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翌朝、ルーカスが目を覚ますと、途端に目に飛び込んできたのは間近でにっこり微笑むレネの顔だった。レネは寝台脇にしゃがみ込み、頬杖をついてルーカスを見つめている。
「うわっ!? レネ!?」
驚きすぎて思わず大きな声が出る。眠気が一気に吹き飛ぶ。
「おはよう、ルーク」
レネは嬉しそうに言い、優しい手つきでルーカスの頭を撫でる。
「よく眠れた? 疲れは取れたかな」
「あ……おはよう。よく眠れたよ。疲れは大丈夫」
「ならよかった」
レネの手が頭から頬に下りていき、ルーカスの形を確かめるように撫でた。頬から伝わるヒヤリと冷たい感触は、すぐに温かな熱に変わり、心地良さにもう一度目を閉じて寝てしまいたくなる。
「今日も可愛いね、ルーク」
レネに甘い響きの声で囁かれるや否や、ルーカスは我に返った。
(何だ、この雰囲気)
原因はレネだが、漂う空気が甘すぎる。どう考えても昨日会った人間に対する態度じゃない。
伴侶にすると言った手前、いつ何時どんな精霊が様子を見に来るかわからないためにある程度仲良くしなければならないとはいえ、ここまでやらなくてもいい気がした。おまけに、レネからは本気の好意を感じる。これまで恋愛経験が皆無だったルーカスには、レネの好意が恋情によるものなのかは全くわからない。
これが小さな子どもに対するような愛情なのか、それとも友情なのか、それ以外の何かなのかまでは判別できない。
ルーカスはレネの手をさりげなく退かすようにして体を起こすと、寝台から出た。
「これ、着替えだよ。きみが僕の寝巻きを着たところを見て、暫時だけどおおよそで袖と裾を詰めてみたんだ」
「ありがとう」
どうやらルーカスが眠った後、レネが着替えを用意してくれたらしい。ルーカスは礼を言って受け取り、手渡された衣服に着替えた。
ルーカスが着替え終えると、続いて椅子に座るようレネに促される。何かと思えば、ルーカスの髪を整え始めた。絡まりをゆっくり手ぐしで解いて、丁寧に櫛で梳く。それから、何かをし始めた。何をしているかまではわからない。
「今って、何時?」
ルーカスは横目でちらりと窓に目をやる。カーテンが開け放たれた窓の外には、重く垂れ込めた雪雲が広がっていた。晴れ間など想像できないような厚い雲は、大粒の雪を降らせている。明るさから日中であることはそれとなくわかるものの、太陽が見えないために大体の時間すら測れない。
「お昼の少し前くらいだよ」
どうやら思いの外眠っていたらしい。これまでのルーカスなら、遅くとも八時までには目を覚ましていた。やはり、よほど疲れていたのだろう。
「ごめん。寝過ぎたよな。その……もし、俺がなかなか起きてこなかったら、叩き起こしていいから」
「そんなことしないよ」
レネは小さな笑い声を上げる。
「寝過ぎではないよ。ここではきみの好きなように過ごしていいんだ。眠りたかったら一日中眠っていてもいい」
「流石に一日中眠ったりはしないよ」
「ふふ。そう?」
レネはルーカスの髪を整え終わったようで、「はい、できたよ」とやんわりとルーカスの背を叩く。
ルーカスは手を伸ばし、そっと後ろ髪に触れた。三つ編みだ。
と、レネが後ろを向き、自らの後ろ髪をルーカスに見せながら、声を弾ませる。
「僕とお揃いにしたんだ。きみもこんな感じになってるよ」
背の中ほどまで伸びるレネの長髪は、後頭部から一本の三つ編みにされていた。編み目は緩い。髪と一緒に、透き通った小さな青い石と白色のリボンが組み合わされた飾りが編み込まれている。
「鏡で確認する?」
「あ、いや、大丈夫」
妙に気恥ずかしくなって、レネから視線を逸らして遠慮する。
「何か食べる? きみの分のご飯、作ってあるよ」
「食べる」
そうして、二人で居間に行く。居間は昨日と同じで、心地良い暖かさに包まれている。
ソファーに座って待っているようルーカスに言い残してレネが部屋から出ていき、間もなく食事の乗った盆を手に戻ってきた。
「ここって、食事室はないのか?」
レネが用意してくれた食事をとりながら、ルーカスは何の気なしに問いかける。
昨日と同じくルーカスの隣に腰掛けたレネは、「あるよ」と即答した。
レネは昨日も今日も、ルーカスに食事を取らせるにあたって、食事室には案内しなかった。てっきりこの家には食事室が無いのかと思っていたが、そうではないらしい。ただ単に、レネが食事室を使わないだけなのかもしれない。
「レネは食事室を使わないのか?」
この問いも、何の気なしに口についた疑問だった。ルーカスが問いかけた瞬間、レネは曖昧な笑みを浮かべる。困ったような表情で頬をかき、少しの間を置いてから、答える。
「食事室より、居間や寝室や書斎で食べる方が好きなんだ。きみは食事室で食べたかった?」
レネの発言がよほど考えた上での発言であることも、何かを言うか言わないか迷った末に結局言わなかったこともうっすら察した。
食事室に何かあるのだろうか。気にはなったが、レネが言いたくない何かを無理に深掘りする気にはなれない。
「食事室じゃなくても、食べられるならどこでもいい。別に気にしない」
「そう? なら良かった」
沈黙が落ちる。これまでにないほど気まずさを感じる。手を止めることなく食事を取りながら、必死に頭を回転させて別の話題を探す。
ルーカスが新しい話題を見つける前に、レネが開口した。
「ああ、そうだ。ルーク、家族に連絡するかい? 無理やり北部の調査を命じられたんだから、きっと心配しているだろう」
ルーカスは黙り込んだ。食事を取る手がぴたりと止まる。顔が強張っているのを感じる。
どう説明したらいいのだろう。心配する家族などいないから、連絡は必要ないと言えばいいのだろうか。うまい言い訳が出てこない。すでに不自然に動きを止め、黙り込んでしまった。今更何でもないふりをして適当に連絡がいらない理由を作ったところで不審なだけだ。
家族のことを話すなら、必然的に現在の身の上のことも話さなければならない。自分は精霊研究の実験台であると。強大な力を行使できるルーカスを恐れたのか持て余したのか何なのか、精霊の集いに乗り込ませられて処分されかけたのだと。
「……連絡は必要ない」
ルーカスの口からは緊張しきった硬い声が出た。明らかに不自然だったが、レネは「そうか」とだけ言い、それ以上深掘りすることはなかった。
一方的な気まずさを感じながら、朝食を食べる手を再び動かし始める。結局、食べ終わるまでにレネの方を見ることはできなかった。