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遙かに続く空は淡い春の色。ヴェインは花々の芳香の漂う庭園を歩いていた。
雪柳の枝垂れた枝が手招くように揺れる赤い煉瓦の歩道を行く。向こうに見える薔薇の生け垣の奥にはヴェインが幼少期を過ごした生家があった。墓守として、眠るエウリカの側にいる事を望んだグレイスが特別に許しを得て建てた邸だ。邸は無人となって久しく、外壁を縦横無尽に這う蔦のくすんだ緑が遠目にも廃墟染みた様相となっている。
時の流れに我が身が朽ちるのを待ち続けているかのような邸の様は、皮肉にも其処で暮らした住人の最後の一人であるヴェインの生き方と似通っていた。思い掛けない符合に薄く笑って、ヴェインは邸から視線を外して歩道を霊廟へと辿る。
かつては特別の祭儀でもなければ皇族とて立ち入る事を禁じられていた〝銀の魔王〟を祀る霊廟の扉は、少しだけ開いていた。
中へ入ると陽光麗らかな外とは一転してひんやりと冷たい空気が肌に触れた。明かり取りすら無い為、開いた扉の隙間から入り込むもの以外に光など何も無く、霊廟内は薄暗い。
空虚な霊廟の中央にただ一つ鎮座する石棺の蓋は閉じられている。石棺の置かれた大人の腰くらいの高さがある架台の端。棺の足下に蹲るように腰掛けて膝を抱えている小さな影があった。
「こんな所で何をしている?」
ヴェインが言うとゼラは俯いていた顔をほんの少しだけ此方へ向けた。祝いの空気に誰も彼もが浮かれ騒ぐ今日のこの日に喧噪とは縁遠い場所など限られている。そう当たりを付けてこの花離宮まで出向いてみたがどうやら正解だったようだ。
「祭典に出席しなくていいのか?」
「ヴェインこそ」
からかうように問いに問いで答えたゼラがくすりと笑う。因みに、要らない者の寄せ集めであるディオールの面々に祭典への出席の義務が無い事も、ヴェインがああいう浮ついた雰囲気を好まない事も皆知っていての返答である。こういう風に返事をするのは、ゼラが質問をはぐらかそうとしている時の常態だ。大方、大勢の人間が集まる祝いの席に表立って参加して場に要らぬ影を落としたくないというのが本音だろう。ゼラの言葉の表と裏くらい、ちゃんと聞いてさえいればヴェインには大体解る。
しんとした霊廟内にゼラの忍び笑いが小さく籠もる。墓所特有の静謐と暗い雰囲気の所為だろうか。谺する微かな笑い声はともすれば死者の啜り泣きのようでもあった。
暫し、泣くように響く忍び笑いが続いた。どうせまた悩んでいたのだろう。ヴェインが先程誤魔化された質問の答えを彼のその態度からそう導き出したのに気付いたかのように、幽かなゼラの笑声が不意に途切れる。ゼラは抱え込んだ膝に乗せた頭を少し傾け、隣の石棺へと視線を動かす。
「……僕のした事は、本当にルキの為になったのかな?」
溜め息めいた、胸を押し潰す鉛のような苦悩を含んだ一呼吸。独り言のようなその問い掛けの向かう先は彼自身の心の中だ。
大切だから、守る為に皇帝の座に押し上げた。だが、其処にフェルキース当人の意思は存在しない。勝手に重責を背負わせ、その自由を奪い取った。幼い弟に選択肢も与えずにそうした自分は、此方の話など微塵も聞かずに反逆の烙印を押した従兄姉等と何ら変わり無いのではないだろうか。
――本当に、それがフェルキースの幸せだったのだろうか?
抑揚の欠けた暗い言葉の数々をゼラが重い吐息を零すように吐き出してゆくのを、ヴェインは其処で聞いていた。
ゼラは言葉を紡ぐ間、一切ヴェインを見る事はしなかった。胸中を塞ぐその問いの答えを、他者に求めていないからだろう。けれども彼の中でその答えが出る事は恐らく永遠に無い。現在のフェルキースが幸せかどうかを己の目線だけで決め付ける事が出来る傲慢さを持たないが故に、ゼラは煩悶を繰り返すのだろうから。
花の香に彩られた春風が小さく開いたままの扉から吹き込む。しかし暖かい筈の外気は霊廟に満ちた秘やかな冷気に触れて、すぐにその温度を失う。
光射す庭園の風景を背にして立つヴェインは、薄闇に包まれた架台に座るゼラへ向けて淡々と言った。
「悩むのはお前の勝手だが、何が幸せかなどその当人にしか判らないだろう」
ならば考えるだけ時間の無駄だ。そんなに気になるのならば直接尋ねてみればいいし、そうするだけの気が無いのなら尚更意味など無い。
幸せの在り方など無数に存在する。当人以外の人間が外から見ただけで推し測れるようなものでもなし、独りで幾ら考え込んだところで答えが出ないのは当然だ。
「ヴェインってば、相変わらず揺るぎないなあ」
格好良いね。そう言ってゼラは仄かに微笑んだ。自らそれを選んでおきながら、いつも後から己の決断や行動を振り返ってはこれでよかったのかと迷いに揺らぐ。そんな自身を卑下する、憂いと自嘲の入り混じって透けた、彼にしては下手な作りの〝笑顔〟だった。
彼女の肩越しに射す光が眩しいのか、瞳を細めるようにしてヴェインを見上げ、だがすぐにゼラは顔をまた石棺の方に逸らした。架台から降ろした片足が床に届かず宙で揺れている。ヴェインの事は見ないまま、さながら其処に己の遺体があるかのような何処か遠い瞳に物言わぬ石の棺を映して、ゼラの口がそっと開かれる。
「…もうね、大分混じり合ってるんだ。魂の奥底の深い部分で。蓋を開けてみて、この石棺にいるのが自分なのか彼女なのか。すぐには判らないくらいには、僕は僕じゃなくなってる」
完全に溶け合ってしまえば、こんな風に思い悩む事も無くなるのだろうか。楽になれるのだろうか。微かな期待と心を苛む計り知れぬ程の不安とを端正な横顔に湛えて言うゼラは、埋葬された己を見下ろすような、薄闇に溶けて消えてしまいそうな風情で、そっと石棺に触れた。
いつになく弱気な発言だ。ゼラの、普段は笑顔の裏に隠して見せようとしない心情の発露。ヴェインはそれを下らないと笑い飛ばすように短く言う。
「まだ、お前はお前だろう?」
日陰となった扉脇の壁に寄り掛かり、両腕を組む。日の当たる場所から少し影に入っただけで体感温度はぐっと下がるが、寒さは気にならなかった。
ヴェインには解っていた。あの時エウリカにその身体を支配されながらも、エウリカがリーファへと放った魔術の威力を意図的に弱めたのが誰なのかを。今も腰に帯びたこの封じの短剣をヴェインがエウリカの――ゼラの胸に突き立てようとするのを援護するかのように、エウリカの行動を阻害していた者がいた事を。
肉体の主導権を奪われながらもゼラは、エウリカがヴェイン達を殺そうとするのを阻止するべく内側から必死に彼女に抗っていた。ゼラのその行いがなければリーファはあの時に死んでいただろうし、エウリカを止める事も出来ずにヴェインも命を落としていたかも知れない。
確かに奥底では二つの魂は混じり合ってしまっているのだろう。だがゼラはまだ彼自身の意思を失ってはいない。仮に身体を乗っ取られていても、ゼラが消えてしまった訳ではない。エウリカと対峙した最中にその事に気付いてしまったからこそ、ゼラのあの微笑がヴェインの心を過ったのだ。
「…殺してくれないの、と訊いたな」
エウリカに代わって戻ったゼラが意識を失う直前に囁いた問い。叶うならば、そうして欲しかったのだろう。いつか、自分が消える前に。
あの言葉はゼラの切なる願いであった。しかしそれでもヴェインは止めを刺す事はしなかった。出来なかったのではなく、自らの意志でそうしなかったのだ。
続く言葉を待っているようなゼラの視線は感じていたが、ヴェインは彼を見つめ返す事はしなかった。天井近くの位置を一周して弔いの気配を強調する花の彫刻がなされただけの、装飾の少ない寒々しい廟内の壁を見遣り、ただ息をする。
互いの呼吸音しか聞こえない静けさ。沈黙。
「もしもお前がいなくなったら…お前が二度と戻って来なくなるようだったら、その時は望み通りに殺してやる」
揺るがぬ想いを、決心をきっぱりと言葉にしてヴェインはあの日の問いに答えた。
雪風に掻き消えるような淡く儚い、寂しい微笑み。思い返している訳でもないのに何故だか決して忘れる事が出来ない。あの悲愴な笑みの持ち主がこの世から完全に失われてしまうその時には。きっと、何の葛藤も無く刃を突き立てられるに違い無かった。
「……酷いなあ。僕は、いなくなる前に貴女に殺して欲しいのに」
「悪いが私にそのつもりは無い」
滲んだ声で冗談めかし、ゼラが小さく笑う。ヴェインはゼラの切望を一言で切って捨てた。其方だってこれまでに人の死に場所探しを散々邪魔してくれたのだから、そのくらいは我慢して然るべきだろう。
「お前が石棺に納まる時が来たら、二度と目を覚ます事が無いよう私が責任を持って墓守をしてやる。だからそれまで大人しく待っていろ」
想いのままに言葉を継いでヴェインは横目で聖骸の眠る石棺を示す。どうせゼラが側にいる限りヴェインの求める栄誉ある死は望むべくもないのだ。ならばこの際妥協して、一蓮托生でも構わない。皇帝よりの命令を遂行しなかったあの瞬間から確固たるものとして固まったこの想いは、虚無感で埋め尽くされている筈のヴェインの心中に不思議と据わり良く納まっていた。
俯く少しの間を置いて、ゼラは顔を上げて笑った。半ば泣いているかのような表情で。
「――…どうせなら、一緒に納まってくれてもいいんだけど?」
精一杯の強がりみたいに完璧に作り上げたいつもの揶揄するような口調と声で言って、ゼラは立てて抱えた片膝に頬を乗せ、俯くように他方を向いた。ヴェインはいつも通り、彼女に嫌われようとするゼラの下らない戯れ言には取り合わなかった。
影の濃淡に沈むような森閑に、屍衣であり自らの為の喪服でもある揃いの漆黒を纏った人影が二つ。二人は互いに言葉を交わす事無く、黙して等しく墓所の薄闇に留まり続ける。
四季を問わず狂い咲く庭園の弔花の香りが届く。
穏やかな春の空の遠くで、祝賀の花火が鳴っていた。




