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聖子 ーーカルトの親に育てられた子ーー(改稿版)  作者: はまゆう


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第二章 朝の祈り

【資料】光輪真理会・地域支部会報『光の道』第百二十九号(抜粋)


特集 家庭は小さな聖所


子どもは、神から預けられた尊い器です。親はその器を、この世の汚れから守り、清く保つ責任を負っています。


テレビ、雑誌、インターネット——世の中には、子どもの魂を蝕むものが満ちています。親がその一つひとつを選び、取り除くことは、決して行き過ぎではありません。それは、愛の務めです。


子どもが「なぜ」と問うとき、親は答える必要はありません。まず、共に祈りましょう。答えは、祈りの中に与えられます。


― 支部長 大谷貴志


---


【資料】地方紙『みなみ新報』地域面(三月下旬・抜粋)


青葉台中学校で卒業式 「自分の道を歩んで」


青葉台中学校の第○回卒業式が二十日、同校体育館で行われ、卒業生百二十三名が学び舎を巣立った。式では、一人ひとりが壇上で卒業証書を受け取り、在校生代表から送辞が贈られた。


卒業生代表の御厨聖子(みくりやせいこ)さん(十五)は「支えてくださった方々への感謝を忘れず、新しい場所でも学び続けたい」と答辞を述べた。保護者席からは温かい拍手が送られていた。


---


第二章 朝の祈り


 目覚ましが鳴る少し前に、廊下の床が軋んだ。


 聖子は布団の中で目を開けた。天井の木目が、まだ薄暗い中でぼんやりと浮かんでいた。布団の外は寒かった。もう三月も終わりだというのに、朝の空気はまだ冬の名残を残していた。


 母の足音は、部屋の前で一度止まる。指の背で戸を二度叩き、それから開ける。いつも、その順だった。ノックの音は、指の関節ではなく、指の背で叩くので、柔らかい音がした。トン、トン、と二度。返事を待たずに戸が開く。


「聖子。起きましょう」


「起きてる」


 返事を終える頃には、母の手がカーテンを引いていた。カーテンのリングが、レールの上を滑る音がした。曇りだった。窓の明るさを見て、聖子はもう少し眠りたいと思った。卒業式は昨日済んでいて、今日は学校へ行く日ではなかった。それなのに、体はまだ、学校へ行く朝のリズムを覚えていて、目が覚めてしまった。


「顔を洗って。お湯を出しておいたから」


 母は戸を開けたまま出て行った。開けっ放しの戸の向こうに、廊下の薄明かりが見えた。聖子は枕元の目覚ましを止めた。鳴らなかった朝にも、いったん止めなければ、あとから鳴る。この家では、目覚ましより母の方が早かった。聖子は、母が毎朝何時に起きているのか、知らなかった。聞いたこともなかった。聞けば、母はきっと「早起きは良いことよ」とだけ答えるだろう。


 布団を畳んでから、聖子は洗面所へ行った。蛇口を捻ると、温かい湯が出た。母が言った通りだった。聖子は両手を湯に浸し、しばらくその温かさを確かめていた。指の先が、じんじんと温まっていく感覚がした。


 居間の祭壇には、新しい花があった。白い菊と、まだ固い蕾のついた枝だった。母が昨日、卒業式の帰りに買ったものだった。花の根元の値札を見て、聖子は高い方を選んだのだと思った。母は安くなった花束を買うこともあるが、祭壇へ上げる時には、傷んだ花びらを一枚ずつ取った。その手つきは、いつも丁寧で、少しも惜しむ様子がなかった。


 二人分の座布団が並んでいた。聖子は左へ坐った。膝にスカートの裾を広げ、手を合わせた。正座を続けていると、足首の内側が、座布団の重みに押されて、少しずつ痺れてくるのが分かった。


 母が声を出した。聖子も続いた。言葉を思い出す必要はなかった。途中からでも、どこを唱えているか分かった。母が咳をして一節抜けると、その間だけ自分の声が残った。その声が、いつもより大きく聞こえた。今朝は、昨日の卒業式を思い出していた。証書を受け取る時、体育館の床に黄色いテープが貼ってあった。そこで一度止まるよう練習したのに、本番では、止まったかどうか分からなかった。後ろから見ていた母なら、覚えているだろうか。祈りの言葉が、一つ先へ進んだ。聖子は遅れずに続けた。祭壇の上の時計は、母の肩の向こうにあった。見ようとすると顔が動くので、見なかった。


「試練は、神の愛の証です」


 母と声が揃った。前は、ここで母の声に追いつくと嬉しかった。自分の声が母の声と重なる瞬間が、聖子は好きだった。今は、揃っても、その嬉しさが、少しだけ遠かった。なぜなのか、聖子には分からなかった。卒業したからだろうか。それとも、別の理由だろうか。


 終わると、母は花瓶の向きを直した。花の向きを、窓の光の方へ少しだけ傾けた。


「式、ちゃんと出来てた?」


 聖子は膝を崩しながら聞いた。足の甲に、正座の痺れがまだ残っていた。


「昨日の?」


「証書を貰うところ」


「出来てたわよ」


「止まる場所、少しずれた気がして」


「そんなの、分からなかった」


 母は振り返った。母の目が、聖子をまっすぐに見た。


「でも、呼ばれた時のお返事は、一番よかった」


 聖子は笑った。母の言い方が、少し大げさで、それがおかしかった。


「全員分、覚えてるの」


「お母さんには、そう聞こえたの」


 母は座布団を重ね、台所へ運ぶ盆を取った。聖子も立ち上がった。足の裏が少し痺れていた。しばらく、感覚が戻るまで、その場で足踏みをした。


---


     *


 朝食の卵焼きには、葱が入っていた。母は甘い卵焼きが好きだったが、聖子は葱の入った方が好きだった。昨日の残りかと思ったら、まだ切り口から湯気が出ていた。母は、聖子が起きる時間に合わせて、焼き直してくれていたのだろう。そのことに気づくと、聖子は少しだけ、申し訳ないような気持ちになった。


「熱いからね」


「分かってる」


 すぐ箸をつけたので、舌の先が熱くなった。母がこちらを見た。聖子は平気な顔をして、御飯を口へ入れた。熱い、と言えば、母はきっと、冷ましてから食べなさい、と言う。それが分かっていたので、言わなかった。


「今日、何時に出るの」


 聖子が聞いた。


「お母さんは九時半。支部のお掃除があるから」


「お昼は?」


「戻るわ。何かある?」


「図書館、行こうと思って」


「学校の?」


「駅の向こうの。返す本があるし」


 母は味噌汁の椀を置いた。椀が、膳の上で、小さな音を立てた。


「今日は、入学の書類を書くんじゃなかった?」


「昨日、書いた。お母さんの署名を貰うところ以外」


「そう」


「帰ってきてからも、時間あるし」


 最後の一言は、要らなかったと思った。母は箸で漬物を取り、少し考えていた。その少しの間が、聖子には長く感じられた。


「本を返すだけ?」


「借りたいのがあれば、借りる」


「お昼までには帰れるわね」


 聖子は頷いた。行ってはいけないと言われると思っていたわけではなかった。それでも、許可が出ると、肩の辺りが楽になった。母の許可は、いつも、聖子の肩から、少しずつ力を抜いていく。


「電話は、ちゃんと持っていって」


「うん」


 聖子は、自分のスマートフォンを思い浮かべた。母のスマートフォンには、聖子の位置情報を常時確認できるアプリが入っている。聖子自身のスマートフォンにも、同じアプリが入っていた。母が設定したものだった。聖子は、そのアプリのことを、母とは一度も話したことがなかった。話す必要も、なかった。


 食べ終わると、聖子は二人分の食器を洗った。母は居間で、卒業式に着た上着を広げていた。教団の人から譲られたものだった。袖口の内側の布が浮いていて、昨日、母は電車の中でもそこを指で押えていた。


「それ、取れそうだったね」


「見えてた?」


「帰りに」


「糸が弱っていたのね」


 母は裁縫箱を開けた。聖子は水を止めた。昨日、教室の後ろには、明るい色のスーツを着た母親が何人もいた。母の上着は紺で、胸に飾りもなかった。聖子は一度、隣の人の襟についた小さな金色のものを見て、それから母を見た。見比べたのが自分でも分かった。母は気づかなかったらしく、聖子と目が合うと、小さく手を振った。その手の振り方が、少しだけ、遠慮がちだった。


「聖子」


 呼ばれて顔を上げると、母が針を差し出していた。


「通してくれる?」


 聖子は手を拭き、針と糸を受け取った。糸の先を指で揃えると、一度で通った。針の穴が、朝の光を受けて、小さく光った。


「助かる。最近、ここの電気だと見えにくくて」


 母が受け取った針には、紺の糸が長く下がっていた。聖子は上着の袖を押えてやった。母の指が、聖子の指のすぐ隣で、針を動かしていた。


---


     *


 図書館へは一人で行った。母と一緒に家を出たが、駅へ続く道の途中で別れた。横断歩道の手前で信号が変わり、聖子は止まった。向こう側で、母がこちらを見ていた。聖子が気づくと、電話を持つ仕草をした。聖子は鞄を少し上げて見せた。持っている、と伝わったらしく、母は歩き出した。母の背中が、人混みの中に、少しずつ小さくなっていった。


 借りていた本は、今日が返却期限ではなかった。明後日だった。帰宅してから母が貸出票を見れば、それは分かる。でも、返す本がある、としか言わなかったので、嘘ではなかった。聖子は、自分が嘘をついているわけではない、と心の中で確かめた。確かめなければならないこと自体が、少しだけ、苦かった。


 返却台へ二冊を置いた。


「続きも入っていますよ」


 カウンターの人が一冊を示して言った。


「読みました?」


「いえ」


「小説の棚の、同じところにあります」


 聖子は礼を言った。続きが出ているのは知っていた。読みたいと思いながら、青蘭に受かった後まで借りずにいた。落ち着かなかったからではなく、受験生なのに小説を読んでいると、母に何か言われるかもしれないと思ったからだった。母は、聖子が本を読むことを、決して禁じてはいなかった。ただ、読んだ本の内容を、あとから必ず聞いた。その質問に答えるのが、聖子には少し、重かった。


 今なら、読む理由を考えなくてよかった。棚から取り出し、最初の頁を開いた。前の巻の最後に別れた二人が、まだ別々にいた。すぐに再会するのかと思っていたので、聖子は少し驚いた。そのまま数頁読んだ。立っていることを思い出したのは、誰かが後ろを通った時だった。


 閲覧席は、窓際が空いていた。聖子は椅子を引き、本を置いた。椅子の脚が、床で小さく鳴った。読んでいるうちに、声を出して笑いそうになった。主人公が、気を利かせたつもりで相手の邪魔をした。説明しようとすればするほど、もう一方の機嫌が悪くなっていた。聖子には、何がいけなかったか分かった。でも、自分でも同じことを言ったかもしれないと思った。口を押え、続きを読んだ。


 鞄の中で、電話が震えた。母だった。


〈着いた?〉


 画面の時刻は十時七分だった。


〈着いてる〉


 返事をすると、すぐ既読がついた。


〈場所が図書館の裏になってるから〉


 聖子は窓の外を見た。駐輪場があった。図書館の表へ回れば、正しく表示されるのだろうかと思い、椅子から少し腰を浮かべた。移動してどうするのだろう。母に位置を教えるために、読みたい場所から離れる必要はなかった。


〈中にいる。窓のところ〉


 送ると、母から丸い顔の絵が返ってきた。笑っている絵だった。聖子は本へ目を戻した。さっきまで読んでいた行が分からず、頁の初めから読み直した。母の笑っている絵が、頭の隅に、しばらく残っていた。


 十一時に、席を立った。昼までには、まだ一時間あった。帰りにどこかへ寄るつもりもなかったが、十二時近くなると、母は、まだ図書館なの、と連絡してくるかもしれなかった。借りる本を抱えたまま、雑誌の棚へ寄った。表紙の隅に、葉の断面の写真が載っていた。細胞の間が、思っていたより大きく空いていた。学校で習った図とは違う形に見えた。聖子は本を持ち替えて、雑誌を開いた。写真は何枚もあり、同じ葉の表と裏が並べてあった。説明を読み、もう一度写真を見た。次の頁にも写真があった。目を上げると、十一時二十三分だった。その号だけ貸出しが出来なかった。聖子は鞄から青いノートを出した。題名と号数を書き、頁の数字を添えた。下へ、葉の中の隙間、と書いた。もう一度来て、続きを読もうと思った。


---


     *


 家の前で母と一緒になった。母は自転車を押していた。前籠には、洗剤と雑巾の入った袋があった。


「借りられた?」


「うん」


「重そう。何冊?」


「三冊」


「そんなに読めるの」


「一冊は、全部読むんじゃないから」


 母が鞄へ手を伸ばした。聖子は持ち手を渡した。


「ああ、これの続きなのね」


 母は一番上の小説を見た。


「まだ終わらないの?」


「これで最後」


「そう。長いのね」


 家へ入ると、母は三冊をテーブルに並べた。小説と、図の多い植物の本と、青蘭の上級生が紹介していた本だった。母は最後の本の裏表紙を読み、扉を開いた。聖子は冷蔵庫から麦茶を出した。


「難しそうね」


「最初だけ読んだけど、そうでもなかった」


「変わったことが書いてあるからって、すぐに信じないようにね」


「うん」


「本になっているから、全部正しいわけじゃないのよ」


「分かってる」


 返事が少し速かった。母は聖子を見た。


「あなたは、よく覚えるから」


 言って、本を閉じた。


「覚えてしまう前に、ちゃんと考えないと」


 聖子はグラスへ麦茶を注いだ。自分では、考えてから覚えることと、読んだので覚えていることの区別がつかなかった。覚えないように読む方が、難しかった。言っても説明が長くなりそうだったので、母の分のグラスを出した。麦茶が、グラスの中で、小さく揺れていた。


 昼は、残りの御飯で炒飯を作った。母が葱を刻み、聖子が卵を溶いた。


「夕方、相沢さんが寄ってくださるから」


 母が言った。相沢は支部で母と一緒に働いている女性だった。聖子の小さい頃を知っていて、会うと昔の呼び方で名前を呼んだ。


「何時?」


「四時頃。合格、お祝いしたいんですって」


 聖子は、泡立った卵を見た。午後は本を読むつもりだった。


「お母さん、夕方まで出るんじゃなかったの」


「相沢さんの御都合がついたから、変えていただいたの」


「そう」


「聖子のために、いらしてくださるのよ」


「分かってる」


 また、同じ返事をした。母は包丁を置いた。


「何か予定があった?」


「ない」


 聖子は答えた。誰かと約束しているわけではなかった。自分一人で本を読むつもりだった。それを予定と言っていいのか、少し迷った。母は、聖子の返事を待っていた。聖子が何も言わないので、母は、また包丁を持った。


---


     *


 相沢は、聖子の合格通知を両手で持った。


「立派になったわねえ」


 テーブルには、母が淹れた茶と、相沢の持参した蜜柑があった。聖子は台所から座布団を運び、母の隣へ坐った。


「お母さんも、よく守ってこられたもの」


 相沢が言った。


「いえ、私なんか」


 母は膝の上で手を重ねた。


「聖子ちゃんも、これでますます御奉仕が出来るわね」


 聖子は、渡された通知の端を揃えた。紙の下に、三角に折れた跡があった。相沢が持っている間に折れたらしかった。


「今度の青年の集まりで、お話ししてもらえないかしら。受験を控えた子たちもいるでしょう」


「勉強のことですか」


 聖子が聞くと、相沢は母を見た。母が、聖子へ顔を向けた。


「お祈りを続けて、よい結果を頂いたお話よ」


 聖子は通知をテーブルへ戻した。


「どう勉強したかも、聞きたいでしょうけどね」


 相沢が付け足した。


「まず、何に支えていただいたかをね」


 聖子は膝の上へ手を置いた。


「何分くらい、ですか」


「十分あれば、十分よ」


 相沢は笑った。聖子も、少し遅れて笑った。相沢の笑顔は、いつも少しだけ、聖子を試しているように見えた。試している、という言葉が正しいかどうか、聖子には分からなかった。ただ、相沢の前では、聖子はいつも、自分の言葉を、一度飲み込んでから口に出していた。


 話が終わったのは、六時近くだった。母と一緒に玄関で見送ると、相沢は靴を履いてから、聖子の肩へ手を置いた。


「外には、いろんな誘惑があるからね。頭のよい子ほど、自分一人で分かると思ってしまうの」


 聖子は頷いた。


「お母さんのお話を、よく聞くのよ」


 相沢の手は、温かかった。聖子はその手が離れるまで、肩を動かさなかった。相沢の手のひらが、聖子の肩から離れた後も、その温かさが、しばらく残っていた。


 夕食後、母は裁縫箱を出した。


「シャツのボタン、ゆるんでいるでしょう」


 聖子は、着ていたシャツの袖口を見た。


「あとで自分でやる」


「今、糸が出ているから」


 着替えて持っていくと、母は襟を撫で、袖の裏へ指を入れた。聖子はその隣へ坐った。針が通る時、ボタンが小さく傾いた。


「今日、何か嫌なことがあった?」


 母が聞いた。


「どうして」


「あまり喋らないから」


 聖子は、母の指を見た。


「普通だよ」


「そう?」


 母は糸を引いた。


「中学校では、つらいこともあったでしょう。ああいう子たちのことは、もう気にしなくていいのよ」


 聖子は顔を上げた。


「お母さん、長谷川先生も喜んでくれた」


「ええ。先生には、お世話になったわね」


「クラスでも、制服の写真、見せてって言われた」


「そう」


 母はボタンを引き、取れないか確かめた。


「でも、聖子には、もっと前から喜んでくださる人がいるでしょう。今日の相沢さんだって、小さい時からずっと」


「うん」


「あなたは一人じゃないの」


 聖子は頷いた。母の声は優しかった。ここで、本を読んでいたかった、と言ったらどうなるだろうと思った。相沢が嫌いなのではなかった。合格を祝ってくれたのも、嬉しかった。ただ、図書館で読んだ物語の二人が、その後、どうなったのか知りたかった。それを言うために、先に、嫌いではない、嬉しかった、と説明しなければならない気がした。その説明は、きっと長くなる。長くなれば、母は、聖子が何を言いたいのか、分からなくなるかもしれない。分からなくなる前に、聖子は、言うのをやめた。


「はい。出来た」


 母は糸を切り、ボタンの周りを爪で整えた。聖子はシャツを受け取った。


「ありがとう」


 母は針穴を灯りへ向け、次の糸を差した。何度かやり直し、今度は自分で通した。母の指が、針の穴の前で、少しだけ止まっていた。


---


     *


 部屋へ戻ると、借りた本は三冊とも机の上にあった。朝、家を出る時と同じ場所に、椅子があった。聖子は腰を下ろし、小説を開いた。図書館で笑いそうになったところを、もう一度読んだ。今度は笑えなかった。つまらなくなったのではなかった。面白いと思ったことを、覚えていた。少し先まで読むと、二人は一緒に食事をしていた。気まずいまま、それでも、同じ皿から取っていた。聖子は頁をめくった。


 十時になる前に、母が戸を叩いた。そのまま開いた。


「もう休みましょう。卒業したからって、遅くまで起きていると戻せなくなるから」


「あと、少し」


「どのくらい?」


 聖子は頁の端を持ったまま、後ろを見た。章の終わりまで、十二頁あった。


「十分くらい」


「十分ね」


 母は机の上を見た。青いノートが、本の下から半分出ていた。


「使い始めたの」


「うん」


 母の手が、ノートの角へ触れた。聖子は動かなかった。中には、見られて困ることは書いていなかった。母は本の重さを確かめるように指を動かし、それから手を離した。


「無くさないようにね」


「うん」


 母が出て行くと、聖子は椅子の上で少し膝を寄せた。戸は半分開いていた。閉めに立った。取っ手を回すと音がするので、戻す時だけゆっくり動かした。机へ戻り、青いノートを引き出した。最初に書いた本の題名と、読みたい本、という自分の字があった。その下に、今日の日付を書いた。図書館で記した号数の隣へ、忘れないように、窓側の雑誌棚、と書き添えた。次の行で、ペンを止めた。午後は本を読むつもりだった。そんなことを、ここには、そのまま書けた。聖子は書いた字を一度読み、ノートを閉じた。小説へ戻った。十分が過ぎるまでは、時計を見なかった。


 十一時を過ぎた頃、聖子は顔を上げた。窓の外は、もう真っ暗だった。遠くの家の明かりが、いくつも並んでいた。聖子は、その明かりを、しばらく数えていた。途中で分からなくなって、また最初から数え直した。数え終わらないうちに、眠くなった。


 電気を消す前に、聖子はもう一度、青いノートを開いた。「読みたい本」という五文字が、薄暗い部屋の中で、ぼんやりと浮かんでいた。聖子はその文字を、指でなぞった。インクは、もう乾いていた。指の腹に、インクの跡はつかなかった。


 聖子はノートを閉じ、電気を消した。布団に入ると、母の足音が、廊下の向こうで、小さく聞こえた。母は、まだ起きていた。何をしているのだろう、と思った。聞きに行くことは、しなかった。聖子は目を閉じた。母の足音が、少しずつ遠くなっていくようだった。本当は、近づいていたのかもしれない。眠りに落ちていく聖子には、もうどちらか分からなかった。


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