銀の皿が落ちた日
銀の皿が、床に落ちた。
甲高い音が、豪華な大広間に響き渡る。
赤い絨毯。
金の装飾。
山のように並ぶ料理。
その中心で――私は、腹を押さえていた。
熱い。
何これ。
熱い。
「どうして貴族だけ……!」
女の叫び声が耳を裂く。
目の前には、メイド服姿の女。
その手には、血の滴るナイフ。
「どうしてあんたたちだけ豪華な食事があるのよ!」
周囲の騎士たちが一斉に動く。
「取り押さえろ!!」
怒号。
悲鳴。
誰かが私の名前を呼んでいる。
でも、そんなことより――
女は、泣いていた。
「少しは民のことを考えろよ……!」
震える声。
憎しみと、怒りと、絶望。
その瞳が、頭から離れない。
なんでそんな顔をするの?
食べ物なら、ここにたくさんあるじゃない。
テーブルを見れば、肉も魚も果物もある。
食べきれないほど。
飢える?
そんなの、理解できない。
だって――
「姫様!!」
膝から力が抜ける。
視界が傾く。
赤い。
ドレスが、赤く染まっていく。
「医者を呼べ!!」
遠ざかる声。
薄れていく意識。
その中で、最後に見えたのは。
床に落ちたパンを、必死に見つめる女の姿だった。
――私は、この大国の第一王位継承権を持つ王女。
六歳。
名前は、ミレイユ・ヴェルディア。
飢え?
ありえない。
だって王城には、捨てるほど食べ物があるのよ?
足りないなら作ればいいじゃない。
民なんて、頭が悪いから貧しいの。
私たち貴族のために働くのが役目。
汚くて、下品で、臭くて。
同じ空気を吸うのも嫌だった。
――本当に?
誰?
頭の中に、知らない声が響く。
あなたたちの食を支えているのは、その“気持ち悪い存在”でしょう?
違う。
ベッドの上で、ミレイユはゆっくりと目を開けた。
重い。
体も、頭も。
腹部には分厚い包帯が巻かれている。
少し動くだけで、焼けるような痛みが走った。
「姫様……!」
侍女が泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
その声で、昨夜の記憶が脳裏に蘇った。
銀の皿。
怒号。
血。
そして――
『どうして貴族だけ豪華な食事があるのよ!』
ミレイユの指先が震えた。
あの女は、泣いていた。
憎しみだけじゃない。
怒りだけでもない。
絶望だ。
「……ご飯は?」
掠れた声が漏れる。
侍女は目を瞬かせた。
「え?」
「昨日の……料理……」
喉がうまく動かない。
胸の奥がざわつく。
「捨てて……ないわよね?」
侍女は困惑したように顔を見合わせた。
「えっと……残飯処理係が……」
その瞬間。
吐き気がした。
残飯。
その言葉が、胸に突き刺さる。
頭が割れるように痛む。
――朝四時。
白い息。
泥だらけの長靴。
牛舎の匂い。
『麦ー!餌やり手伝ってー!』
笑い声。
土の感触。
鶏の鳴き声。
汗。
雨。
台風で潰れた畑。
それでも、
「今年も頑張るべ」
って笑う大人たち。
『いただきます』
両手を合わせる声。
――ああ。
ミレイユは、息を呑んだ。
思い出してしまった。
前世の記憶を。
五十嵐 麦。
農業高校に通う、
ど田舎育ちの普通の女の子。
牛を愛し。
鶏を愛し。
土を愛し。
命に感謝しながら生きていた少女。
そして同時に。
理解してしまった。
自分が、
どれほど愚かだったのかを。
「足りないなら作ればいいじゃない」
そんな言葉を。
私は、
何も知らないまま吐いていた。
食べ物は、
勝手に湧いてくるものじゃない。
誰かが土を耕し。
汗を流し。
眠る時間を削り。
命を育て。
やっとの思いで繋いできたものだ。
その命を。
私は――踏み躙っていた。
「う……っ」
涙が零れる。
胸が痛い。
傷口じゃない。
もっと奥。
心臓を握り潰されるみたいに苦しい。
どうして今まで気づかなかったの?
テーブルに並ぶ肉も。
パンも。
卵も。
全部。
誰かが繋いできた命だったのに。
「姫様!? ど、どうされたのですか!?」
ミレイユは震える声で呟いた。
「……昨日、私を刺した人は?」
空気が止まる。
数分後。
豪華な寝室には、国王と王妃がいた。
二人とも、青ざめた顔でミレイユを見つめている。
「ミレイユ、本当に大丈夫なのか?」
「まだ安静に――」
「答えて」
ミレイユの声は震えていた。
「昨日、私を刺した人は……どうなるの?」
国王が低く答える。
「あと数刻で処刑だ」
その瞬間。
ミレイユの顔色が変わった。
「……は?」
王妃が慌てて口を開く。
「あんな危険な女に情けをかける必要はありません」
違う。
違う。
あの人は。
ただ苦しかったんだ。
「どうして……?」
ミレイユは呆然と呟く。
「飢えてるって……何?」
国王が眉をひそめた。
「民の問題だ。お前が気にする必要はない」
その言葉を聞いた瞬間。
ミレイユは、ベッドから飛び降りた。
激痛が腹を裂く。
傷口が開き、
白い寝衣が赤く染まった。
「姫様!!」
それでも止まれない。
知らなきゃいけない。
この国を継ぐなら。
食を語るなら。
命を語るなら。
私は――飢えを知らなければならない。




