち止まっていれば、奔流に溺れてしまう。人は歩き続けるしかない。
季節は巡り、時は流れる。
記憶はいつか、遠くなる。
人は追憶だけに生きてはいられないのだ。
それでも、ふとした折に思い出す。苦い出来事は変わらず苦いのに、心弾ませた出来事を思い返しても、そのときほどの喜びは得られない。何だか理不尽だ。
「トルス、トルス!」
彼を呼ぶ声に振り向けば、呼んだ相手は「あっち」とばかりに指を差す。その先を見て、トルスは判ったとうなずいた。
「何だ。どうした」
厨房の端までずかずかと歩くと、白い調理着をきた料理人は訪問客をじろじろと眺めた。
「腹が減ったから何か食わせろとでも言うんじゃあるまいな。王陛下の命令でも、飯の時間はずらせんぞ」
「けっこう。その発言は覚えておこう」
三十前ほどの年齢の男は、肩をすくめてそう応じた。
最初にこの濃紺の制服姿を見たときは、何の冗談かと思ったものだ。もっとも、ジルセンが前料理長を引き連れて、〈青燕〉から〈西の海図〉亭に手伝いに出ていたトルスを城の下厨房へ勧誘にきたときも、大した冗談だと思ったものだが。
「人手不足だと騒いでいただろう。近い内にひとり、新人を入れられるかもしれない。その話をしにきたんだ」
「はあ? 護衛騎士様が料理人の選任か?」
アーレイド城の下厨房と呼ばれる、使用人用の食事の調理責任者は、じろじろと第一王女殿下付きの騎士を見た。
「それはどういう冗談の流れだ」
「どうして私に、お前を笑わせる必要がある?」
「ないな。お前が何を言ったって、大して面白くなんかない」
トルスはそう言い捨てて、大きな手を振った。
「本気なら、もう少し詳しく聞かせろ。どこかの料理人か」
「いや、調理に携わったことがあるかは判らない。おそらく、ないだろう」
「おいおい。わざわざ素人よこすってか?」
「利発そうな少年だ。仕込めばものになるだろう。もっとも、お前が人を育てるなど無理だと言うのなら、ほかの仕事場を考えるが」
「この野郎。生意気言いやがって。判ったよ、何でもいいからよこせ」
投げやりに言うと、ファドック・ソレスは笑った。
あれから二十年近い月日が流れていた。
自らの運命を泳ぎ切ることに必死で、トルスは遠い出来事を思い返すことは滅多になかった。ひとつの事件のなかで知り合い、数度ばかり顔を合わせ、死んだと聞かされた男のことは記憶の片隅にあったが、どんな顔をしていたかは忘れてしまった。
ファドックに至っては、その男と顔を合わせることも、名前を聞くこともなかった。
それは不思議な運命の絡まりだった。
そうとは知らぬままでトルスは、遠い日に無事の誕生とその幸を占った少年と出会い、関わり合っていくこととなるが、それは彼の人生を書いた歴史書の内の、一章にすぎない。
「そうだ、ファドック」
ふと思い出して、トルスは友人を呼んだ。
「ラウセアの話、聞いたか?」
「いや? 聞かないようだが」
「ナティカが旦那自慢にきた。副隊長になったとさ。次期隊長かもしれないな」
「それは素晴らしいな」
ファドックは黒い瞳に笑みを浮かべた。
「ここだけの話」
そこで彼は少し声をひそめた。
「現隊長は、いくらか権威に弱い傾向がある。だがラウセア殿ならば、毅然とした態度を取れるだろう」
「お前が言うか?」
少し呆れて、トルスは言った。
「私は別に『権威』ではないがな」
ファドックは応じたが、トルスはやはり呆れる。
「阿呆。お前がどう思ってようと、周りはそう見るに決まってんだろうが」
「その『周り』に、お前は含まれなさそうだが?」
「当たり前だ。いまさら騙されるか」
「人聞きの悪い」
男は渋面を作った。
「ビウェル殿の方は、隊長になる機会を蹴ったことがあったな。彼があの大不祥事の後始末をしてくれれば、信頼の回復は早かっただろうに」
十数年ほど前、町憲兵隊に黒い噂が流れたことがあった。金を受け取って犯罪者に利便を図っていた者がいたことが判明したのだ。
小さな事件であれば一町憲兵の裁量に任されることが大きく、小金を手にして、たとえば掏摸程度を目こぼしする町憲兵というのは、いなくもない。もちろん許されないことだが、哀しいかな、そういったことは横行するものだ。
金額が少額であったり、犯罪が軽いものならかまわないと言うのでは、無論ない。
しかし、より多くの金額でより重い犯罪を自分の利益のために操っていた、そのことは大問題となった。いまでは、あのヘルサレイオス事件のときに町憲兵隊の動きをとめたのも、その人間の仕業であったことが判っている。
あとになって考えてみれば、あのとき町憲兵隊は動くことができた。彼らがあのときに気づいていれば、異なる結果が得られたかもしれない。
ビウェルらもファドックもそれを悔やんだ。火事は変わらずに起きたかもしれないが、アヴ=ルキンを逃すことはなかったかもしれなかったから。
しかし、過去を悔やんでも詮無いことだ。
内通者がいた内になかなか定めることができなかった法は、彼が放逐されたあとに素早く制定された。いまのアーレイドではあの頃よりもずっと、その手の薬に関する決まりが厳しくなっている。
「いまでは町憲兵にも監査が入るようになったが、それも情けない話だ。ビウェル殿が隊長を引き受けてくれていれば、隊のなかで綱紀粛正ができただろうと思う。残念だった」
「阿呆」
トルスはまた言った。
「あんなのが隊長になってたら、苦情が町憲兵隊を通り越して城にくるぞ、城に。それも、大量にだ」
大げさすぎるほどに、町憲兵の親戚は両手で大きな輪を作るような動作をした。
「だいたいあの野郎、いつまで現役やってんだ。いい加減、もう爺ぃだろう。そろそろ引っ込みゃいいのに」
「そうか?」
ファドックは少し笑った。
「町憲兵ではない彼が、想像できるか?」
「……できんな」
彼は天を仰いだ。
「もっとも、彼らには規定もある。ひと通りの体力測定に落ちれば、引退ということになるが」
「そんなもんに落ちる可愛げがあったら、笑ってやる」
唇を歪めて、トルスはそう言った。
「あれは死ぬまで町憲兵やってるね。賭けてもいい」
「生憎と、賭けにならないな」
私も同じ方に賭ける、とファドックは返した。
「――料理長! やばい、魚がひと箱足りない!」
「なぁにぃ!?」
剣呑な顔で、下厨房料理長は背後を振り向いた。
「誰だ、荷受けしたのは。いや、誰でもいい、それはあとだ。仕方ない。全部、一口大に切れ。揚げ物に変更する」
「げっ」
「まじ!?」
「時間ないよ、トルス」
「馬鹿野郎、文句言う間に手を動かせば間に合う!」
ぱん、と料理長が手を叩けば、料理人たちはそれ以上抗議をせず、了解と動き出す。
「新人の話はまたあとでな、ファドック。俺は忙しい」
「判った。今日の仕上がりを楽しみにしておく」
「てめえは上で食えるだろうが。こっちくんな」
「私の自由だろう?」
「け、好きにしろ」
手を振ってアーレイド城の下厨房料理長トルスは仕事に戻り、王女の護衛騎士たるファドックも、自身の任に戻るため踵を返した。
「幸運の果実」
―了―
関連作品案内
ビナレス・シリーズ
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