5.チコ
目を開けると、そこは小さな部屋の中だった。
暖炉の火の爆ぜる音が、やけに大きく響いてくる。
チコは慌てて周囲に首を巡らせた。
小さめの家具は木造りで、窓には緑のカーテン。
小さな暖炉には暖かな火が燃えていて、チコは窮屈なイスに身体を縮めて座っていた。
目の前には、七色のスープがなみなみと、スープ皿いっぱいに揺れている。
テーブルクロスは染み一つない白だった。
クロスを捲って、足元を覗いてみても、白い兎はどこにもいない。
目の前を歩いていたバクは、跡形もなかった。
夢の中で夢を見たのだろうか…?
軽く頭を振ってから、再び視線を巡らせた小さな室内には何の気配もない。
チコは一つ息を吐くと、テーブルに凭れるように肘をついた。
目の前では、相変わらず虹色の液体が揺れている。
どうしてココに居るの?
黒猫と白兎の言葉が頭の中に甦った。
「還っても何もないもの」
虹色のスープをただじっと眺めながら、無感情にチコは言う。
白い記憶の中、言葉以外は何も浮かんでは来ない。
君は誰なの?
「私はチコ。…それだけ」
小さく息を吐き出すと、吐息に揺れる七色の水面に視線を落とした。
一瞬、その七色が大きく揺れる。
中心から何十もの円を描いて、やがて水面は静かになった。
目を瞬いて、チコはスープ皿を覗き込む。
色のない世界に、同じような制服を着た少女達が映っていた。
教室なのだろう。
机やイスが並べられ、その所々に集まって少女達は楽しそうに何か喋っている。
声は聞こえてこないその映像にチコは見入っていた。
…ああ。
チコは理解する。
ここは私の居た場所だ。
映像が、カメラがズームアップするかのように近付いた。
周りと同じく、楽しそうに笑い合う少女が映った。
「…どうして笑っているの」
その映像をじっと見つめていたチコの口から言葉が漏れる。
映像の中、白黒の少女はやはり楽しそうに周囲の少女と談笑していた。
どうでもいい会話。
面白くもない話。
周りが笑うから、合わせて笑う。
チコは僅かに唇を噛んだ。
これは私だ。
再び、水面が揺らいだ。
スープ皿の中で、今度は少女はテーブルについていた。
モノクロの料理がたくさん並んだテーブル、4つのイスには3人の人影。
一人は少女、あとの二人は中年の男女。
女が何かを言っている。
男も、何かを言っていた。
少女は、ただ黙々と箸を進める。
それも、見覚えのある光景だった。
「父さん、母さん」
疲れたように、チコは息と共に吐き出した。
自分の事を分かろうとしない両親。
子供の言う事なんか、と耳を貸さない父。
ああしなさいこうしなさい、押しつけるばかりの母。
私は言葉を持たなかった。
水面が揺らいで、少女はベッドに腰掛けていた。
何をするでもなく、ただ座って中空を見据えている。
その表情には、何も浮かんではいなかった。
ゆっくりと一度目を閉じると、足を引き上げて抱え込む。
自分の膝を抱いて、少女は固く目を瞑った。
薄墨を溶かすようにモノクロの世界は滲んで、やがて灰色に染まる。
ぼんやりとそれを眺めていたチコは、少女と同じように目を閉じた。
「あれが私」
小さく唇を動かしながら言葉を吐き出す。
目を開ければ、目の前のスープ皿には元通りの虹色が揺れる。
そこには、揺れる水面に乱されながら、つまらなそうな顔をした自分が映し出されていた。
チコはスープに映りこむ自分自身をゆっくりと観察する。
肩までの黒い髪、少しそばかすの浮いた白い顔。
二重の大きい瞳は、今は細められて面白くなさそうにこちらを見返してくる。
幼くも見えるその表情に、しかし若さに満ちた生気は覗えなかった。
「思い出したのかい?」
掛けられた声は、聞き覚えのあるものだった。
顔を上げると、ドアの所で直立した黒猫がこちらを見ていた。
黒猫は立ったままこちらに向って歩いて来る。
バランスを取るように尻尾が左右に揺れた。
歩いてきた黒猫が、身軽に跳び上がってイスに落ちつくのを待って、チコは肘をテーブルから下ろす。
前に座った黒猫を正面から見つめて、頷く代わりに溜息をついた。
「…どうでもよかったの」
黒猫の髭が揺れる。
先を促すように、黒猫は言葉を発しない。
チコは、再びスープに視線を落としながら言葉を続けた。
「毎日面白くなかった。何にもなくって、どうでもいい日常。周りに流されて、自分なんてどこにもなかった。…このまま、私なんていなくなってもいいような気がしたの」
揺れる虹色に映りこむ少女は、淡々と言葉を紡ぐ。
「何もかも、別にどうでもよかったのよ」
言葉を切ると、顔を上げた。
チコの目の前で、黒猫の丸い瞳はくるりと大きく回った。
しばらく何かを考えていた様子の黒猫は、ぱたぱたと尻尾を揺らすと首を傾げた。
「それで、君はここに居るの」
「ここが何処か、分からないけれど」
逆に首を傾けながら、チコは言う。
「…もしかして、私は死んだの?」
何の感情も篭もってはいないチコの問い掛けに、黒猫は答えなかった。
代わりに、食い入るようにチコの瞳を見つめてくる。
「君は、自分が嫌いなのかい?」
「…好きじゃないわ」
首を振りながら答える。
またしばらくの沈黙が続いた。
「じゃあ、君の周りの人達が嫌いなのかい?」
黒猫の問いに、チコはモノクロの映像を思い出した。
深くは付き合っていなかった友人達、父と母。他にもほとんど会話した事もないような担任や、随分前に家を飛び出してしまった兄。
それぞれの顔を頭に浮かべてから、チコはゆっくりと首を振った。
「別に。どうでもいいもの」
「…チコは、どうでもいい病なんだ」
ふいに違う声が答えて、チコは弾かれたように辺りを見まわした。
「どうでもいい、なんて言葉で全てを諦めて、自分だけ分かった振りをして」
「…あなた」
声の主を探していたチコは、ようやくスープの中に映る兎を見つけた。
さっきまでチコが映りこんでいた虹色の中で、今は白い兎が揺れている。
「チコ、君は一人では生きてなんていけないんだよ。だから、どうでもいいなんて言わないで」
「…どうしてそんな分かったような口をきくの」
僅かだけ、眉を顰めて白兎を睨む。
スープの水面に揺れる兎は赤い目を細めて笑ったようだった。
「だって、チコのことは何だって知っているから」
チコは困惑を込めた瞳で兎を覗きこんだ。
「誰も自分を分かってくれない。…そんなのは当たり前さ。だって、誰もチコにはなれないんだから。チコだって、誰かにはなれない。違う生き物なんだもの。分からないのはごく自然なことさ」
言葉を区切ると、揺れる水面から兎はチコを見上げる。
「君は少しでも近付く努力をしたのかい。ニセモノの君を脱ぎ去る勇気を持てたのかい」
チコはただ、唇を結んだままに白兎を見下ろした。
「諦める前に、とことんもがいてみたかい。…違う考えを持った違う生き物なんだもの。食い違う事だって、すれ違う事だって、衝突する事だってあるさ。だけど、諦めてしまったら、ただ流されるだけの『どうでもいい』チコになってしまう」
兎は耳を倒した。チコを見上げて、鼻を引くつかせる。白い歯が覗いた。
「君は君で居ていいんだよ」
途端、虹色の水面は白い兎の姿を掻き消した。
代わりに、固い表情のチコが映る。
数度目を瞬いてみても、もうスープ皿の中に兎は居なかった。
顔を上げると、黒猫は相変わらずチコを見つめていて、目が合うと尻尾がゆったりと動いた。
「私…、私、どうだってよかったの」
何かを言わなければいけない気がして、チコは懸命に言葉を探した。
「自分も他人も、何にも、全部。私の日常はつまらなくて、何にもなかったから」
黒猫のはしばみ色の瞳は、ただじっとチコを見ている。
尻尾はゆったりと揺れていて、やがて猫の身体に巻きついて止まった。
「目を瞑っていたら、何も見えやしないさ」
首を傾げてチコを見遣る。
「どうでもいい、なんて魔法の言葉で瞳を閉ざして見ようとしない。面白い事だって、綺麗なものだって。案外、つまらない日常の中に溢れているもんなんだ。何もなかったとしたら、それは、君には見えていなかっただけ」
どこかで聞いた言葉だと、チコは思った。
「それだけじゃない。君が生きている日常には奇蹟だって満ち溢れているんだ。だって、君の存在こそが奇蹟なんだから」
チコは目を瞬いた。
「君が生まれて、君としての自覚と自我を持って、日常を生きている。君が君として生まれてくる確率がどれほど低かったか分かるかい。今いる君は、それだけで奇蹟を手に入れているんだよ」
一息ついて、黒猫は毛繕いをする。黒い毛に覆われた腕を片腕づつ持ち上げて舌で整えた。
「私は…」
「何もないなら、探せばいい。つまらないなら楽しい事を。しっかりと目を開いて、美しいものもたくさん見て」
言葉の続かないチコに、黒猫はちらりと視線だけを向けて言う。
しっかりと毛繕いを続けながら、腕で引き寄せた尻尾の先を丁寧に舐める。
しばしの沈黙。
黒猫が顔を上げると、チコを覗き込むように首を傾げた。
「ここには何も無いよ。安らぎ以外は、何もね」
チコは黒猫を見返した。
黒猫の瞳は、どうするの、と問いかけるようにチコに向けられている。
僅かな逡巡の後、チコは一つ頷いた。
「ここに居ても、つまらないものね」
その言葉に、黒猫は髭を揺らして小さく笑ったように見えた。
「そのスープを飲んでごらん」
黒猫はチコの前で七色の光を柔らかに拡散させる液体を示した。
「大丈夫。今の君なら、還れるさ」
チコはおそるおそる小さなスープ皿を手にすると、それを持ち上げる。
鼻を寄せてみても、特に匂いはしなかった。
「さあ、一気に飲んで。そろそろ日が昇る。ここは夜にだけ在る場所。君はもう還らなくては」
黒猫の言葉にチコは唇に冷たいスープ皿をあてがった。
意を決して液体を喉に流し込む。
予想に反して、スープからは懐かしい味がした。
目に映る、黒猫のいる風景がゆらりと揺れて、チコは目を閉じる。
海に満たされるような、身体の中で潮騒を聞くような、とても心地よい感覚に包まれた。
頬を風が撫でていく。
瞼の裏でちらちらと跳ねる光が眩しくて、身を縮めた。
「…チコ、紗智子。遅刻するわよ」
聞き慣れた声が聞こえて来て、紗智子は薄く目を開ける。
布団の中だった。
顔だけを出して、まだ半分寝惚けた頭で周囲に視線をやれば、そこは自分の部屋。
窓が大きく開いていて、ベランダにエプロン姿の母がいた。
洗濯物を干しながら、こちらに顔を向ける。
「朝ご飯、下に用意してあるから。ちゃんと食べて行きなさい」
どこかで見たような光景だ。
不思議な感覚を感じながら紗智子は布団から這い出る。
もう一度母を見遣ってから、紗智子は首を傾げた。
どこかで見たも何も、毎日みている光景ではないか。
「どうしたの?」
自分を見ている娘の姿に、干す手を止めて母親が尋ねた。
「ううん。なんでもない。…おはよう」
乱れている髪を片手で梳かしながら言うと、何となく、ベランダへと近付いていく。
明るい陽射しが、風に揺れる洗濯物の合間からちかちかと部屋に降り注いでいた。
不思議な夢を見た気がする。
眩しさに、額に手を翳して外を見る。
2階のベランダからの眺めはいつものままなのに、どこかいつもよりも眩しく思えた。
ふと、門灯の横に黒い姿を見つける。
丸まった黒猫は、一瞬、ちらりとこちらを見上げたようだった。
そのまま、大きな口をあけて欠伸をする。
口の中まで見える大欠伸に、紗智子は思わず小さく笑ってしまった。
「紗智子。遅刻するわ」
咎めるような母の声に、慌ててベランダから撤退する。
時間を確認すると、確かにぎりぎりの時間だった。
急いで服を着替えて階下に降りて行く娘の後姿に、母親が声を掛ける。
「ちゃんと食べていくのよ」
背中に聞こえる母の声に、はーい、と返事を返しながら紗智子は階段を駆け下りていった。
この話はこれでおしまいです。
読んでくださって、ありがとうございました。
貴方の心に少しでも、何かを残せたなら本望です。