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シェリスタはアルトナージュ帝国でも指折りの大貴族コーディエ家の一人娘として生まれた。蝶よ花よと褒めそやされて我が儘放題に育ったが、それを疑問に思った事は一度たりとも無かった。彼女にとって欲しいと思う物はそれが何であれ与えられるのが当然であった。
絵に描いたような高慢ちきな貴族のお姫様。それが客観的に見た彼女の評価だったが、シェリスタには取り巻きや使用人達に傅かれる生活は当たり前のものだったし、権威ある大貴族の令嬢である彼女に面と向かって意見するような度胸のある者も周囲には存在しなかった。
豪奢なドレスと色取り取りの宝石飾り。甘いお菓子と何でも言う事を聞く〝友人〟達。ぬるま湯どころか頭の先までとろけるように甘い蜜に浸かっているような、何の苦労も無い華やかな日々。悩みと言えば次の舞踏会で着るドレスはどれにしようかとか、お気に入りの靴が小さくなって履けなくなってしまったとか、そんなたわいもない事柄だけ。とはいえシェリスタが望めば彼女を溺愛する両親が何でも買い与えてくれたので、それすらもほんの一時彼女の心を煩わせる程度の悩みでしかなかったが。
当時の彼女はその事に気付いてすらいなかったが、シェリスタは幸せ過ぎるくらいに幸せだったのだ。自分が幸せだった事をシェリスタが知ったのは、奇しくもそれまで当たり前だと思い込んでいたその幸せの全てが音を立てて崩れ去った後だった。
シェリスタが十六歳になったある日、廷臣の中でも筆頭といえる地位にいた父が亡くなった。いつも宮廷で忙しなく働いていた父は偶の休みに領地へと帰り、趣味の狩りを兼ねての遠乗りに出掛けた先で、不運な事故に遭い、そのまま帰らぬ人となってしまった。
父の訃報を聞いた瞬間、シェリスタは目の前が真っ暗になるという感覚を身を以て思い知った。お父様がどうして。領地へ戻られるのを見送った際は、あんなにもお元気でいらっしゃったのに。
大好きな父の死を信じたくなくて、シェリスタは訃音を知らせに息を切らせた真っ赤な顔で屋敷に駆け込んで来た父の従者を激しく怒鳴り付けた。そんな嘘を言うな。お父様がお亡くなりになる筈が無い、と。
しかし、父は死んだ。その事実は覆らなかった。
変わり果てた姿になった父の遺体が納められた棺に取り縋ってシェリスタは泣いた。涙が枯れ果てる程、泣いて泣いて泣き尽くした。だから、盛大に執り行われた父の葬儀の日にはもう心が悲しみの所為で麻痺してしまって、最愛の夫を亡くして抜け殻のようになってしまった母と二人寄り添い、ただ茫然と、虚ろな人形のように愛する父の永遠の旅立ちを見送る事しか出来なかった。
そして、シェリスタを襲った不幸はそれだけでは終わらなかった。
主を失ったコーディエ家は急速に傾き、大勢いた使用人達は皆逃げるように屋敷から出て行った。シェリスタの美を褒め讃え、まるで彼女の足下に跪くかのような態度を取っていた取り巻き達もまた、表面的な心の籠もっていないお悔やみの言葉を傷心のシェリスタに投げ掛けては彼女の周囲から波が引くように去って行った。その頃シェリスタが母と暮らしていた、常に多くの人で賑わっていた帝都にある別邸はたった数日の内に見る影も無くうら寂れていったのだった。
出て行く使用人の去り際の捨て台詞は、今もシェリスタの記憶の中に残っている。本当に酷い罵倒。亡き父への侮辱に他ならない、恩を仇で返すような知性に欠けた獣にも劣る行い。彼等彼女等はあろう事か、シェリスタの父を死んで当然の人間だと言い放った。
最大の不幸である父の急死に次ぐ不幸。それは父が生前行っていたと目された悪行の数々が明らかになった事だ。突然の事故死は耳を塞ぎたくなるようなその行いの報いだと、使用人皆は口々にそう言い、父親が悪行で肥やした私腹によって贅沢三昧の日々を送っていたシェリスタと母にもいずれコーディエ卿と同じく天罰が下るだろうと言い残して屋敷を去った。
お父様はそんな事はしていない。お父様はとてもお優しい方だった。そんな酷い行いは絶対になさらない。シェリスタは声を枯らして叫んだが、彼女の訴えに耳を貸す者は誰一人としていなかった。
こんな事がある筈が、いや、あっていい筈が無い。父が死んだという悲しみに浸る時間も与えられずに次々と襲い掛かる不幸に、シェリスタは涙ながらに憤りの声を上げた。
――お父様が亡くなられたのは事故ではない。宮廷の中心にいるお父様の存在を妬み、疎ましく思う者による謀殺だ。
落ち着いてよくよく考えてみれば、事故について納得いかない点は幾つもあったのだ。
あの日、父が遠乗りに出掛けたのは自らの領地に在る、然程高くも険しくもない気軽な遊山には最適な低山だった。父に同行した護衛の者や従者の話によれば狩りの最中に山中で霧に惑い、父だけが一行からはぐれてしまったという。そして彼等が漸く父を見付けた時には既に遅く、崖の下で父は血塗れになって倒れていた。
霧で道が見えず運悪く馬が足を滑らせたのだろうとの見解だったが、そんなに都合良く事故が起こり得るものだろうか。聞いた話ではあるが、その日はそう霧が出るような天候でもなかったそうだ。それに、父が命を落とした山にはシェリスタも当の父に連れられて何度か遠乗りに赴いた事がある。山道はそれ程道幅の狭いものではなく、山全体の起伏だって比較的緩やかな方なのだ。何よりも狩りの獲物に勘付かれないようにと少人数で出掛けて行ったその中で、シェリスタの父一人だけが皆の気付かぬ内にはぐれてしまうなんて事があり得るのだろうか。
夫を亡くした現実に堪えきれず心労に倒れた母は伏せってから数ヶ月後、父の後を追うように呆気無く逝ってしまった。シェリスタは本当に独りぼっちになってしまった。
父は殺された。その死は何者かの陰謀だ。独りになってからもシェリスタはそう訴え続けた。話を聞いてくれる者など皆無だったが、此処でシェリスタが声を上げるのを止めてしまえば無実が事実に変わってしまいそうで、口を閉じる事など出来る訳が無かった。
父が可哀想だと思った。あんなに誠意を尽くして帝国に貢献したのに、死して得た対価がこれでは浮かばれまい。
往時には星の数程いた求婚者。彼等はシェリスタに気に入られようと宝石細工の装飾品を送ったり、気の利いた愛の言葉を囁いた。シェリスタの優美な眼差しに掛けられたいと、その美しい微笑みを自分だけのものにしたいと躍起になって競い合っていた筈なのに、コーディエ家に凋落の暗い影が差したのを知ると彼等の足はぱったりと遠のいた。
誰も、本気でシェリスタの愛を欲していた訳では無かったのだ。彼等が欲しがったのはこの美貌と、血筋に備わる家格だけ。だからただの一人でさえ、シェリスタの言葉を聞いてくれようとはしない。本当にシェリスタを愛し、心から妻にと欲していたのならば、父の汚名を晴らそうと孤独に声を上げ続けるシェリスタに力を貸してくれたに違いないのに。
皆、シェリスタを蔑んだ眼で見た。シェリスタが持っていた物は何も残らず、全て指の間を擦り抜けて零れ落ちていってしまった。かつては望むままに何もかもを手に入れて来たのに、今やシェリスタに残されたのは落ちぶれたこの身とぼろぼろの心だけになってしまった。
悲しみと寂しさに泣いた。怒りと屈辱に叫んだ。シェリスタの世界が一変してしまってもこの世には何の変化も無く月日は過ぎ行き、外では昔と変わらずに年が明け、当たり前のように時間は流れた。誰もいなくなったこの暗い屋敷で、いずれはたった一人きりで死んでゆくのだと思っていた。――あの人が、救いの手を差し伸べてくれるまでは。
訪れる者の無くなった屋敷の形ばかり立派な門を叩き、あの人は奈落の底に射し込む一条の光の如くシェリスタの前に現れた。彼女より二つばかり年下で、まだ成長途中の細く頼りない身体付きをした銀の髪の少年。城で開かれた社交界の宴の場でかつて幾度か見掛けた事があるその少年は、まだ若い身空でこの国を治める皇帝フェルキースその人だった。
思いも掛けぬ皇帝の来訪にシェリスタは動転した。だがこれは父の汚名を濯ぐ絶好の機会だとも思った。この機を逃せばもう一生、誰にも相手にされずにシェリスタの孤闘は終わってしまうだろう。シェリスタは死に物狂いで皇帝に直訴した。
フェルキースは無礼な程に率直な、時折涙に閊えて途切れるシェリスタの訴えを最後まで無下にする事無く聞いてくれた。銀と紫苑の左右色違いの瞳で真っ直ぐに彼女を見つめ、彼女の言葉を聞き、静かに頷いてくれた。
周りの口さがない言動も全ては私の不徳の致すところだ。お前には辛い想いをさせた。そう言ってもらった時には感動の余り声も出なくなった。
その上、フェルキースはシェリスタの身の上を不憫に思って城へ来いと言ってくれたのだ。皇帝の直属部隊の一員という地位と仕事、住む部屋を与えてくれた。嬉しくて、幸せで、これまで流してきた涙とは別の種類の涙が溢れた。けれどもシェリスタはそれ等が与えられた事を喜んだのではない。皆が見捨てた何も持たないシェリスタ自身を省みてくれるフェルキースの心遣いが、何よりも嬉しかったのだ。
抱いた感動と感謝は、すぐにフェルキースに対する恋情へと花咲いた。彼の為なら身も心も、この魂さえも喜んで捧げようと誓った。彼の為だと思えば仮令どのような苦行であっても、それは甘く胸を疼かせる恋の痛みに早変わりするのだ。
フェルキースが望むのであればシェリスタは何でもやってみせる。彼が喜んでくれるのならばそれに伴う苦労などは全く厭わないし、もしもフェルキースを害する者がいればシェリスタは其奴を絶対に許さない。愛しいあの人に二度と危害など加えられないよう、地の果てまでも追い詰めて必ず息の根を止めてやるつもりだ。
そして現在。
愛するフェルキースが信心深くも欠かさず祈りを捧げている初代皇帝の聖骸。それが不遜なる賊共に盗まれたと聞いた時は心底驚き、同時にフェルキースの心痛は如何程だろうかとシェリスタの胸中は張り裂けんばかりに千々に乱れた。矢も盾も堪らずに帝都を飛び出し、フェルキースを苦しめる怨敵に裁きの鉄槌を下す為に夜を徹して野を駆けた。その結果が今のこの状況である。
この季節にしては綺麗に晴れている空が妙に苦々しいのは、背中に感じる気配の主の所為に違いなかった。
西の空の麓に立ちはだかるかのようにリューリア山脈がその険し過ぎる稜線を蒼く霞ませている。其方へ向かって道など敷かれていない平原を馬を操り進むシェリスタは苛立つ心のままに背中を振り返り、胸の中の不平と怒りを吐き出した。
「あなたというお荷物が乗っている所為でエスラの歩みが全然進みませんわ!」
エスラとはシェリスタがディオールの所属となった際にフェルキースから賜った彼女の愛馬だ。気高く、賢く、山稜を渡る風の如く走る、姿形も美しい牝馬である。アークスの城壁からでも眺められる西の峻嶮へなど、このエスラの足ならばもっと早く辿り着ける筈なのだ。
「帝都から此処までの間に無理させた所為じゃない?普段のこの子なら僕が相乗りさせてもらったくらいで足が遅くなったりはしないでしょう?」
シェリスタの跨がる鞍の後ろに横向きに座っているゼラが空を眺めてそう言い返してくる。彼のいけしゃあしゃあとした態度はシェリスタの神経を逆撫でしたが、これもフェルキースの為だ。今は我慢しなければならない時だと自分に言い聞かせ、怒号をぐっと呑み込む。
「随分な言い草ですこと。私、エスラに無理などさせていませんわ」
それでも黙して聞き流す事はどうしても出来なくてシェリスタは障り無い程度の反論をして、つんと正面に突き出すように顎を上げた。
昨夜具合を悪くして倒れたとは聞いているが、だからといって何故シェリスタがゼラなどを愛馬に同乗させてやらなければならないのだ。体調が優れないだとか何とか言っているが、どうせ嘘に違いない。アークスには借りられる軍馬など幾らでもいるのだから、大人しく自分で馬を駆ればいいのに。胡散臭い不調を理由にゼラなんかを自らの馬に乗せて連れて行く羽目になった此方の身にもなってみろ。
加減した言葉如きでは腹立ちは少しも収まらず、却ってすっきりしない胸の内に怒りは増すばかりである。この場でゼラを馬から叩き落としてやりたい衝動に駆られたが、今少しの辛抱だ。それもこれも愛しのフェルキースを苦しみの淵から救う為。我慢我慢とシェリスタは己に言い聞かせる。
心頭滅却すれば火もまた涼し。努めて平常心を保とうと深呼吸をする。晴れてはいても冬の空気は肺に冷たく、お陰で怒りの情動に火照った頭も多少は冷えた。
山向こうに見える空を風に運ばれて突き進む雲は早く、その動きがシェリスタに馬の歩みの遅さをより感じさせる。とにかく早く山脈の袂に辿り着きたいのに、思い通りに進まぬ移動の遅れは懸命に抑えようとする苛立ちを徐々に焦りへと変えていった。
いっそ、此処で殺してやろうか。後ろのゼラを窺い見るシェリスタの心中で不穏な感情が鎌首を擡げる。周囲一面を見渡しても、辺りは穏やかな平原と所々に寄り集まって佇む木立の景色が続くだけ。シェリスタ達の他に人影は無い。
シェリスタは初めて会ったその瞬間からゼラの事が大嫌いだった。ただ兄弟であるというだけでそれが当然だという顔をしてフェルキースの傍らに立ち、無遠慮に言葉を交わしなぞするのだ。そのような出過ぎた真似、許せる筈が無いではないか。一体何の権利があってシェリスタが恋焦がれてやまないフェルキースの隣に立つのか。馴れ馴れしい口を利くその傲岸な態度を改めろと何度心で思った事だろうか。
ヴェインを始めとしたフェルキースの側近くに参る事が許されている同僚達がシェリスタの行き過ぎた嫉妬心と独占欲に呆れているのは知っていた。だが血の繋がりが何の理由になろうものか。誰がどう言おうと、仮令どれだけ莫迦にした眼で見られようと、あの人の傍らに立つのに相応しいのは自分であって、決してゼラのような歪んだ人間ではないのだ。
人知れず気色ばんでシェリスタは帯剣している愛用の細剣に手を伸ばした。記憶の小箱に大切に大切に納めてあるフェルキースのこの上無く優しい微笑みが瞼に浮かぶ。ゼラの存在から解放されたフェルキースが彼女に向かって笑い掛けてくれる様を想像し、歓喜に震える唇からはうっとりとした吐息が洩れた。
神々の住まう天上の楽園に立ち込めるという乳白色の甘やかな霧に包まれるような心持ちで笑みを浮かべるシェリスタ。その想像――あるいは妄想――を台無しにして打ち壊すような少年の声にシェリスタははたと現実に立ち返らされる。
「ねえ。さっきから考えてる事、全部口からぽろぽろ零れてるよ?」
声音に混じる笑いにシェリスタは顔を耳まで赤くした。実際にはその笑いはゼラの表すものとしては珍しいくらいに和やかで温かなものだったのだが、シェリスタにはそれは紛う事なき揶揄や嘲笑であり、彼女に対する侮辱でしかなかった。
「なっ!?し、淑女の独り言を盗み聞きするだなんて恥をお知りなさい!」
「そんな事言われても、僕だって聞こうと思って聞いていた訳じゃないし。そもそも聞かれたくないならもっと小声で呟いた方がいいと思うけど?」
「お、お黙りなさい!無礼者!!」
シェリスタは空にまで響き渡るような怒声を発した。羞恥に歯噛みをして、やたらと楽しげに笑っているゼラを視線で刺し殺すように睨め付ける。
「シェリスタのそういうところ、結構嫌いじゃないよ。良くも悪くも素直で正直で、隠そうとしている裏側まで全部丸判りで……だから却って安心出来るんだよね」
くすくすと笑うゼラが尚もきつく彼を睨んでいるシェリスタを見つめ返してきた。仄かに優しさようなものが漂うその表情が思いの外フェルキースに似ていて、シェリスタはそんな事がある訳が無いと全力で首を振り、愛しの君への冒涜にも近しいその考えを追い払った。
「よろしいですこと!?大体あなたという人は――!!」
そのままゼラの喉を喰い破らんばかりの激しさで身体を捻って其方へ上体を乗り出す。口を衝いて出るあらん限りの罵倒を並べ立ててやろうとシェリスタが淑女とは程遠いような大口を開けた瞬間、エスラが急に驚いたように嘶き、勢い良く後肢立ちになった。
「きゃっ!?」
体勢が悪かったのに加え、突然の事に均衡を崩してシェリスタは鞍上から投げ出されてしまった。地面に放り出され、剥き出しの肌の部分に擦過の痛みを感じた。側では馬の背から落ちる寸前に自ら跳んで無事に着地を決めた憎々しいゼラの姿がある。
「一体何事ですの?」
ぼやいて身体を起こしたシェリスタの視界を一筋の軌跡を描いて何か小さな物が通り過ぎた。脇の林から投げ付けられた礫がエスラの尻を打つ。エスラは再び大きく嘶いてシェリスタ達を置き去りに走り去って行く。礫の当たった場所は違えども、察するに先程も同様の事が起こったようだ。
止める暇も無く遠くへと駆けて行くエスラと入れ違いに、近くの林の中から十人前後の男達が現れる。木立に隠れてシェリスタ達がやって来るのを待ち伏せしていたようだ。男達は一様に垢染みた毛皮の衣服を着込み、野卑な人相を品の無い笑みに染めている。
「……此処は賊が出る予定の場所ではなくってよ」
シェリスタの胸元やスカートから覗く足を嫌らしく視線で眺め回しては舌舐めずりをする連中に冷たい眼をくれ、シェリスタは腰の細剣を抜いた。
下劣で品性に欠ける野蛮な男達。いつ出会っても思うが、こういった手合いには即座に斬り捨ててやりたいくらいの嫌悪を覚える。同じ男性という括りでありながらどうしてこうも違うのか。フェルキースとは比べる事さえ厚かましい卑しい男達を前にシェリスタは想い人の素晴らしい人柄や佇まいを思い浮かべつつ、しなる細剣を、ひゅっ、と一振りさせて応戦の構えを取ってみせた。
大貴族のお嬢様育ちともなれば、教養の一つとして剣術の一つも修めているのだ。細剣の切っ先を此方を取り囲むように居並ぶ男達へと颯爽と向け、シェリスタは自慢である薔薇色の髪を肩先へと払い除けた。
「先に言っておきますわ。私、あなたの事を庇って差し上げるつもりは微塵もございませんの。この期に及んで体調が優れないなんて言い訳は通用しませんことよ」
振り向きもせずに後方に立つゼラへそう声を掛ける。ゼラは数拍の間を置いてから応えた。
「――そうだね」
いつも通りの斜に構えた嫌味な感じの声にシェリスタは反感から鼻を鳴らした。その瞳は男達の動きを窺うように其方へだけ向けられている。それ故に、彼女は気付かなかった。
ゼラが発した声は日頃と変わらぬ、シェリスタにとっても聞き慣れた笑みの響きを持っている。しかし、その表情は著しく異なっていた。
ゼラは笑っていた。だがそれは例の艶然とした微笑ではない。
浮かべられたその微笑みは何処か哀しげな、それでいて覆しようの無い絶望的な現実に慣れて擦り切れたかのような、諦念に彩られた悲愴なもの。
長めの前髪の下に隠れて伏せられた銀の瞳がシェリスタの背をそっと見つめている。けれども突如現れた賊と思しき男達と向かい合うシェリスタからは彼の顔は見えず、彼女がゼラのその奇妙な表情に気付く事は、最後まで無かった。