第10話:低音と鼓動
『国立マーチング・フィルハーモニー』の練習室は、常に摂氏22度、湿度50%に保たれている。
楽器のコンディションを完璧に維持するため、そして奏者の雑念を排除するためだ。
「……0.02秒、遅い。やり直しだ。」
打楽器セクション主任、**石田賢祐(40)**の鋭い声が響く。
彼はJASAの音楽理論を血肉化した男だ。そのスティック捌きは、もはや人間というよりは精密なメトロームと言っても過言ではない。
タケルが機材運搬係として潜入し、一週間が経った。石田の背後で、予備のスネアドラムを抱えながら、その指先の動きを脳内の「偽装プログラム」に記録し続けていた。
石田の技術は圧倒的だ。しかし、タケルの脳波の奥底で脈動する音は、その完璧な音に異議を唱えていた。
(……この音には、『熱』がない。)
タケルは反発したい衝動をぐっと抑え、無機質なスタッフとして振る舞う。今はまだ、自分のレベルとスキルを上げるための「学習」の時だと、自分に言い聞かせた。
その様子を、電子コントラバスの調整をしながら静かに見守っている男がいた。
ベース担当、沢江泰博(38)。
知的で落ち着いた佇まいを見せる彼は、この楽団の中でも特に「耳」が良いことで知られている。
「……林田タケル君。あまり石田さんの手元を凝視しすぎない方がいい。視線一つで集中が乱れるのを嫌うんだ。」
休憩時間、楽器のメンテナンスをしていた沢江が、穏やかな声でタケルに話しかけた。その物腰は柔らかいが、眼鏡の奥の瞳は、タケルの本質を見透かすような深みを持っている。
「……すみません。少しでも勉強させていただきたくて。」
「向上心があるのは良いことだ。……でも、なぜ今更、奏者ではなくサポートとしてここに入ったんだい?僕と少ししか変わらないはずだ。もっと気になるのは、 君の動きを見ていると、ただの運搬係にしては、あまりにリズムに対して『飢えて』いるように見えるんだが。」
沢江の静かな問いに、タケルは息を呑んだ。嘘をつけば見破られそうな、不思議な圧迫感。
「……僕は自分の『音』が、どこまで通用するのか知りたかったんです。
正規の音楽教育を受けていない僕が、サポートといえど偶然にもこの世界に入ることができた。
だから、もっと深い技術を学びたいんです。」
タケルが絞り出した答えに、沢江はわずかに口角を上げた。
「……なるほど。独学か。面白いね。今日の練習後、第4リハーサル室に来なさい。研修という名目で、君の『ドラム』を聴かせてもらおうかな。」
その日の夜。無人のリハーサル室。
沢江は愛用の黒い電子コントラバスを構え、タケルに練習用のドラムセットを指し示した。
「JASA指定の基本巡行曲。BPM120。僕のベースに合わせて、一回通しでやってみよう。力まず、正確にね。」
セッションが始まった。
沢江のベースは、深く、穏やかで、それでいて強固な土台。タケルはそれに合わせ、忠実にリズムを刻む。
だが、曲が展開を迎えた瞬間。
タケルの脳内で、紗江に焼き付けられた「メタルの記憶」が暴れ出した。
正確なメトロノームのリズムではなく、腹の底を揺さぶるような、一歩踏み込んだ「グルーヴ」。
(……ここだ。この小節は次への展開への繋ぎ。少しだけ引っ張るんだ……!)
タケルが叩くスネアのタイミングが、ほんの数ミリ――JASAのAIなら「エラー」と弾くほど微かに、意図的に後ろへズレた。重厚な「タメ」が生まれた。
「……っ!?」
沢江の指先が、一瞬だけ震えた。
タケルの叩く8ビートには、この聖域の誰にもない「推進力」と「熱量」が宿っていた。それはただのミスではない。聴く者の血液を沸騰させるような、野性的なうねりだ。
片方に寄せられてた水が、一気に反対側に流れ込むような感覚。
演奏が終わると、静寂が部屋を包んだ。タケルはハッとして、自分の失態に気づき、冷や汗を流した。
「……すみません。まだまだリウムが甘いですね……」
「……いや....甘いところは確かにあったが、それより....。」
沢江は楽器を置き、眼鏡を拭きながら、タケルをじっと見つめた。その表情は、依然として穏やかだが、うちには確かな昂揚が滲んでいた。
「君の叩くドラムは……楽団のそれとは、全く違う『何か』を持っているね。まるで心臓の鼓動のような素直さがある。」
沢江は一歩、タケルに近づいた。
「面白いよ、タケル君。君がどのような音楽教育を受けてきたのかは聞かない。けれど……その音を磨き上げれば、この楽団に、面白い『リズム』が生まれるかもしれないね。」
沢江泰博。この冷静沈着なベーシストの胸の奥で、JASAの規律では決して満たされない「音楽への愛」が、タケルの音に共鳴し始めていた。
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メタル音楽の素晴らしさを伝えたいと思い稚拙ながら執筆いたしました。
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