第一部 閉ざされた世界 第一章 まだ誰も知らない
【資料】青蘭学園高等学校 入学案内パンフレット(抜粋)
「自由と責任」
青蘭学園は、創立以来百余年、自主性を重んじる教育を行ってまいりました。生徒一人ひとりが自ら考え、自ら選び、自ら責任を負う。その姿勢こそが、変化の激しい現代社会を生き抜く力になると信じております。
本校には、家庭の経済状況にかかわらず、高い志と優れた学力を有する生徒を迎えるための「特待生制度」がございます。学費の免除を含む本制度は、開かれた学びの場を守るための、本校の大切な伝統でございます。(以下略)
― 校長 藤堂誠司
第一章 まだ誰も知らない
合格通知は、母が開けた。
御厨聖子が学校から帰ると、居間の低いテーブルに、封筒と、二枚の紙が並べてあった。母の真理亜は、その前へ正座していた。背筋がまっすぐで、両手は膝の上に揃えられていた。まるで、届いたばかりの知らせを、まだ自分のものにしてはいけないとでもいうような姿勢だった。
「鞄を置いて、手を洗っていらっしゃい」
いつもと同じ言い方だった。けれども、母は聖子の顔を見ると、少しだけ唇を噛んだ。笑うのを我慢している時の癖だった。聖子はその癖を、物心ついた頃から知っていた。母が本当に嬉しいとき、あるいは本当に悔しいときに、唇の端がわずかに内側へ引き込まれるのを。
聖子は靴を揃え損ねた。片方の踵がもう片方へ乗っているのを直してから、洗面所へ行った。蛇口を捻ると、しばらく冷たい水が出た。給湯器が作動するまでの数秒が、その日はやけに長く感じられた。水が温かくなるのを待てなかった。手を拭く間も、廊下の向こうの白い紙が気になった。
「ちゃんと拭いた?」
母の声が、洗面所の外から聞こえた。
「うん」
指の間がまだ濡れていた。スカートへ擦りつけようとしてやめ、洗面所へ戻った。タオルは、決まった場所に、決まった形で畳んで掛けられていた。聖子はそれを広げ、指の一本ずつを丁寧に拭いた。なぜか、その日の母の声には、普段の「ちゃんとしなさい」とは違う響きがあった。急かすような、それでいて、どこか聖子を労わるような。
居間へ入ると、母が隣を叩いた。畳の上に、母の掌の跡が一瞬だけ残って、消えた。
紙の上に、青蘭学園高等学校、とあった。印刷された文字なのに、なぜか母の声で聞こえた気がした。聖子はその下へ目を滑らせた。
合格。
特待生。
入学金及び授業料。
聖子はそこで、いったん最初へ戻った。自分の受験番号と、氏名を確かめた。「御厨聖子」という四文字が、見慣れない書体で並んでいた。合格者番号の一覧の中で、自分の番号だけが、少しだけ浮き上がって見えた。
「受かった」
声にすると、それまで止めていたらしい息が、続いて出た。胸の奥が、じわりと熱くなった。うまく言葉にできない感情だった。嬉しい、という一言では足りない気がした。もっと重くて、もっと静かなものが、ゆっくりと胸の底に沈んでいくような感覚。
「ええ」
母の声は、静かだった。けれども、その静けさの中に、聖子には聞き分けられる震えがあった。
「特待も」
「そう。ほら、こっちにも」
母が、二枚目を近づけた。紙の端が、わずかに震えていた。
特待生としての採用を通知する書面だった。制服、指定教材、諸会費、学校行事に関する費用は別途負担とある。聖子は、その少し上にある文をもう一度読んだ。
「お母さん、入学金も要らないって」
「読んだわ」
「授業料だけじゃなくて」
「だから、ちゃんと読んだって」
母が笑った。聖子も笑った。母の笑顔は、家の中で見せるものと、外で見せるものとで、微妙に違う。家の中の笑顔のほうが、少しだけ長く続く。聖子はその違いを、なんとなく知っていた。
母は紙の端へ掌を置き、反りを直した。それから聖子の背中へ手を回した。
「よかったね」
肩が触れた。母のカーディガンには、夕食の支度をした匂いが少しついていた。味噌汁の匂いと、ほんのりと甘い、煮物の匂い。聖子は頷いた。母の肩の骨が、自分の肩に当たって、少し硬く感じられた。母は痩せている。聖子は、そのことを急に思い出した。毎日の食事は質素で、母はいつも、聖子に多くを盛り、自分には少ししか盛らない。
「神様は、ちゃんと見ていてくださったのね」
母の掌が、肩をゆっくり撫でた。その手のひらは、聖子の肩を二度、三度と往復した。教団の祈りの最中に、母が聖子の背中を撫でるのと同じリズムだった。聖子は、そのリズムを知っていた。安心するリズムだった。同時に、少しだけ、息が詰まるリズムでもあった。
聖子は通知へ目を戻した。嬉しかった。母が嬉しそうなのも、嬉しかった。もう少しこのままでいたくて、黙っていた。母の手のひらの温かさが、肩から背中へゆっくりと広がっていくのを、聖子はじっと感じていた。
やがて母が手を離すと、聖子はようやく、紙の上に自分の指を置いた。合格、という二文字を、指の腹でなぞった。インクはもう乾いていた。当たり前のことなのに、なぜかそれを確かめたかった。
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翌朝、担任の長谷川へ報告すると、先生は職員室の椅子を半分だけ後ろへ引いた。きしむ音が、静かな職員室に響いた。
「特待も取ったか」
「はい」
「そうかあ」
手に持っていた赤ペンを置き、もう一度、そうか、と言った。長谷川は、聖子の成績表を、いつも他の生徒より少し長く見る先生だった。特別扱いをしているわけではない。ただ、聖子の答案には、時々、授業で扱わなかった解法が書いてあった。先生はそれを、赤で丸をつけずに、横に小さく「なるほど」と書くことがあった。
聖子は、その反応がおかしくて、少し笑いそうになった。
「よく頑張ったな」
「ありがとうございます」
聖子は頭を下げた。勉強をしなかったわけではない。青蘭の過去問を解き、出題の仕方を確かめた。時間も計った。五年分の過去問を、三回ずつ解いた。二回目からは、答えを覚えてしまっている自分に気づいて、少し嫌になった。それでも、三回目は、制限時間を短くして解いた。
ただ、長谷川の言う頑張った、という言葉に似合うほど、苦しいことをした気はしなかった。英語の長文は、一度読めば、どの段落に何が書いてあったか大体覚えていた。歴史は、年代だけを切り離して覚えるより、先に何が起きていたか分かる方が楽だった。数学も、途中の式がつながると、その先が見えた。解けない問題はあった。そういう問題は、風呂へ入ってからも気になった。母に呼ばれて考えるのをやめると、翌朝、髪を結んでいる途中に分かることがあった。その時は嬉しかった。誰かに話したくなったが、朝の食卓で数式の話はしなかった。母は、食卓での会話を、いつも「今日の御言葉」から始める人だった。
「高校では、もっと面白いものがあるぞ」
長谷川は言った。
「先生、高校の数学も教えてたんですか」
「いや。俺は中学だけだ」
「じゃあ、どうして」
言いかけて、聖子は口を閉じた。長谷川が笑った。
「自分が高校生だったことくらいある」
「あ」
「俺のこと、何歳だと思ってる」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってるよ」
先生は赤ペンを取り上げた。
「青蘭なら、図書館も大きいしな。お前、見学に行ってたろう」
「はい」
今度は、すぐに答えた。見学の日、聖子が一番長くいたのは図書館だった。小説もあったが、それ以上に、授業の科目へそのまま分けられない本が多いのがよかった。名前も知らなかった分野の棚があり、同じ題材について、違う人の書いた本が何冊も並んでいた。案内の上級生が、読みたい本がなければ購入希望を出せると教えてくれた。借りた本の返却期限も、自分で確かめた。図書館の入口に、生徒の探究発表が展示してあった。身近な疑問から調べたという、小さな冊子が幾つもあった。聖子は一冊を途中まで読み、次の人が来たので、元へ戻した。続きを読みたかった。そのことを、長谷川に話そうか迷った。
「行っても、たまには顔を見せろよ」
長谷川が言った。聖子は、また頭を下げた。先生の机の上には、生徒の作文が何枚も重ねてあった。一番上には、赤ペンで大きな花丸が描かれていた。聖子は、その花丸を、なぜか覚えていた。
職員室から戻る途中、同じクラスの女子二人が、掲示板の前にいた。高校の合格者一覧が貼り出されていた。
「受かったんだって?」
一人が聞いた。聖子は頷いた。
「青蘭? すごいじゃん」
「ありがとう」
「あそこ、制服可愛いよね。いいな」
もう一人は掲示板を見たままだった。聖子は、その子がこちらを向くかどうか、少し待ってしまった。去年、昼休みに何度か一緒に図書室へ行った子だった。小学校の頃から教団の集まりへ連れて行かれていたと知られた後、隣の席が空いていても、鞄をどけなくなった。その子の鞄は、いつも椅子の背もたれに掛けられていた。聖子が隣に座ろうとすると、その子は、少しだけ椅子を引いた。悪意というより、反射に近い動きだった。
聖子は、その動きを、最初は気のせいだと思うことにしていた。偶然、荷物を片付け忘れただけ。偶然、椅子の角度がそうなっただけ。そう思い込むための理由を、聖子はいくつも持っていた。けれど、同じことが三度、四度と続くうちに、偶然という言葉は、だんだん重さを失っていった。
それでも聖子は、その子を責める気持ちには、どうしてもなれなかった。むしろ、自分の方が悪いのだと思った。教団のことを知られたのは、自分がうっかり、集会の帰りに制服のまま駅で会ってしまったからだ。あの日、挨拶をしなければよかったのか。それとも、挨拶をされた時、笑わなければよかったのか。聖子は、何度もその場面を思い出し、どこで間違えたのかを探した。答えは、いつも見つからなかった。
見つからないまま、聖子は、その子の鞄が椅子に掛かっているのを見るたび、何も見なかったような顔をして、別の席を選ぶことを覚えた。それは、傷ついたと認めるよりも、ずっと楽な方法だった。傷ついたと認めてしまえば、次に同じことが起きたとき、またその分だけ、傷つかなければならなくなる。聖子は、それを避けたかった。
昼休みも、同じように、聖子は静かな場所を選んで過ごすようになっていた。
中学二年の終わり頃までは、給食の時間、机をくっつけて食べる班があった。聖子もその一員だった。けれど三年になって、班替えの形が緩やかになり、仲のいい者同士が、自然に集まって食べるようになった頃から、聖子の机の周りには、誰も椅子を寄せてこなくなった。
聖子は、それを誰かに責められたわけではなかった。ただ、気づけば、自分の机だけが、教室の中で孤立した形になっていた。最初の数日は、それでも仕方がないと思っていた。けれど、一週間が経ち、二週間が経つうちに、聖子は、昼休みのチャイムが鳴る少し前から、お腹の底が重くなるのを感じるようになった。
誰かと食べたいとは、はっきり思わなかった。ただ、一人であることを、周りに見られたくなかった。聖子は、昼休みになると、教科書を開いたまま食べることで、一人でいる理由を、自分にも、見ている誰かにも、与えようとした。勉強をしているから一人なのだ、と。好きで一人なのではない、と。
弁当箱の蓋を開ける音さえ、やけに大きく聞こえる日があった。聖子は、その日も、教科書の陰に半分隠すようにして、母の作った弁当を食べた。白米と、卵焼きと、青菜の和え物。彩りの少ない弁当だった。クラスメイトの弁当箱からは、時々、聖子の知らない匂いがした。コンビニのパンの袋の音や、笑い声が、少し離れた席から聞こえてくることもあった。聖子は、その笑い声の中身を、わざと聞かないようにした。聞いてしまえば、自分がそこにいないことを、もっとはっきりと感じてしまう気がした。
それでも、聖子は、誰かを恨む気持ちを、うまく持つことができなかった。恨むより先に、自分のどこがいけないのかを考える方が、ずっと馴染みのあることだった。母から教わってきた言葉が、いつも、聖子の中で先に立った。試練には意味がある。耐えれば、いつか報われる。聖子は、昼休みの重さも、その言葉で、どうにか飲み込もうとしていた。
だから、青蘭学園の合格通知を受け取った夜、聖子の胸にあった感情の中には、ただの喜びだけでなく、もう一つ、小さな期待が混ざっていた。
新しい学校でなら、今度こそ、誰かと一緒に、弁当箱の蓋を開けられるかもしれない。
その期待を、聖子はまだ、誰にも話していなかった。
自分の席へ戻ると、聖子は鞄から数学の問題集を出した。休み時間にそれを開くと何か言われることがあったので、表紙を下にして机へ置いた。それでも、ページをめくる音で気づかれることがあった。聖子は、ページをめくる速度を、少しだけゆっくりにした。
卒業まで、あと三週間だった。
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制服の採寸には、日曜日に行った。指定店は、駅から少し歩いた商店街の外れにあった。古いビルの二階で、階段の踊り場には、創立百周年の記念写真が飾られていた。
二階には、青蘭の制服を着た人形が置かれていた。学校案内の写真より、襟の線が細く見えた。
母は持ってきた上着をきちんと畳み、膝へ載せた。畳み方は、家で洗濯物を畳む時と同じだった。端を揃え、しわを掌で伸ばし、もう一度端を揃える。聖子は、その手つきを、何度も見てきた。
聖子が試着室から出ると、すぐに立ち上がった。
「少し大きいかしら」
「肩はこのくらいで大丈夫ですよ。まだお伸びになりますし」
店員が袖口を直した。店員の指は、慣れた手つきで、袖のボタンを留めたり外したりしていた。
鏡には、紺の制服を着た自分がいた。胸の校章へ目が行った。中学の制服にはなかった刺繍だった。聖子は、その刺繍を、指でそっと触れた。
「どう?」
母が聞いた。
「うん」
「動きにくくない?」
「大丈夫」
少し横を向いた。肩を後ろへ引き、また戻した。鏡を見ることに夢中で、返事が足りなかったと気づいた。
「これがいい」
「これがいいって、学校で決まってるのよ」
母はそう言いながら、笑っていた。聖子は、母のその笑い方が好きだった。家の中の笑顔と、外の笑顔の、ちょうど中間のような笑い方だった。
必要なものの注文票は、思ったより長かった。夏服、冬服、体操着、上履き、通学鞄。母は店員の説明を聞きながら、鉛筆で小さな印をつけた。替えのシャツは、あとからでも注文出来ると言われ、一枚減らした。
「洗えばいいものね」
聖子へではなく、自分へ言うような声だった。聖子は、母の横顔を見た。母の鉛筆が、注文票の上で、少しだけ止まっていた。
隣の席では、男の子の母親が、祖父の代から青蘭なのだと話していた。その母親の声は、どこか誇らしげで、それでいて、少しだけ急いでいるようにも聞こえた。
「主人も、売店の場所が変わったって驚いてました」
店員は、よく伺います、と答えた。
聖子は注文票を見た。数字を上から足していくと、母が持参した封筒の金額を、少し越えていた。母の封筒は、いつも同じ茶色だった。教団の封筒だった。表には、小さな光の輪の印が印刷されていた。
「ベストは、後でもいいって」
聖子は言った。
「必要なら買いましょう」
「春は、上着もあるし」
母は注文票から目を上げた。
「せっかく入るんだから、要るものは揃えないと」
聖子は頷いた。母はベストの欄へ、印をつけた。その鉛筆の音が、やけに大きく聞こえた。聖子は、自分のために、母が無理をしているのではないかと思った。その思いを、口には出せなかった。口に出せば、母はきっと、悲しそうな顔をする。悲しそうな顔をしながら、それでも印を消さないだろう。聖子は、それが分かっていた。
帰りに、聖子は店の階段で青蘭の生徒とすれ違った。制服を着た女子が二人、話しながら上がってきた。一人は紙袋を幾つも持ち、もう一人は鞄の持ち手へ小さな動物の飾りをつけていた。
聖子は、その飾りを見た。思っていたより、普通だった。学校見学で会った上級生は皆、姿勢よく案内をし、質問にも淀みなく答えた。自分もあんなふうに話さなければと思っていたが、この二人は、笑いながら言い直したり、相手の腕を引いたりしていた。
「ねえ、それ違うって。売店、二階だって」
「え、さっき一階って言ったじゃん」
「言ってないよ。聞いてなかったでしょ」
聖子は、少し安心した。数学の話ばかりをする必要もないのだろう。話したくなった時に、話せればよかった。聖子は、すれ違う二人の会話を、もう少しだけ聞いていたかった。
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駅前の書店に、文房具の売場があった。母が教団の知人へ電話をしている間に、聖子はそこへ入った。母の電話は、いつも長かった。支部の誰かの体調のこと、集会の準備のこと、献金の集計のこと。聖子は、母の電話が終わるまでの時間を、本屋で過ごすことが多かった。
学年別の参考書の棚を通り、ノートの前で止まった。薄い青色の表紙があった。罫線の幅を確かめてから、閉じた。教科ごとに使うには、一冊では足りなかった。指定のノートがあるかもしれなかったし、入学前に買う必要はなかった。それでも、もう一度開いた。最初の頁には、日付や題名を記入する欄もなかった。白い頁が、ただ、そこにあった。聖子は、その白さを、しばらく見ていた。
「何か要るの?」
後ろから母が言った。電話は、もう終わっていた。聖子は、母がいつからそこにいたのか、分からなかった。
「これ」
「ノート? 家にも余っているでしょう」
「これは、違うのに使うから」
「違うのって?」
聖子は、白い頁を見た。見学の日、図書館の入口に、生徒の探究発表が展示してあった。身近な疑問から調べたという、小さな冊子が幾つもあった。聖子は一冊を途中まで読み、次の人が来たので、元へ戻した。続きを読みたかった。自分も何か書くなら、まず、気になったことを忘れないようにしたいと思った。
そう説明すればよかった。でも母へ話すと、何について調べるのか、どんな人が読むのかと尋ねられそうだった。母の質問は、いつも、聖子の答えの一歩先まで用意されていた。
「まだ、決めてない」
聖子は答えた。母が少し眉を上げた。
「決めてから買えば?」
聖子は値札を見た。財布には、買えるだけのお金が入っていた。お年玉の残りと、祖母がこっそりくれた千円札が二枚。祖母は、母の前では、聖子にお金を渡さなかった。母が台所に立っている時を見計らって、聖子の手のひらに、素早く握らせた。その時の祖母の目は、いつも少しだけ寂しそうだった。
「自分で買う」
母の顔を見ないで言った。口に出してから、言い方が強かったと思った。
「お年玉の残りで」
付け足すと、母は、そう、と言った。
「無駄にしないようにね」
聖子はレジへ行った。小銭を出す時、十円玉を一枚、床へ落とした。拾って振り返ると、母が入口で待っていた。母の姿は、書店の明るい照明の中で、少しだけ小さく見えた。聖子は、母のほうへ、小さく頭を下げた。母は、頷かなかった。ただ、じっと聖子を見ていた。
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電車では、母と並んで坐った。母は制服の出来上がる日を、手帳へ書き込んでいた。手帳は、教団のものが使われていた。表紙に、光の輪の印があった。
「青蘭でも、集会のある日は早く帰れるように、先生にお話ししておかないとね」
母が言った。
「最初は、まだ時間割が分からないから」
「分かったら、すぐに」
「うん」
母は手帳を閉じた。電車が揺れ、聖子の肩へ母の腕が触れた。その温かさを、聖子は知っていた。母の腕は、いつもより少しだけ硬かった。聖子は、母が何を考えているのか、聞きたかった。でも、聞けなかった。聞けば、母はきっと、教団のことか、聖子の将来のことを話し始める。その話は、いつも長く、そして、聖子には少し難しかった。
帰宅したら、通知のコピーを支部へ持っていくと母は言っていた。皆が喜んでくれるから、一緒に行こうと。聖子は窓へ目を向けた。硝子に、紙袋を抱えた自分が映っていた。その隣に、母の横顔が映っていた。母は、窓の外の景色を見ていた。聖子は、母の横顔を、窓越しにじっと見た。母の目は、どこか遠くを見ていた。
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夜、聖子は青いノートを机へ置いた。母に見つからないよう隠すほどのものではなかった。勉強に使ってはいけないとも言われていない。それでも、すぐには開かなかった。
先に、学校から届いた書類を揃えた。提出するものと、持っていくものを分け、日付を確かめた。学校案内の写真には、中庭のベンチで話す生徒たちが写っていた。何を話しているのだろうと思った。撮影のために集められたのかもしれない。そうでなければ、隣の人と目が合っただけで、あんなふうに笑えるのだろうか。
聖子は、図書館の頁を開いた。あそこには、まだ読んでいない本があった。分からないと言っても、変な顔をされないだろうと思った。分かったと言った時も、同じであってほしかった。
机の上のノートを開いた。名前を書く場所を決め、細いペンで、御厨聖子、と書いた。その下へ、高校、と書きかけて、やめた。四月から使うものだが、授業だけのために買ったのではなかった。
何を最初に書けばいいか、まだ決まらなかった。聖子は学校案内を引き寄せ、図書館の利用についての小さな説明を読んだ。写真の下に、生徒が選んだ本の紹介があった。見学の時に案内をしてくれた上級生の名前も載っていた。その人が勧めていた本の題名を、最初の行へ書いた。
次の行を空けた。しばらく考えて、そこへ、読みたい本、と書き足した。
ペンを置いて、聖子は自分の書いた文字を見た。「読みたい本」という五文字が、白い頁の上で、少しだけ浮いているように見えた。聖子は、その五文字を、指でなぞった。インクは、もう乾いていた。
窓の外では、夜風が、カーテンを小さく揺らしていた。聖子は、しばらく、その揺れを見ていた。明日、母と支部へ行けば、このノートのことは、きっと誰にも話さないだろう。話す必要もない。これは、聖子だけのものだった。生まれて初めて、聖子は、自分だけのものを、持った気がした。
その夜、聖子は、久しぶりに、何の夢も見ずに眠った。




